いのちが震えたー震災経験の中から(福岡女学院大学、1995年11月7日)(中)

絵本『いのちが震えた』の付録として収められた10頁分の「震災から100日目」の5頁から7頁を、はじめにUPします。






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        いのちが震えたー震災経験の中から(中)


             福岡女学院大学


            1995.11・7


ところで、このたびの地震では、本当に無数の方々が「いのちを震わせ」て、我がことのように心配して下さいました。皆さんの中でも、身内の方や知人・友人がおられて、危険を顧みずにわざわざ尋ねて下さった方もあると思います。


あの地震の起こる数日前に、あるところで「いじめよさらば」というお話をさせていただく機会があって、いろいろ考えさせられていました。人間は、自分の不幸には敏感でも、他人の不幸には鈍感です。こころが響きあう、大切な「いのちの土台」・「共鳴盤」がこわれてしまっているのではないか思えることが、いまいっぱいです。

 
しかし地震のあと、私達は「人のやさしさ」をいっぱい経験しました。
地震直後、日頃何のつきあいもなかった人同志が、命懸けでけがの人を助け、埋もれた人を救い出しました。
地震の当日は、何を食べたのか・・食べ残しのカステラを食べたように思いますが・・。


二日目でしたか、わずかに開店していた店の前には、整然と長い列をつくって、決められたわずかの食べ物(ラーメン5個、500円)を求めました。ほかの国で暴動や略奪があったあとでもありましたから、外国の記者たちは驚かれたそうですが。


お店では、いつもの定価よりも安くして分けてくれていました! 倒れかけた小さなお店でも、ありったけの品物を出して、親切に売ってくださいました。
数日後、区役所などで救援の食べ物が配られるようになっても、リンゴひとつ配られるだけでも、長い列を整然と並んで待ちました。


電話はこわれ、長い間公衆電話しか通じませんでした。通じ始めてもどういうわけか100円玉は使えず10円玉だけが使えました。
公衆電話も長蛇の列でした。10円玉がなくて困っている人に、見知らない人が、肩越しに10円玉を差し出すという、本当に小さなことが自然に起こる。(これは私自身の経験したことですが、10円玉ひとつ、これがどんなに嬉しかったことか・・。
暗闇のなかで電話をしようとして、電話番号のメモ書きがわからず困っている人に、電池を照らして続ける人とか・・。


避難所には、全国から日替りのように、大きな鍋などを運び込んで、暖かい御汁などが振る舞われました。よく並んで御馳走になりました。


2週間後に、京都の友人のお招きもあって6時間ほどかけて自動車で走り、はじめて風呂に入らせていただきました。好き焼きなどいただいて、暖かいフトンの中で休みました。そのときはじめてテレビを見ました。
 

テレビといいますと、震災後、数日ののちに読売テレビでしたか取材を受けました。
私達は、長田区のあの焼け野原になってしまった御蔵菅原地域のすぐ隣の14階立ての高層住宅の11階に暮していました。多くの人は隣の御蔵小学校に避難したのですが、私達は初日は余震に怯えながら、校庭で焚火をして夜明しをし、二日目は、潜り込む場所もなく、校庭の片隅で野宿をしました。
 

そして三日目からは、地震で高層住宅が倒れるようなら、どこにいても駄目だろうとおもって、11階の自宅に戻って、何とか通路と寝る場所をつくって暮し始めました。


ところが、何日目かに電気が付くようになり、私たちの3号棟という棟には160世帯ほど入居していたのですが、 真っ暗な14階建ての住宅で11階の私たちの一室だけ夜明るく電気がついているということで、誰か住んでいるのか確かめるために、テレビ関係者の方が11階迄上ってこられました。


そのときの映像が、1月25日に全国に報道されたようです。この特別報道番組は初期段階のまとまったものだったようで、名前まで入って写ったそうです。一時、どういうわけか不明リストに、私の名前が上がっていたそうですが、とにかく私達は、その映像で無事で生きているということが、伝わったようです。

 
そして娘の一家が大阪にいまして、洗濯物などはいっぱい担いで、神戸から満員の船に乗って、大阪まで出向いたりいたしましたし、ある段階になると、自衛隊が設置した大きな温泉もできました。これには、各地の温泉地から御湯が運び込まれて、温泉気分も味わえました。私の田舎は鳥取県の関金温泉ですが、そこからも来ていて、居ながらにして田舎の温泉に浸ることもできました! 毛を染めた若者たちが、ボランテアで風呂の世話をしていたのが、とても印象に残っています。


このように、個人的にも実に沢山の方々に助けて頂きました。私はこれまであまり涙もろい方ではありませんでしたが、此の頃駄目ですね。一寸したことで、涙があふれてしまいます。


地震以後、子供たちの作文や詩、大人の短歌や俳句、そして川柳などが出版されています。「人間を信じることに決めました」! というような歌もありました。手作りの文集などを含めると、実に膨大なものです。


そうした作品を手にして、ひとりで読んでいますと、もう駄目です。私の相方も、震災後ふた月ほど過ぎた頃に「阪神大震災被災記」という少し長い手記を書いて友達に配ったり、福岡の創言社のお仲間の同人誌にも、それを収めて頂いたりしました。