賀川豊彦の畏友・村島帰之(186)−村島「愛の使徒:賀川豊彦の生涯」

   昭和26年7月15日「世の光」第4号



   病苦をひっさげて神と人類のために今も闘う

   愛の使徒 賀川豊彦の生涯
                        村島帰之


 キリストに近い人

 一九三一年八月カナダのトロント市に聞かれた基督教青年会万国大会の晴れの開会式の式場で六尺豊かな議長ジョン・Rモットは一人の丈の低い東洋人を壇上に紹介してこう叫んだ。世界の四十数か国の代表を前にしでである。
 『現代の世界においで基督に最も近い人を求めよといわれるなら、わたしはこの人を推薦するであろう。日本代表賀川豊彦博士!』
 世界には無数の指導者が存在する。しかもその多くは自身が象牙の塔に居り、もしくは安全地帯を一歩と出ないでいて、巷の民衆を筆先と口先とで指導しようとする。こうした中にすぐれた理論を持ち同時に逞しい実践性を備えて挺身街頭に立って、大衆を率いる指導者賀川博士の存在は、世界の基督者の誇りである。賀川博士こそは、基督を受肉して現代に実践する贖罪愛の行者というべきである。モット博士の言葉はそういった意味に聞かれて式場の一隅に小さくかたまっていた私達、賀川の国―日本の代表は、急に肩身の広くなった様な思いがしたことを覚えている。賀川の十数年にわたる貧民窟での働き、資本家および極右極左労働者を向うに廻しての社会運動、震災その他の非常時における臨機の救急救護事業、軍閥弾圧下の平和運動、そして年久しきにわたって続けられて来た精神運動と社会事業と教育事業等、それらはみな不断の十字架の道であった。この十字架の実践があったればこそ、民族的優越感を持つ外人さえもが「現代における最も基督に近き人」として、この一小島国の指導者を世界の代表者の前に推奨して敢えて憚らなかったのである。ただにモット博士だけではない。世界至る所賀川礼賛の声が聞える。これは内地の人々の予想以上のものがある。特にアメリカでそれが甚だしく彼を迎えて新聞は『光東方より来る!』と大標題をかかげ「ガンジーかカガワか」を論じる。筆者の誇張と思う人があろうが事実はあくまでも事実である。アメリカのハイスクールのテキストには「カガワ、イン、スラム」の一章がのって居り、ロサンゼルスの山手には「カガワ、ストリート」と呼ぶ街さえあるのを筆者は実地に見て来た。今日のアメリカでの声価は往年のトーゴ―、ハヤカワ、ノグチの比ではない。私は一九三一年夏大阪毎日新聞特派員としで、賀川と同道アメリカ各地を歩いた。彼は来る日も来る日も壇上に立ったが、一日に四回、五回の講演が普通になっていた。しかも毎回立錐の余地なき盛会であった。「カガワというのは、一体どんな男だろう」そう思ってアメリカの老若男女は、彼の出演会場や教会へ自動車でかけつける。やがて壇上にあらわれた賀川を見ると、五尺二三寸の倭躯、これは日本人である限り当然だとしても、顔の色も青白く、トラホームの眼をまぶしげにまたたいて、くたびれた流行遅れの服を身にまとう貧しげな肉体の持主、これが世界に喧伝せられるカガワなのか? 彼らは小首をかしげる。だがそれは一瞬間で、やがて賀川はおもむろに口を開き、口ごもりつつも語り進むうち、カガワの倭躯はいつか巨人の姿と変わり、聴衆は恍惚として彼の言葉の虜となる。そして賀川が語り終わった時、聴衆はホッとして異口同音に叫ぶ。「オーワンダフル」

  結核休火山

 外国人は前記の様に屡々「光は当方より来る」の対句としで「賀川かガンジーか」というが、この東方の光が二人ともに旧来の偉人の型を破って、少しもエネルギッシュな所もなく寒々とした貧しき肉体の持主であるのも一奇だ。賀川は、十二才の少年時代から幾度か結核のため死線を彷徨し、その都度ふしぎに癒された、否癒されたと過去のものにしてしまってはならない。彼は還暦を過ざた今日でもひどい無理をすれば病気の再燃を見るのだから、過去完了の「死火山」ではなく、また進行形の「活火山」でもなく、いわば、いつ爆発しないとも限らぬ「休火山」である。
 発病以来今日まで五十年、ふしぎにささえられて来たのは何によるのか。今日の様に結核医学も発達していなかったのだから、治療法がよかったとは偽にもいえない。では病のたちがよかったのだろうか。環境がよかったのだろうか。それもある。又彼が貧民窟で行った自然療法は確かに結核治療に役立ったに違いない。それだけでは決してなかった。私は敢えていう。賀川が「死線を越えた」のは彼の逞しい精神力の賜物であった。彼の信仰が彼の結核を征服したのだ。或る人はいう。『賀川さんの様な人は特別だ、例外だ。賀川さんの病気の癒されたのはあの異常な信仰があったからのことだ』と、確かにその通りである。仮に賀川の足跡を慕って貧民窟に植民する結核青年があったとしても、その病気が賀川と同じ様に貧民窟で軽快するものとはきまっていない。彼の過去五十年採り来った闘病法そのものは、だから誰でもがそのまま踏襲して、それで効果があるというものではない。ただの強き精神力と信仰とが、医薬だけでは癒し難かったので、彼の痼疾を癒したという活きた事実を賀川豊彦闘病五十年の足跡から学び取り、聖書の「汝の信仰汝を癒せり」という言葉の真実な事を悟って各自の闘病の心構えとして身につくべきである。

 <三べん主義> 汽車の窓から人のアタマをふんずけて乗るのが、戦後のエチケットであった。その頃各地の招きに応じて、賀川豊彦の講演行脚がつづけられた。彼はいつも弁当と一緒に携帯用の布製ベンチと便器をもって旅した。それを自分で「三べん主義」と呼んだ。

 筆者は元毎日新聞記者。信仰者として社会運動の闘士として、三十有余年賀川豊彦氏の身辺にある人。近くその快著「賀川豊彦病中闘記」がともしび社より出版される。

(この紙面には「ともしびシリーズ5」として「7月末発刊!」「世紀の人・賀川豊彦先生の血みどろな五十年にわたる闘病記録ついになる! これは正に全世界の病者・弱者に贈る希望と慰励の書である。御期待乞う!」とあって、書名は前記と同じく「賀川豊彦病中闘記」とあるが、実際の書名は「賀川豊彦病中闘史」となって世に出た。)


「カガワ街の標柱の下に立つ賀川氏(右)と村島氏」の写真をもう一度スキャンしておきます。