震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(1)

前回は、版画家の岩田健三郎さんの版画集『あぜ径』への拙文を収め、そこに震災のあと100日目に出来た絵本『いのちが震えた』を掲載しました。


その続きというわけではありませんが、あの大震災のあと、神戸市立赤塚山高校の教師研修会に招かれてお話をした時の草稿が、ひょっこり出てきましたので、少々行き当たりばったりでですが、数回に分けてUPして置くことにします。これも、記録のひとつのですので。


この話の中に、この度「岩波現代文庫」に収められた隅谷三喜男著『賀川豊彦』本が、岩波の「同時代ライブラリー」の一冊として出版されたことに触れていますので、ここにその2冊と、最初に手にした著書とともに、並べて置きます。








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        震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの


          神戸市立赤塚山高校教師研修会


           1995年12月13日


1 「『賀川豊彦』って知っていますか」(NHK)

 
この度は思いがけず、このような機会をいだきました。もう随分昔、一度先生方の研修会に伺ったことがございます。昔のことで、どんなお話をしたのか忘れていますが、神戸の部落問題について、地域からのご報告をさせていただいたのではないかと思います。何分昔のことで、殆どの先生方とは今回初めてお会いいたします。


先日、鵜飼先生から本日のご依頼を受けました。赤塚山高校でも、生徒の皆さんも先生方も、此の度の大地震で大きな被災を受けられたことをお聞きしました。そしてそれぞれに、ご自分のことで大変ななかを、熱心にボランタリーな取り組みをされて、現在まで頑張って来ておられることを知らされました。


そんな経験を踏まえて今年の教師研修会では、神戸とは深い関わりがある「賀川豊彦」について学んで見たいのだと言われました。特に彼の「ボランタリー精神」のようなことを話してもらえないか、というご依頼を受けました。このお申し出に、喜んでお引受けすることにいたしました。それは私自身にとって「賀川豊彦」という方は、青春時代からの大切な恩師の一人でもあるからです。


ところでしかし、先生方の多くは「賀川豊彦」といっても名前も聞かれたこともない人物かもしれません。NHKの教育テレビで「『賀川豊彦』を知っていますか』という45分番組が放映されました。これの製作には少し協力させて貰ったり、カメラを向けられたりいたしました。そのときの街頭インビューでも、神戸の特に若い人のなかでは、賀川豊彦の名前さえ知らない人がほとんどでした。


現在私は55才ですが、私達の世代ではまだいくらか賀川豊彦のことを知っています。
私の場合、高校生のときに賀川の伝記のような作品を読んで、こんな人が日本にいたのかと、非常に感激をした経験があります。賀川豊彦が71年の生涯を閉じる1960年ですので、亡くなる数年前の頃ですね。


しかも、不思議なことに私は、賀川豊彦のホームグラウンドである神戸の中央区にあります賀川記念館の中の教会の牧師として、当時はまだ「伝道師」ということでしたが、お招きを受け、1966年の春から2年間、この記念館の中に住み込んで働きました。当時あそこはまだ「葺合区」と呼ばれていました。


賀川豊彦は、1988年に神戸で誕生して、幼くして両親を失い、幼少年期を父のふるさとだった徳島で過ごし、徳島中学の時代にキリスト教信仰に目覚め、明治学院で学び、そして神戸の布引のところに創立された神戸神学校に戻って、学生しながら、明治42年の12月に、神戸のスラム「葺合新川」に飛び込んだ男ですね。

二十歳過ぎたばかりの賀川が飛び込んだ明治末のこの地域は、日本では有数の一大スラムを形成してきました。そして戦前もまた戦後も、長く手が付けられないままスラムの状態はつづいて、問題が山積みの場所でした。私たちが招かれた昭和41年の頃も、それこそ南京虫が襲ってきて眠られなかったような場所でした。


ついでに申しますと、私にとってさらに賀川先生とは御縁がありまして、先生のもうひとつの活動拠点であった長田区の番町という、かつてこれも日本一の「同和地域」がありまして、この番町地域で1968年から今年の震災まで4半世紀余りの間、専ら同和問題の解決の歩みをともにしてきました。


今回の震災では残念なことに、住んでいました改良住宅の14階建の高層住宅が全壊となり住めなくなって、7月末迄は研究所の仕事場の2階に潜り込ませてもらい避難生活をいたしまして、ようやく8月から現在は垂水区の滝の茶屋の方で仮り住いをしています。長く住み慣れた高層住宅は、いま取り壊しの作業がすすんでいます。2年余りのちには再建されますので、本の場所に戻り入居を果たしたいと願っております。


そんなわけで、「賀川豊彦」は個人的に大変身近な大先輩ですし、震災も皆さんと同様に、決して人ごとでなく、復旧・復興の課題は現在の切実な問題でもあります。震災と復興に関わる現在の課題についても、お互いいっぱい話し合いたいことがございますね!


