賀川豊彦の畏友・村島帰之(181)−村島「歓楽の墓」(4)

   「雲の柱」大正14年6月号(第4巻第6号)歓楽の墓(4)

           歓 楽 の 墓(四)
                         村島帰之

 たとへば、女湯でも覗くやうな、好奇心から出発した私の「探険」は、浅草界隈から、更に長駆して新吉原にまで延びた。
 大火前で、吉原はまだ「張見世」であった。(張見世といふのは、燃えるやうな緋の長儒絆の上へ、辷り落ちさうに裲襠を軽ぐ羽織った娼妓が、太い格子の篏った青楼の見世先に、ズラリと並んで、腐肉を望んで飛び込んで来る嫖客もがなと待ち受けてゐるものである)
 多くの浮れ男は、あっちの格子、こっちの格子に、いもりの如くくっいて、まるで小女がショーウィンドーの商品に見恍れる時のやうに、あれでもない、これでもないと飢えた獣のやうな瞳を動すのであった。中には娼妓から「吸いつけ烟草」を貰って、柄のながい烟管から烟を輪に吹いて嬉しがってゐる者もあった。
 まだ場慣れもせす、度胸の出来てゐない私は、好奇心が偉駄天の如く先走るに反し、肝腎のからだは妓楼の前に立ちすぐんで、格子近く進む事さへ、ためらはれるのだった。

 大火後、新吉原は「張見世」を廃止した。それは張見世が余りに人権を蹂躙してゐるといふ理由からであった。そして大火直後の一時は、バーの如きものが妓楼の附属として出来て、嫖客はそのバーで酒盃を重ねてゐる内に、酌人(娼妓)の中から敵娼を物色して、登楼するといふ制度を布いた事もあったが、そうした七面倒臭い制度は悦ばれず、間もなぐ廃って、その次には今の「寫真」制度が行れるやうになった。説明するまでもなく、従来の娼妓自身が張見世をする代りに、その寫真を額縁に入れて店頭に飾り、嫖客の敵娼選択に便するものである。
 張見世が寫真に代ってからは、人権蹂躙は緩和されたが、廓の情緒は全く冷えで了った。絢爛目を奪ふやうな、張見世の美しさは、最早見る事が出来なくなった。
 張見世時代には、所謂ぞめきと稀して、男の骨の髄までも溶かせて了ひさうな廓の情緒に惹かされて、素見(ひやかし)に出かける手合も多かったが、寫真になってからは、目的を持つ者以外は、そう多く出かけないやうになった。
 私の「探険」も寫真以後は勢ひその熱心さを減退した。寫真では性の満足と悦びが得られぬからである。私の所謂「探険」は茲で暇面を脱いだ詳である。

 之れより先き、私は大正三年――大學を出て大阪へ来た。その頃、大阪では未だ「張見世」制度が残ってゐた。大阪では「張見世」の事を「てらし」といった。(警察用語では「居稼店」と書いて「てらし」と読まれた)
 然し、最早大道に面して見世を張る事は禁じられてゐて、雛壇の内裏のやうに並んでゐる女を見やうためには、妓楼の暖廉を潜って這入らねばならなくなってゐた。暖廉を潜って中に這入ると、表通りと直角をなして見世が作られてゐて、嫖客は土間のたゝきに立って、格子越して娼妓の顔を見る事が出来た。
 私は屡々「ひやかし」に出かけた。さすがに一人では、暖廉を掲げて中に這入る勇気が出なかったが、友達と一緒の時には、群衆心理に力を得て勇敢に驀進して行った。それでも、多くはよその人の這入って行く尻からついて行く事が多かった。
 暖廉の傍らには引き子がついてゐて、『遊んでおゆきやす』と勧めた。東京では男の妓夫太郎が、『チョイトチョイと先生、いかがです。遊んでゐらっしやい。浩然の気をお養ひなさい』などと勧誘したが、大阪では、月経の閉正した老婆の引子が、執拗く袖を引いた。
 真白く塗った顔を、更らにふところ鏡に寫し乍ら、お白粉をぬってゐる娼妓の肥り肉に、紅い唇に心を惹かされてゐる時、突如引手の婆さんに『マア、上んなはれ!』と袖を引張られて、私はハッと我に返って鉄砲玉のやうに暖廉の外に飛出す事があった。
 或時はそのために袖口を裂かれた事もあった。或時はハズミで婆さんを引倒し、「婆さんをころばす人がおますかい」と怒鳴られた事もあった。
 私は此のひやかしに依って、込み上げて来る情熱を幾分か冷やしてゐた。それは私にとって怖れであると共に、いゝ知れぬ悦びであり、はかなき満足であった。
 何十軒かの遊女屋の暖廉を潜って、名状すべからざる哀成を胸に抱き、華かな回想をつづけ乍ら家に戻って来た私は、可成りの疲れを感ずるのが常であったが、その哀愁と疲れとを歌にして、日記の端に記した。

 すはるるがごと、群衆にまじりて遊女屋を、ひやかしおれどこゝろおそるゝ
遊女屋をのぞきあるきて何を見し、ただあさましき我れを見しかな
遊女屋をぞめきあるきて片袖を裂かれて来しはわれなりしかな
 彼の遊女ひとゝひとしく生きてあり、生きんがためのけものなりしか
斯うした、まづい歌を作ってゐた頃は無事であった。私は間もなくその遊女屋のきだはしを何の躊躇もなく駈け上るやうになった。

