賀川豊彦の畏友・村島帰之(187)−村島「わが友の人間愛」

   掲載紙、年月日不明

         

   現代の聖者・賀川豊彦   わが友の人間愛―死後50日、初公開の秘話
     44年間の親友・平和學園園長   村島帰之

 去る四月二十三日、賀川豊彦氏は心筋コウソクのため七二歳の生涯をおえた。氏は世界的な宗教家として、博い人類愛はだれからも尊敬されており、その遺志は死後もなお生きている。集まった香典をもとに、賀川基金をつくって貧しい学生に奨学金を与える遺志がそれだが、生前四十四年間にわたって親交をかわした村島帰之氏が、知られざる賀川豊彦氏の人間愛を語るエピソードを本紙によせた。

 聖書には「あなたのあだを愛しなさい。あなたをにくむ者を愛しなさい。あたたをのろう者を祝しなさい」ということばがある。しかし、自分をかわいがってくれる人を愛することができても、自分をのろい、にくんでいるものをかわいがるなどということは、とてもできるものではない。
この敵をも愛する愛を実行した、一人の日本人を私は知っている。それは、四月二十三日になくなった賀川豊彦先生である。
 賀川先生は今から七十一年前、神戸に生まれた。五歳のとき両親を失い、徳島の義理の母のもとにひきとられたが、少年時代から多感で涙もろいたちだった。
 十四歳の秋、徳島の町にあったアノリカの宣教師マヤス博士のもとで英語の勉強を始めたが、ある夕方、急に悲しくなっですすり泣きをはじめた。と、マヤス博士は黙って賀川先生を戸外へつれだし夕日にむいて立たせていった。「あなたの涙を夕日でかわかしなさい。涙がかわいたら、また勉強をはじめましょう」
 両親のない賀川少年には、このマヤス博士が父のようになつかしく思われた。バイブルクラスにも出席するようになったが、マヤス博士は、少年に聖書の一節(ルカ伝十二章)を英語で暗記させた。「野の花のことを考えてみるがよい。紡ぎもせず、織もしない。しかし栄華をきわめたソロモンでさえこの花ひとつほどにもきかざっていなかった。きょうは野にあって、くださるなら、あなた方にそれ以上よくしてくださらないはずはない」
 賀川少年はこの聖句を暗唱してゆくうち、希望の光がサッと心の中にさしこんでくる思いがした。
 十五歳の年の二月二十一日、賀川少年は洗礼を受け、マヤス博士の指導で神戸の神学校に進んだ。
 貧しい人の友となるには、自分も貧しさの中で生きねばならない――賀川先生がこう語ってこじきやよっぱらい、不良少年やゴロツキの住む街にひっこしていかれたのは、明治四十二年十二月のクリスマス前夜のことだった。
 松井という沖仲仕がいた。松井はあるとき、酒のいきおいで仲間を一人殺した。松井はあるとき、酒のいきおいで仲間を一人殺した。その仲間がゆうれいになって出るといって、松井は昼間から酒をのんでは乱暴を働いたので、だれも相手にしない。しかたなく松井のころがりこんだ先が、賀川先生のところだった。
 先生に接するうち気もおちついたのか、松井は酒をのまないときはしごくまじめになった。先生が夜説教に出るときなどいつも提灯をもって先導し、説教をじゃまするものにはムキになってしかりつけた。ところが、一度酒がはいると手がつけられない。
 松井は、酒がのみたくなると先生や春子夫人にウソをいって金をせびった。しかしそれが酒代になるとわかると先生も夫人も金を与えない。すると松井はあばれだした。ある晩など、笑ってとりあわない懐妊中の夫人の顔をいきなりゲンコツでなぐりつけ、夫人はひたいから血を流した。
 ちょうどいあわせた長谷川という牧師が“もうがまんならん”といって松井をとりおさえ、警察につれていゆうとした。
 それを見ると春子夫人は、長谷川牧師の手をおさえ、血を流しながらもどうかカンニンしてやってと頼んだ。
 「いいえ、いけません。こんな恩知らずは・・・」
 といって長谷川牧師がむりに松井をつれだそうとしていると、奥でこのさわぎをききつけた賀川先生が長谷川牧師にひきとめた。
 「長谷川君、聖書にはなんて書いてある。汝のあだを愛し、のろうものを説し・・とあるのを君は忘れたか」
 そういって牧師の手から松井をひきはなしてやった。
 しかし松井は、その後もいっこうに改心しないで乱暴をつづけていた。しかし先生のところの新ちゃんという看護婦にはけっして手を出さなかった。かつて、背負い投げでイヤというほどたたきつけられたからだ。松井は、弱い人やめったに警察などつきださないとわかっている先生だけにいやがらせをやり、金をせびった。
 あるとき、松井は先生にむかってこんなことをいいだした。
 「毎日二十銭、三十銭とこずかいをせびるのはめんどうだから、まとめて日給にしてくれ」
 なにも働かず、せわになりながら日給をくれ、というのである。先生もさすがにあきれて口をきかずにいると、松井はおこって先生の口のあたりをボクシングの手でなぐった。先生が生前発音がはっきりしなかったのは、このときの松井の一撃で前歯を四枚おられたためであった。
 隠しもったナイフできりつけられたこともあった。
 それでも先生や夫人は、
 「追い出せばよそで乱暴するだろうから」といってそのまませわをつづけられた。まったくキリストの“あだを愛せよ”という愛をそのまま実践したものといえる。
 しかし、そんな松井でも、いつか先生のやさしさがしみこんでいったらしい。
 先生が神戸の労働争議で警察に留置されたとき、留置場のへいの外で暗くなるまで泣きながら「センセイ、センセイ」と賀川先生の名を呼ぶものがいたがそれがほかならぬ松井だった。 


記事の中に収められている賀川豊彦最晩年の写真を再掲して置きます。