賀川豊彦の畏友・村島帰之(188)−村島「砕けたる魂」

  「百三人の賀川伝」(昭和35年、キリスト新聞社)所収

           砕けたる魂
                        村島帰之

 大正十年、関西の労働争議の頻発するまっさいちゅう、わたしは過労のため肋膜炎にかかって寝ていました。すると或る日、賀川先生が見えて、「肋膜炎の治療には湿布療法が一ばんいいから」といって、前に入院したことのある神戸の衛生病院という水治療法専門の病院へ入院するよう、熱心にすすめて下さいました。聞くとその病院はキリスト教の経営だということです。わたしはなおさら気が進まないので、「入院料もないし……」といって渋っていますと、「その点なら心配はいらない、ぼくに委せてくれたまえ」といって、その頃出版された「死線を越えて」の印税の中から立替えて払って下さいました。
 また西宮の家から神戸の病院まで蒲団を運ぶ者がいないというと、賀川先生の労働運動の同志、西尾末広君が「よっしや、わしがかついで行ったげる」といって、大きな蒲団包を肩にかついで運んでくれました。西尾君は後に社会党内閲の大臣になった人です。
 病院では聖日毎に礼拝が行われました。枕元にきこえてくる讃美歌は、母の子守唄のように、甘美でした。でもキリスト教に近づいて行こうという気持は起こりませんでした。
 すると或る目、突然、一人の外国人が見舞に来てくれました。賀川先生のところで、一、二度会ったことのあるマヤス博士です。博士は「少し聖書のお話をいたしましょう」といいながら聖書を開いて、「ダビデは放蕩者でしたが、神様により救われました」と説きはじめました。わたしは「さては」と思って苦笑しました。わたしが放蕩者だということを賀川先生から聞いて来たにちがいない。そう思いながら、マヤス博士の話しに聞き入りました。わたしは聖書の知識を少しももっていなかったので、十分判ったとはいえませんが、要するに、「神は供え物を喜び給わず、神の喜び給う献げ物は、悔い改めた人間の『砕けたるたましい』である。君も放蕩三昧をやめて早く悔い改めよ、そうしたならダビデが救われたように、君も救われるだろう」という意味にとれました。
 反抗心の強いわたしでしたが、この博士の言葉に反撥する心も起こらず、かえって聖書というものを一度読んでみたいという気特になって、電話で賀川先生に頼みました。すると春子夫人がすぐ旧新約聖書に讃美歌まで添えて、持って来て下さいました。聖書の扉には夫人の達筆で「わが口の言葉、わが心の思い、エホバの前に喜ばるるを得しめ給え」と記してありました。
 わたしは聖書を読み始めました。さきの日、マヤス博士の話したのは詩篇五十一篇であったことも判りました。賀川先生を知って数年、新川の家へは絶えずうかがいながら、説教所には一度も足踏みしたことのなかったわたしでしたが、聖書を読んだために、一度集会へ出て見ようかしら、と思うようになって、先生に話しますと、「朝六時から始まるんですよ。起きられますか」と笑って、「どうかいらっしゃい」といって下さいました。
 病気も快方に向かい、外出できるようになりましたので、私は意を決して、賀川先生の説教をききに出かけました。説教所は葺合新川の先生の住居から数丁離れた路地の奥にありました。ブラシ工場の跡を改造して、畳を敷いたさむざむとしたバラックで、来会者は貧民窟の人たちを中心に二十人あまり。冬の朝の六時はまだ薄暗く、正面のテーブルの上と会衆の頭上にだけ、電燈がともっていました。わたしの姿を見つけて、賀川先生は「よく来ましたね」とニコニコして一番前の席へ坐らせてくれました。
 礼拝がすんだ時、外を見ると、いつか夜は明けはなれて、さわやかな朝の気がわたしたちを快く包みました。
 「いい気分ですね」とわたしがいうと、先生は、「気分かいいだけでは困りますよ」と、にが笑いしました。
 それから毎日曜日わたしは病院から説教所に出かけて、早天礼拝に列しました。すると突然、思いがけない事件がもちあがりました。わたしたちといっしょに労働運動のリーダーをしていた某の夫人が、魔がさしたのでしょう、ちょっとした事件を起こして、拘引されたのです。夫人は美しい人で、病院へもたびたび私を見舞ってくれました。夕刊でそのことを知り驚いているところへ、賀川先生が見えたので、いっしょに某の家へ出かけました。ちょうど警察から家へ連れ戻されたばかりで、夫人は申しわけないから死ぬといったりして、泣きわめいているところでした。賀川先生は「いっしょに祈りましょう」といい、夫人を中にして四人が坐りました。夫人は崩折れるように泣き伏して、肩や背中が嗚咽で波うっています。某もすすり泣きしています。わたしたちも鼻をすすっていました。ややあって先生はいいました。「祈りましょう、はじめに村島君に祈っていただきます。」
 わたしはハッとしました。わたしは新川の説教所の礼拝に何回か出ただけで、まだ口に出して祈ったことはないのです。心臓が早鐘のように打ちます。しかし三人は首をたれて、わたしの祈るのを待っているのです。
天の神さま――そういっただけで、あとが出ません。わたしは幾たびも心の中で、「天の神さま」をくりかえしつつ、祈りの言柴をさがしていました。するとその時、さっと心にひらめくものがありました。さきの日、マヤス博士からうけたまわった詩篇の言葉でした。
 「……神さま、あなたの喜びたもうのは、くだけたるたましいでございました。」
 ここまでくると、あとは自分でもふしぎなほどすらすらと言葉が湧いて出てきました。「今、み前にうなだるる夫妻の、くだけたるたましいを嘉納したまえ……」
 そういっているうちに、涙が胸をついて出て、聖浄な感激がわたしを包みました。そしてようやく祈りが終わった時、耳近く大きな声で「アーメン」をいう賀川先生の声に、はじめてわれに帰りました。
 「僕の愛が足りなかったのだ。ゆるしてくれ!」
 某は夫人の方を向いて頭を下げました。賀川先生は、「奥さん涙をおおふきなさい」といって、つづけました。
 「今、村鳥君が祈ってくれたように、神はあなたの心からの悔い改めを喜んで受け入れ て下さいました。今日を機会に生まれ変わって、よき妻となり、またおおぜいの労働者諸君の親切な母となって、再出発して下さい。」
 わたしも押し出されるようにして言いました。
 「僕も今までの放らつな生活を清算して、真人間に帰ります。いっしょに生まれ変わりましょう、奥さん!」
 夫人は泣き伏したまま、顔もあげ得ず、うなずくのみでした。
 その家を出ると、そとには月光が暗い家並の瓦の上に水のように流れていました。
 「某と夫人はきっと救われますよ。」
 先生は確信ある語調でいいました。わたしはそれには答えず、心の中で言いました。
 ――救われねばならぬたましいが、もう一つここにある。このたましいも救われるだろう。いいや、必ず救われねばならないのだ――
 わたしは賀川先生と肩を並べて、黙々と歩いていました。中空の寒月は、わたしたちといっしょに、どこまでもついて来ました。
 わたしが賀川先生から洗礼を受けたのは、その翌年のことでした。