賀川豊彦の畏友・村島帰之(189)−村島「交友四十四年を顧みて」

「神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業」(1960年、イエスの友大阪支部)所収

         交友四十四年を顧みて                           村島帰之

    社会運動の開拓者
 大正六年夏、大阪府知事官邸の社会事業の集会で私は始めて賀川先生と相知った。それから四十四年。交友は絶えることなく、私の人生コースはこの人を知った事により大きな影響をうけた。
 私は四十四年前の初対面の日の事を忘れない。先生はアメリカ留学から帰朝されたばかりで、洋行帰りらしいパリッとした服装をしていた。
 「村島さんですか。あなたのお書きになった『ドン底生活』を図書館で読ませてもらしましたよ」とアメリカ仕込みの、人をそらさぬ態度でまるで百年の知己のような話しぶりだった。先生は二十八才、私は二十三才の若き新聞記者であった。私は招かれて神戸の貧民窟に先生を訪ねて行った。便所の戸も誰かがタキギがわりにもやしたのか、その影さえなく、悪臭鼻をつく貧民窟を、先生はまるで花園でも案内するかのように先に立った。
 その頃から約三年間は労働組合のリーダーとして行動を共にした。まだインテリの指導者の少なかった時代とて、どこの組合の演説会でも二人は顔を並べて出演した。今日では男も女も成年に達すると選挙権を与えられるが、四十年前は女は全然その権利がなく、男も一定の直接国税を納めていないと選挙権はなかった。先生は普通選挙権獲得のために活躍し、デモの折には必ず先頭に立った。労働者の団結権を獲得するためにも何十ぺん演壇に立ったか知れない。
 今日のように選挙権や労働者の諸権利が認められるようになった陰には開拓者としての先生の努力のあったことを世間の人たちは忘れている。

   闘争主義に反対
 先生は人道主義の立場をとった。従って今日の労働運動のような闘争的、革命的な運動には反対で、大正十年頃からサンディカリズムやボルシェビズム(共産主義)の影響で日本の労働運動の左傾に伴い先生は次第に労働運動から遠ざかって行った。
 そしてその秋まだ誰も手をつけてしなかった農民組合運動に着手し、私も先生と行動を共にした。同じ十一年に私や西尾末広氏が大阪労働学校を設立した時も、先生は喜んで校長を引受け学校の費用を全部出してくれた。この労働学校からは大臣や大ぜいの代議士が出ている。
 そこへ突然、大正十二年九月一日の関東大震災が起った。先生は急遽神戸から上京し本所の焼跡に天幕を張り、東京の救護と精神的復興のために一身を忘れて奔走した。先日の青山学院での葬儀の時合唱した「わがたましいを愛するイエスよ……」は東京市の市中を伝道して廻った時、トラックの上や、路傍説教の人だかりの中でイエスの友の人たちが声をからして合唱したものだった。この天幕生活は先生の健康を害して腎臓炎を発病し、少年時代からの肺患や、貧民窟時代に長屋の子供たちから感染したトラホームと共に、先生の生涯の痼疾となった。ことにトラホームは春子夫人の片眼を失明させたが、夫人は「まだ片眼が残っていますから、賀川がたとえ失明しても二人一眼で結構働けます」と笑っておられた。先生夫妻は正に全生全霊を神と人とにささげつくした人たちといえるであろう。
                    (筆者は平和学園々長)