震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(2)

阪神淡路大震災で倒壊した私たちのまちの写真を2枚、ここに収めます。








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        震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(2)


            赤塚山高校教師研修会


              1995年12月13日                                   
       
        1 「『賀川豊彦』を知っていますか」(NHK)
 

  (前回のつづき)


本題に入る前に「震災と賀川」について、少し触れておきます。
先ほどちょっと申しましたが、賀川はまだ学生だった21才のときに、「葺合新川」に入って生活を始めます。そこで4年半ほど暮し、25才で結婚します。結婚して翌年でしたか、3年近く米国プリンストン大学に留学後、再び神戸に戻り活動を継続するわけです。


そして神戸に戻った賀川は、当時澎湃として動き始めていた労働運動に積極的に加わって行きます。神戸でも米騒動も起こるなか、消費組合運動にも意欲を見せ、彼を時の人とした小説『死線を越えて』がバカ売れして参ります。そして大正10年の暑い夏に爆発した「川崎・三菱大争議」では、賀川は先頭に立って闘い、逮捕され、翌大正11年には全国水平社が準備され、同時に杉山元治郎などと日本農民組合の結成に進んでいくという、まさに疾風怒濤の日々でした。こうした日本社会の激動期の大まかな歴史については、先生方はよくご存知のことです。


ところが賀川豊彦は、大正12年9月1日に起こったあの関東大震災の折りには、すぐに救援物資を集めて船に積み込み、上京して救援活動に没頭していきます。それを契機にして賀川豊彦夫妻は、神戸を去るわけです。ご長男も誕生した後ですからご長男と共に東京へ移ることになります。


賀川豊彦はそれまで「自分は神戸のスラムで一生を過ごすのだ」と決意していました。なのに、なぜ彼はその「初めの志」を打ち消して、神戸を離れてしまったのか。この疑問が、多くの人々のなかにありました。


もちろん賀川は、東京に生活の拠点を移してからも、彼にとってはやはり第一のふるさとは神戸であり、「葺合新川」は彼の人生のスタートの場所でしたから、彼はその生涯を通じて、何度も神戸に足を運びましたし、実際に責任も負って、神戸における活動を支え続けたわけですけれども、主たる生活の拠点はこのときから、東京に移っわけですね。東京の松沢の方へ拠点を設けるわけです。


数年後、西宮の当時の農村地帯、今は勿論市街地に変貌していますが、そこに自宅を設けて、杉山元治郎などと共に、小説『一粒の麦』という小説の印税を活かして「一麦寮」という研修施設など建てて、独自の方法で「農民福音学校」などを、長く続けたことなどもありますが・・・。


それはともかく、お話のはじめに最近書かれたひとつの手記がありますので、それをご紹介しておきたいと思います。


この手記は、「賀川先生への神戸からの手紙」と題して、神戸の賀川記念館の村山盛嗣館長さんが、東京の賀川豊彦記念「松沢資料館」のニュース(7月1日号)に寄稿されたものです。私はこれを読んで、非常に感動いたしました。


村山さんは、賀川先生の存命中から、先生の志を受け継いで神戸の「葺合新川」に、賀川とその仲間たちが作った「神戸イエス団教会」の牧師として就任されていた方ですが、賀川が1960年に亡くなった後、3年後にあの立派な神戸の「賀川記念館」を建てて、そこの館長としてずっと現在まで働いておられる方です。


     村山館長の玉稿「賀川先生への神戸からの手紙」(その1部)


地震発生直後、極めて冷静に行動したつもりでしたが、身体は硬直し、息子らにおんぶされ、やっとのことで脱出することができました。(村山さんは、脳硬そくで倒れて、お体が不自由です。鳥飼注)・・幸いにも記念館の建物は一部損壊程度でしたが、周囲の木造建物は全壊です。避難者は吾妻小学校に2000人、地域センターに220人、生田川公園のテントに60人。


・・ところで、関東大震災の時、賀川先生は何を考え、どう行動されたのか。先生の救援活動の真只中で書かれた散文詩を読んでみました。先生は、3万人とも4万人とも言われる避難民が、火災に焼かれて亡くなった惨事を眼の当りにして、激越な言葉で訴えられました。『何故殺したのか、謝れ』と、神に謝罪を要求するすごさに圧倒されました。


救援活動の根本は「こころ」であり、目標は被災者が「互助の力で自立できるよう援助する」ことであり、その任務は「被災者の目となり耳となり口となって」解決に当たることだ、と書いておられました。これらの言葉を心に刻んで、賀川記念館地域救援対策本部を設け、活動を開始しました。


・・これに呼応するかの如く、東京や大阪などの学生や先生方、数え切れない方々が長期間、記念館に寝泊りして、救援活動を応援してくださいました。今迄私は、先生が神戸に留まらず東京に移られたことへの批判に対して、答えることができませんでした。しかしこの度の震災の経験の中で、先生があの甚大な災害を生んだ東京の、たくさんの窮状の中にある被災者を追って、神戸を離れて行かれる決断を敢えてなさった意味が、はじめてわかりました。」
 

確かにそれほどに、都市を襲った大震災は大事件であったわけです。また、私はこのことから考えさせられることは、単に震災復興の支援のために迅速に行動を起こして東京に向かったという一時的な行動に終らないで、そこから引き続いて賀川豊彦とその仲間たちは、次々と東京を新しい拠点として、新しい復興の活動を展開していった、その粘りのある活動がなされていったことの意味を、私はあらためて考えさせられています。


    (つづく)