震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(5)


話の中で少し触れている絵本『いのちが震えた』を大きく取り上げて頂いた神戸新聞の記事です。



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        震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(5)


           神戸市立赤塚山高校教師研修会


      (前回のつづき)


        3 「葺合新川」でのボランタリーな新しい生活


            最初の「小さな出合いの家」


賀川豊彦はのちにマハトマ・ガンジーアルバート・シュバイツアーと並んで、世界の「3大聖人」などと呼ばれたり、晩年にはノーベル平和賞の候補者にあげられたりしましたが、波瀾に富んだ生涯の中で、一番輝いていた時はいつなのかと言えば、多分それは、この最初の「小さな出合いの家」の時代だろうと思います。


(「小さな出合いの家」というのは、今回の地震で私の住んでいた住宅も全壊して、一時仕事場の倉庫に潜り込んで過ごしました。そのときに、『いのちが震えた』という岩田健三郎という方の絵本を自費出版して、その発行所を「小さな出合いの家」という名前にしました。神戸で心理療法に取り組んでおられる山上栄子先生も、この名前が気に入って、ご自身の『ふうちやんのじしんかいじゅう』という絵本をつくられ、この「小さな出合いの家」の発行にして自費出版されました。)


賀川は初め、なにか組織的な事業を起こすために、新しい生活を始めたのではありませんでした。ただそこで生きるということに力点がありました。しかし、ここでの生活は、彼の予想をはるかに越えた、すさまじい現実が待っていて、日露戦争の後の不景気もあったわけですが、悲しい衝撃的な事実に、次々と出会います。


例えば、新しい生活をはじめてすぐに知ることになるのは、あの「貰い子殺し」でした。何か事情のある幼子を養育費として5円か10円で「貰い子」として引き取り、実際は十分な食事も与えないで死なせてしまう。こうした「事件」が地域の中で頻発していたわけです。彼はこの幼子の葬式を頼まれるわけです。


彼は強い衝撃を受け、「貰い子」を常習のようにしていた老婆から幼子を引き取り、自ら育てようとします。彼はまだ在学中で、試験の最中だったようです。そのときのことは、彼の日記にも出てきます。「おいし」というとても可愛い幼子でした。


賀川がこの地域で生活を始めて10年を記念して、『涙の二等分』という処女詩集を出版しますが、これの冒頭に「涙の二等分」という書名となった詩が収められています。有名な詩ですが、少し長いので、はじめの書き出しは、こうなっています。幼子の名前は「おいし」といいました。


            おいしが泣いて、
            目が醒めて、
            お襁褓を更へて、
            乳溶いて、
            椅子にもたれて、
            涙くる。
            男に飽いて、
            女になって、
            お石を拾ふて
            今夜で三晩、
            夜昼な死に働いて、
            一時ねると
            おいしがおこす。
            それでも、お母さんの、
            気になって、
            寝床蹴立てて、
            とんで出て、
            穢多の子抱いて、
            笑顔する。
                (あと、8頁分つづくが略)          」
 
 
賀川生誕百年を記念して作られた映画「死線を越えて」では、この子は死んだことになっていますが、幼子はその後、生みの親に引き取られ、賀川はその成長を見守ったといわれています。


ところで、賀川が活動をはじめた明治の末ごろの「葺合新川」がどんな状態であったのかについては、彼の著書につぶさに書かれています。当時の新聞などにも「貧民窟探検記」といった記事が登場したり、既に明治30年代の初めには、有名な横山源之助の『日本の下層社会』も書かれたりして、社会問題となりつつありました。


そうした中で、ひとりの学生がスラムの中で生活を始めたからといって、何ができるというわけではありません。彼にとってはまず何よりも、そこで一人の住民として暮すという、そのことが重要だったのだと思います。人の心のうちは、他人には分かりません。志しはいちいち言葉にしませんし、分かりません。ですから何か売名的なことのために無茶なことをしているのではないかとか、色々な誤解を生みますが、彼は何の弁明もしません。