ところで、はじめに「賀川豊彦」という人物について、ごく簡単に御紹介させて頂きたいと思います。先ほど、早口で申し上げたように、賀川は1888年明治21年)に神戸で生れました。


ご記憶があるかも知れませんが、実は7年ほど前の1988年は、「賀川生誕 100年」の記念の年で、記念の映画『死線を越えて』も製作されたり、各種のイベントが国内外で開催されました。特に神戸では、ご存知の「コープこうべ」は賀川豊彦の創立になるものですし、農業協同組合を初めとした日本の生活協同組合関係者、神戸YMCAや関係の福祉施設や大学などの幅広い人々の手で、多彩な記念行事が行なわれました。


彼とともに、消費組合運動をはじめ労働運動、農民運動、福祉活動、平和運動などで、ともに活躍された人々が、記念行事が取り組まれたあの10年前はまだまだ多く、熱心な賀川フアンがこれらの催しには参加されました。戦後神戸市長をされた弁護士の中井一夫さんなどもお元気で、しゃれた白のタキシードで参加しておられ、何故か中井さんの隣の席に座って、あの時ちょっと声を交わしたりして・・・・。


賀川豊彦について初めて書き下ろした私のこの小さな書物(『賀川豊彦と現代』)も、たまたまこの記念の年に出来て、皆さんに大変喜んでいただきました。特にこの当時、部落問題と関わって、賀川先生は一部の人々から不当にも「差別者」扱いを受けるという状況もあって、このおとなしい私が、黙っておれなくなって、これを書いたのですが、「よくぞはっきりと皆が思っていることを書いてくれた」といって、喜んでいただきました。本日は、この問題には立ち入ることはできませんが、関心のある方はお読みいただいて、厳しいご批評を頂ければ有難いと思います。


また本日のお話を考えていましたら、先日岩波の同時代ライブラリーの一冊に、皆様もご存知の隅谷三喜男先生の書かれた『賀川豊彦』が刊行されました。(余談ですが、同じライブラリーで同時に出版された上田閑照先生の書き下ろし『西田幾多郎―人間の生涯ということ』という、また素晴らしい作品もでました!)


これは1966年、私がはじめて神戸に来ました時に出版されて、すぐに読んだものですが、賀川が神戸の下町で生きた経験を踏まえて、神戸を拠点に起こしていった消費組合運動や農民運動、そしてあの大正10年の神戸の熱い夏の「川崎・三菱の大争議」といった労働運動などにスポットを当てたコンパクトな作品です。隅谷先生は、私の書き下ろした『賀川豊彦と現代』にも「あとがき」で紹介され、ちょっとうれしくなっています。


ところで、本日は「賀川豊彦」に関連するものをいくつか持参しましたので、お回しをいたします。御覧になりながら聞いていただければと思います。
 一つは、先の100周年の折に記念の「写真集」が出ました。私達の世代では、もう殆ど彼を直接知らない世代ですが、こういう写真で見るのも、書物にはない貴重なイメ―ジを沸き立たせてくれます。12000円もいたしますが。


もう一つは、紀伊国屋書店が発売元になって「人物書誌大系25」として『賀川豊彦』という、これも18500円もいたしますが、賀川の膨大な著作目録です。現在さらに外国語での文献目録が、ほぼ同じ程度の分量で準備されています。先日もその編集に当たっている方と電話で話していましたら、欧米に資料収集にでかけると次々に資料が出てきて、まだ出版までに数年かかるようです。


賀川豊彦は、日本よりも欧米で有名で、彼の外国語への翻訳や外国語の作品が多く存在していて、最近でもドイツでドクター論文がふたつ出版されたそうです。現在では『賀川豊彦学会』もできて、同和問題でも有名な磯村英一先生がいま学会の会長を引き受けておられます。賀川豊彦学会では、毎年研究大会が開催されたり、論文集も出されています。



    (つづく)