 私は大正四年春、大阪xx新聞社の経済部に入社した。その時私は満二十三歳で、編輯局の社員中では最年少者であった。私は入社すると早々、三品市場と、棉花と綿糸と紡績とを受持たせられて、日々、三品取引所と仲買人と、紡績聯合會と、日本棉花と三井物産の棉花部とを廻って、その日その日の市況を聞いて来ては、慣れぬ雑報を書いた。『昨場軟弱の機先、米棉高を入れて気強く立會ひ、何々の煎れに……』などゝ相場の市況も書いた。
 日々言葉を交へるのは、屋外にあっては多くは商人――殊に相場に手を出してゐる人々であった。
 『一辺、一緒に呑みまひょか』とお愛想をいふ仲買人もあった。でも、 『仲買人に余りに個人的に深くなっては、利用されるから』と先輩に教えられてゐた私は、ついに一度もその勧誘に応じなかった。
 その内、毎年恒例の日本棉花の記者招待曾が北新地の某おちややで開れた。私は生れて初めておちややの敷居を股ぐ事になった。
 尤も、芸妓の斡旋する席へ出るのが之が最初といふのではなかった。學校の卒業間際あたり、クラス會などにも芸妓が来た。叉××新聞社に入社する二三日前、同社々長の園遊會に招かれて、当時大阪一の名妓として謳はれた富田屋八千代からビールの酌を受けた事もあった。然しそれ等はクラス會若くは園遊會の余興であって、遊興を主たる目的として併業してゐるおちややの敷居を股ぐ事は、木吶漢で通って来た私としては破天荒の事でなければならなかった。
 眉毛を落した仲居が背後から来て『お羽織を預からして頂きまっさ』と聾をかけたのからしてどぎもを抜かれた。案内されて設けの席へ行くと、緞子の座蒲團と、それと同数の脇息が順序善く配列されてゐて、既に主客の大半は座についてゐた。
 新聞社の格式で定められた席次によって、私は床の間を背にして第二位の上座についた。と待ち兼ねてゐたやうに、配膳が初まった。裾ながに晴着を着た美妓が、黒塗の膳を目七分にさゝげ、紅の裾裏のついた裾を引き乍らしづしづと膳を配んで来る。面映ゆくて女の顔を正視し得ぬ私は、一足ごとにその白い足に右左と調子善くまつはりつく裾の曲線に見とれ、裾さばきの都度、足下にこぽれ出る緋の蹴出しに胸をおどらしてゐるのだった。
 配膳の終ると共に、忽ち十数名の芸妓が、それぞれ自瓶を指先につまんで現れた。言ふまでもない、酒が初まるのだ。
『お酌をさして頂きます』『モウ一杯お干しやすな』・・・・とぼれるやうな愛嬌を見せ乍ら、片手で袂をおさえて、徳利を手にした華奢な片手を延して肉薄して来る。
 私は酒を好まない。只だ酔ふために強いて呑むのだった。私は盃を重ねる事数杯ならすして、顔面は夕焼のやうな血色を呈した。外の客はと見れば感興の頂点にあるものゝ如く宴は正に酣である。某黄色新聞社の社長は、某妓に三味を携へさせ一緒に床の間に登り、脇息を椅子にして、浄瑠璃を唄ってゐる。某記者は一妓を擁して卑狼な話を声高くやってゐる。凡べてが私には初めて展開された未知境であった。
 宴會は軈て終りを告げた。女達に送られ乍ら数名の者と一緒に戸外に出ると、『君行かう。行かなけりや絶交だぞ』 仲の善い某社の記者が私の肩に靠れかゝつていった。『俺の宿坊へ行て呑み直そう』日本棉花の一幹部が合槌を打った『よかろよかろ』と一同は一議に及ばず賛成した。
 二次會は同じ北新地の「平鹿」といふ一流のお茶屋であった。酒豪達は又もや盃の数を重ねた。その時、私は胸に高く波打つ心臓の鼓動を聞き乍ら、柱に靠れて酒豪達の愉快振いを観照してゐるのであった。
 『あなたは、えらいあきまへんねな』 余り酒を嗜まぬらしい一妓が、歓楽の渦巻の中心から離れて私の傍へ寄って来た。私はうれしく彼女を迎へた。そして彼女を少しでも長く傍に置くために、彼女を悦ばす話題もがなと考へた。私は「北新地」にかこつけて、天満屋お初その他の近松心中物の実説について話した。
 『三勝手七酒屋の段といふけれど、半七の商賣は本統は豆腐屋だったんだ。だから、元来なら三勝半七豆腐屋の段といふのが本統なんだぜえ』  『そやかて、豆腐屋やと、あんまり色気がおまへんがなあ――』
 あいては話に乗って来た。『〆めた』と思って私はなほ調子に乗って話しつづけた。
 『そっちではえらいむもしろい話が始まってるやうやな』
 Hが向ふから声をかける。
 『ㇵア、面白いお話だんね。心中の……』
 あいての芸妓が代って返事をした。

 酒は呑まなくても、芸妓を相手に無駄話をしてゐる事によって、私の心は喜びに躍った。女が面白さうに、叉或時は真顔になって話に聞きとれる時、私は幸福の頂点にあった。
 皆が酔ひどれて、平鹿の門口に出た時私も満足と喜びを胸に抱いて、外に立ってゐた。
 『叉お近い内に・・』と仲居の声。
 『叉、面白い話を聞かしとくれやすや……』と芸者の声
 私はうしろを振向き乍ら、軽く帽子を振った。