『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(66)終章「キリスト教と部落解放運動」第4節「独自課題の徹底」


部落問題をめぐる疾風怒濤の激動の始まる最中の1974年の段階で、この小稿を纏めて見たことは、いま振り返ってみて、私自身のその後のあゆみに大きな出来事だったことを思い知らされています。


この論考はしかし、その後いちどもどこにも公開する機会のなかったものでした。(多分?? だんだんと記憶もおぼつかなくなってまいりました。)


せめてこれは『部落解放の基調』の中に入れておくべきでした!



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           終章 キリスト教と部落解放運動


             第4節 独自課題の徹底


粗雑な記述ではあるけれども、これまで部落解放運動の現状及び連帯することをめぐる諸問題についてふれてきた。以下、結論的にわれわれキリスト者の仕事について考えておきたいと思う。


先にも記したとおり、人間の解放は物質的側面と精神的側面に一応区別されるのであるが、キリスト教の貢献する側面はとくに精神的側面の構造性を明晰判明たらしめるところにこそある。


たとえこれまで、キリスト教界で「解放」という言語、もしくはその基本感覚が欠落していたとしても――もちろん、キリスト教界のみならず日本の思想界においてもことは同じであるけれども−−これがキリスト教の『基本語』としてとらえなおされ得ないと断定することはできない。


むしろ逆に、キリスト教の根源的基点=「原事実」に宿るものは、人間の解放とは何であるかを明らかにする当のものであるといわねばならない。


たとえば、瀧澤克己氏が『カール・バルト研究』以後、精力的にこの「原事実」のより正確な照明を当て続けたことや、延原時行氏の「『イエス・キリスト』問題へのanalogoa actionis(行為の類比)の提言」(『BAMBINO叢書1』その他の諸論稿で、とくに言語概念と行為概念の区別と関係を解明してきたことなどは、けっして等閑視されてならないところである。


われわれはこれらの先達に学びながら、さらに批判的に対決折衝することを通して、少しでも事柄を明らかにしていかなければならない。端的に言って、キリスト者の仕事はその独自の領域を原理的・実践的に徹底していく方向にこそあるのであって、けっしてキリスト教を放棄あるいは上げ底にする方向にはないのである。


不用意なかたちで部落解放運動と一体化することは、キリスト教にとってばかりでなく運動にとっても歓迎すべきことではない。両者は表層的に地続きであるのではなく、根源的基点において、また領域を異にして深く強く関わっているのである。


そしてわれわれがこの方向を徹底させることによって、すでに解放運動のなかで探り当てられた知見をいっそう明らかにさせ、運動が単なる内的な被差別感情や吹っ切れない怨念を基礎にする「旧い思惟方法」を、いくらかでも超克することに貢献できるとすれば、それに過ぎる喜びはないであろう。


心身の健康のためには、「頭寒足熱」が大切であるといわれるけれども、「原事実」からくる熱で足を暖めなければ、キリスト教も解放運動も異常に頭に血がのぼり、足(心)の冷えた「頭熱足寒」で、ついに病に倒れることにもなりかねないのである。


神学が神学として、教会が教会として、信仰者が信仰者として、「原事実」への告白(認識)と行為をそれぞれ息づかせ徹底させること、そして物心両面の等根源的相補的関係性をとらえ、全人的な解放の実現に向かって新しく歩み始めること、これらがわれわれのいまの仕事でなければならない。


(「連帯」の吟味との関連で批判的検討を試みた、次の拙稿を参考までに挙げておく。「〝差別の現実から深く学ぶ〟とはどういうことか」(兵庫部落問題研究所『部落問題』第9号、1976年)、「全同教の〝運動と切れぬ〟という〝原則〟について」(同、第10号、同年)、「全同教の〝実践中心主義〟について」(同、第11号、1977年)。 補記 これらはいずれも、4つのブログのどこかに掲載しておきました。全体目次のある http://ameblo.jp/taiwa123/ 参照。