賀川豊彦の畏友・村島帰之(190)−村島「賀川豊彦入門」

  「読書展望」第2巻第6号(昭和22年8月1日)22頁

         


      賀川豊彦入門      −著作を透して見た人と事業−
                         村島帰之

   世界の人カガワ

 多くの指導者がいる。しかし多くは紙の上や壇上の指導者で実践に乏しい。彼等が如何に巧みに笛吹けばとて、巷の民衆は踊るものではない。指導者としての賀川豊彦氏の偉人さはその実践性にある。賀川氏が外国で人気があるというのもこのためだと思う。西洋人は実践を尊ぶからだ。筆者は十数年前、賀川氏と一結にカナダのトロンㇳ市で開かれたYMCAの萬国大会に臨んだが、その開会式で大会会長モット博士は、「現代において基督に最も近き人を求めるなら、私はまず賀川豊彦博士を推すであろう」といって氏を各国代表の前に紹介した。賀川氏こそ基督を現代に実践する人、基督を受肉せる十字架の行者といった意味だと思う。

 基督の信仰を説くのはやさしい。聖書を暗唱することも六ヶしくはない。だが真に基督を実践するということは生易しい業ではない。賀川氏の十数年の久しきに亘る貧民窟の生活。その後における資本家及び極右、極左を向うに廻しての社会運動。その両期間を通じての精神運動。臨機応変の救急救護事業。各種の常設社会事業、教育事業。協同組合運動。軍閥弾圧下の平和運動等、等、それは人間の自由を戦ひとるための不断の十字架の道だったといえよう。そしてこれあるゆえに、民族的優越感を持つ白人たちも、賀川氏を高く評価し、氏や迎えるに当っては「光東方より来る」とさえ提言して恥ぢとしない。
 アメリカの青年たちはカガワの名をみな知らでいる。ハイスクールの教科書に「カガワ・イン・スラム」と題する一文がのっているからで、青年たちは賀川氏を現代の聖フランシスとして尊敬している。そんな訳だから賀川氏の著書は多くの国語に翻訳されていて―― Love―Law of the Life(「愛の科學」)の如き、戦時中、アメリカにおいて敵国人の著書のベスト・セラーであったという。(Before the down(「死線を越えて」)のよく読まれたのは一昔前までだ)この本は米国語だけではなくスカンヂナビアの言葉にも訳されいる。これは市河彦太郎氏が公使として同地に使いしていた頃、日本を紹介するのに最も恰好な書物として一連の賀川氏のものを選んだからだ。そのためだろう、戦争直前、近衛内閣が各国へ親善使節を派遣しようということになって、出先外交官の希望を徴したところ、スカンヂナビア諸国は賀川氏を、といって来た。だが賀川氏はアメリカヘ送らねばならぬとあって、氏のスカンヂナビア特派は実現を見ずに終った。

   憲兵見落しの不穏文書
 Love―Law of the Lifeの原著「愛の科學」は関東震災の翌年の発行で、非戦論を公然主張し、軍部に対し随分手きびしい非難を浴びせているが、目こぼしなのだろう、発禁にもならず版を重ねた。序文をひもとくと、次のような不穏?な文字が見出される。

 「剣が社会を作っていた時はもう過ぎた。刃が日本魂だなどと考えている時はもう過ぎた! 愛の外に日本の精紳はもってはならない。(中略)愛は最後の帝王だ、愛の外に世界を征服するものはない。世界帝国の夢想者は凡て失敗した。刀剣の征服は一瞬であって、その効力は止針にも価しない。(中略)彼等は人間ではない! あゞ彼等は人問機械だ! 魂なき野獣だ! 野獣にはまだ魂がある。然し彼等は肉慾のために魂を売り、貨幣のために人の子を大砲の前にくゝりつけた。(中略)人類の于品師よ、咒女よ、世界の凡ての剣刄の上を、幾箇師團が並んで通れるか計算してくれ! 剣の刃の上に建てられた共産主義を見よ、銃丸の上に据えられたクラウンを見よ、それはあまりにも醜いものである。されば銃剣の代りに貨幣もて魂を買うか、肉を売る女、梅毒薬を売る男、政治の中の不良少年、それを取り締まる警官、橋の袂に立っ憲兵――これをしも国家というなら、今日の国家は地獄の隣に位する。悲しき日よ、去れよ。剣銃の手品師よ往け! 私は神と共に愛の王国を地上に建てねばならぬ。(中略) 愛は私の一切である。」

 これは軍閥崩壊、戦争放棄の昭和廿年の文章ではない。軍閥尚ほ華やかなりし大正十三年五月某日、筆者の大森の寓居に一泊した賀川氏が翌朝起きると直ぐ一気呵成に書きなぐった文章なのである。


 補記 
 この文章はこのあとに23〜25頁があるようであるがいま手元にはない。
 なお、村島の論稿はこの「読書展望」ではほかにも他に数本、そして「世界国家」「湖畔の声」「ニューエイジ」「政界往来」などにも数多く寄稿しているが、いまわたしの手元にはないので、今後入手できれば補っておきたい。

 このブログでの連載も今回で190回、長くなってしまったが、一応ここで打ち止めにしておく。賀川記念館の機関誌「ボランテァイ」で連載中の次回には「村島帰之」を短く取り上げる予定である。

 今回最後に附録として、手元に取り出している村島関連の写真を数枚収めて置きたい。


1922年(大正11年) 大阪労働学校第一回の講師


1923年(大正12年) 第一回イエスの友夏季修養会(東山荘)


1927年(昭和2年)7月24日 第5回イエスの友夏期修養会(東山荘)


1931年(昭和6年)5月31日 村島帰之上京歓迎懇談会(イエスの友会)


1931年(昭和6年)7月10日 カナダ・トロントで開催の世界YMCA大会の招きで日本代表として賀川豊彦・小川清澄・村島帰之、横浜より平安丸で出帆 埠頭で見送る


平安丸船上