『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(67)あとがき(最終回)



この「記録」は、今から6年余り前(2004年)に作っていたものですが、未刊行のままお隠れだったものを、今回こうして、少々遊び気分で、昔の写真などをはめ込みながら掲載してみて、人は誰でも、その人に備えられた「一筋の道」を歩んで現在に至っているものだということを、感慨深く思い知らせれています。


ブログをはじめて半年ほど経ちましたが、まだまだ「資料整理」が当分必要です。いま同時進行のこれを含めた四つのブログ全体が「番町出合いの家」の記録ですが、今回まで67回にわたって連載してきたものの「補遺」のようなものを、追ってぼちぼち手がけて見たいと思うようになっています。もちろん、未発表のものです。その前に、既に一度文章にてきたものを、次からは暫く収めておきたいと思います。


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1960年代の終わりごろの写真を2枚入れて「あとがき」を収めます。







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     『在家労働牧師を目指してー番町出会いの家の記録』


               あとがき


この「番町出合いの家」の記録は、わたしたちの新婚家庭の始まりからスタートしている。わが相方は少女時代から少しませた文学少女であったようで、わたしとはまったく対照的な育ち方であった。本に親しむだけでなく、文章やことばで表現することにおいてぬきんでたものがある。いまも俳句グループに加わるなどして、なにやら楽しげである。


この記録には、残念ながら相方の多くの作品を集録でいきず、面白みのないわたしだけのものになっている。ただし、このわたしの文章にも、じつはところどころ相方の手が入っているところがある。おそらく「ここがそうだな」とすぐ気付いていただけると思う。


表現の才ばかりでなく相方は、わたしにとってこの「新しい道」の大事な「先達」なのである。ふたり同時に牧師就任の「按手礼」を受けた1968年の折、司会の方がわたしに、相方についてどう思うかと一言求められた。そのとき咄嗟に多くの会衆の面前で、(相方は)「身も心も美しい」なぞと、正直なことばが飛び出してしまった。


これまで相方は、文集「この道は遠うけれど」、長編エッセイ「貼工賛歌」、「阪神大震災被災記」その他多くの作品がある。「作品を早く纏めてくれよ」とわたしに何度もお求めの方もある。わたしもそれを熱望しているが、なぜかいまのところ、ご本人はトンとその気がないようである。


したがって、今回はとりあえず、このかたちでということにして、ひと区切りにしておく。この生活記録は、また機会をつくり、これまでの歩みの中から、いくつかの記録をまとめてみる機会もあるかと思う。そしてさらに「新しい一歩」がはじまれば、面白いと思う。


2004年9月24日

                            鳥飼慶陽


追 記


昨日の「秋分の日」の休日、第1章に収めた琵琶湖畔の仁保教会でお世話になったUさんご一家を相方と一緒にお訪ねし、ご馳走になりながらお互いの「昔と今」を、何の気兼ねもなしに語り合って、夕刻神戸に帰ってきた。


8月にも同じく最初の任地のひとつと関係のある野洲キリスト教会の「平和を考える集会」に招かれ、ここへも相方と共にでかけた。


仁保も野洲も、みなさんのお目当てはわたしではなく、わが相方の方にあり「ぜひふたりで」という願いにお応えしたものである。そこで、多くの旧知の方々との再会を喜び合った。


滋賀県は、わたしたちの結婚家庭のスタートの場所で、「本籍」もこの第2の故郷にある。この2度の滋賀県行きの経験は、いずれもわたしたちと同じ「小さな家の教会」で、この「番町出合いの家」の記録を整理する渦中での訪問ということもあり、これまで長く学びつづけてきている「在家キリスト教」の智慧のいっそうの研鑚の必要性と、「在家牧師」を目指す新たな意欲をかき立てる、よい一日となった。