映画「死線を越えて」では、ただ彼は、こうした厳しい生活環境のなかで、必死に生きている人々の、その「真剣さ」が好きだったと言わせています。彼は後に、殴られて歯を二本折られたりしましたが、「喧嘩が好きで、ここに来た」という言葉も映画では語られます。飾らない裸の人間が、真剣に生きている! そこで自分も一緒に生きている、そんな充実感があったのだと思います。


こんな感じは、くしくも今回の地震でも、経験させられたように思います。そしてこの感じは、私自身賀川の時代とは全く違っていますが、新しい生活を始めました頃は、長田のゴム工場での仕事場も、また地域での暮しも、毎日のように色んな出来事があり、ケンカなどもあって、赤裸々な人間のぶつかりあいがありました。

 
当時の暮しぶりも、彼の小説『死線を越えて』を読まれるのが一番です。また『貧民心理の研究』を読みますと、彼は地域の人々とどれほど深く付き合っていたかが分かります。近所の子供たちと遊んだり、病気の人を見舞ったり、相談に乗ったり・・・ですね。


彼がここで生活を始めてまもなく、賀川と共同生活するひとりの青年が加わります。この人は「武内勝」という方ですが、没後この方の講演記録が『賀川豊彦とそのボランテア』としてまとめられています。


ちょっと余談ですが、この人は1966年に74才でお亡くなりになるのですが、私にとってこの方は忘れられない方なのです。実は一度だけ合ったことがあるのです。賀川豊彦には一度も会ったことも、話を聞いたこともないのですが、武内勝という御方には、唯一度会ったことがあるのです。はじめて神戸に出てきて、賀川記念館の中にある教会で働き始めるときに面接があり、そのときに武内さんが親切な言葉で、私を励まして下さいました。そのあとすぐ忽然と武内さんは亡くなられ、私の初仕事は武内さんのご葬儀でした。


この武内勝という人は、本当に素晴らしい方でした。私の本ではわざわざ、武内さんと賀川先生の奥さん(ハルさん)の短い一節を設けさせていただきました。その箇所で、賀川豊彦の書いた「新川の日課」というところを引用しています。賀川たちの最初の生活ぶりが語られていて貴重です。


「朝5時から青年(武内のこと)を教え、7時から病人たちを一通り見てまわり、それから著述に従事した。午後になると貧民窟をみてまわって、病気で寝ている薬ものでいない病人を病院に送ったり、葬式をしたり、戸籍届の代書をしたり、子供と遊んだり、6時から夜学校をはじめ、8時に辻説法、9時半にかえり、10時ごろ寝るのが普通だった。」

           」
まるで「賀川塾」です。これが、段々と「事業」になっていきます。賀川が地域で住み始めてまだ2年足らずの明治44年につくられた「救霊団年報」には、「無料宿泊所」「病者保護」「医療施療」「無料葬式執行」「生活費支持」「児童愛護」「家庭感化避暑」「避暑慰安旅行」「職業紹介」「縫栽夜学校」「一ぜん天国屋」「クリスマス饗宴」・・・などが書かれています。彼はここを拠点にして、山積している問題を、どうしたら少しでも解決できるのか、悪戦苦闘が始まっていくのです。


賀川はよいパートナー・ハル夫人と出合い、結婚して1年後には、米国プリンストン大学への留学を3年近く果たして、再び地域に戻り、ここから労働運動も消費組合運動も農民組合運動も、そして水平運動も始まっていきます。それらの取り組みはそれぞれに新しい運動として固有の展開を見せていきます。今回はこれらについては触れる時間がありませんでしたので、不十分ですが事前に「全国水平社と賀川豊彦」について書いたものを皆さんにお渡ししましたので、参照いあただければ有り難く存じます。


彼の一生は、激動の時代で生きたこともあって紆余曲折があります。多くの人から非難されたりしながら、また沢山の共鳴者にも恵まれて、次々と新しい仕事に挑戦していきました。最後に、賀川の最も長期間に渡って関わり続けた「協同組合運動」の、なかでも現在の「コープこうべ」が、今回の震災後、目を見張るような活発な活動を展開しておられるようですので、そのことにも少し触れておきたいと思います。


(つづく)