震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(4)


今回は、早速前回の第2節の後半の箇所を収めます。


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      震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(4)


          2 賀川の苦悩と冒険


       なぜ「貧民窟・葺合新川」で生き始めたのか


    (前回のつづき)


青年期は特に誰でも自分の「生きる意味」や「価値」を問います。彼も際立ってその「問い」は旺盛でした。彼の幼少年期の苦悩として知られることは、先ず彼の「生れ」から始まります。


彼は、神戸市兵庫区で生れて、幼い頃から「妾の子」としていじめられたと言われています。賀川は生涯、人から言われるばかりでなく、自分自身がこのことを気に掛けていました。


「生まれ」のことばかりではなく彼の場合、4才のときに父親が、そして母親も父を追うようにして亡くなり、5人の兄弟は親戚のもとに別れ別れとなり、彼と姉は父親の実家のある徳島に引き取られるのです。


ですから、彼は寂しい幼年期を過ごし、加えて追い討ちをかけるように、この実家が破産してしまいます。さらにまた当時では致命的な病気として恐れられていた結核に、彼は13才のときに罹ってしまいます。


こうした個人的な境遇(逆境)と同時に、時代は日清戦争(27年)、日露戦争中(37年)、第一次ロシア革命(38年)といった世界史の激動期のなかでしたから、彼は徳島中学の頃から社会的な関心も強く抱くようになります。


とりわけ彼が神戸神学校の学生のときは、結核の治療で入院したり、結核性の蓄膿になったり痔瘻になったりしてサンザンで、自分の「いのち」の長くない差し迫った不安を抱えていました。


彼の日記が残されていますが、そこには幾度も「絶望」「自殺」「死」という文字を書きなぐり、「私は絶望だ。絶望だ。絶望だ。人生の価値を全く疑ってしまった。一晩泣いた」などと書き残しています。


しかし不思議なことですが、人間は「ドン底」にぶち当たれば、そこで「新しい発見」「出会い」をいたします。誰でも人生、捨てたものでなはありません。ごまかさずに辛抱強く、自分に課せられた問いを求めつづければ、答えを見出すことができます。数学などでも、問題を解くのに夢中になるのは、そこに必ず答えがあるからだと申します。


幸いなことに彼は、ここで「新しい自分」に出会います。
このところは、私の本の29頁を読ませていただきます。これは、いくらか私の解釈を含んでいますが。「新しい決意」というところです。


「賀川は、若くして幾重もの苦悩を経験しながら、ついに自己そのものについての新しい発見へと導かれるのです。無価値とばかりおもわれるこの自己も、この世界も、単にわたしがそうおもうように無価値であるのではない。むしろ全く逆に、このわたしも、この世界も、わたしたちがどのように不信と争乱のもとにあろうとも、はじめからわたしたちを無条件に価値あらしめる方が、すべての人・物と共におられ、奮闘しておられるのだ。なぜこれまでこのことに気付かずに来たのだろう・・・と。」


こうした「こころ」の根本的な変化は、青年時代に同じように悩んだことのある人ならば、誰でも経験したことではないでしょうか。これまで、自分の生きている場所が、映画で言えば、何かスクリーンが白黒だったのが、総天然色映画になったようなもので、全くこの世界が、これまでと違った風に見えるということがあったのではないか、と思います。


そうした根本的な変化は当然、どう言う形でか自分の「いのち」(持味)を、この世界でどのように発揮するのかということと深く関係してまいります。それは面白いことに、人それぞれに備えられた持味が全く違っているわけですから、表現の形は違ってくるわけですが、賀川の場合、当時のスラムの人々との出会いが、それまでにもありましたから、そこで彼は、「貧民窟で一生を送る」という、まさに彼にとっては「清い野心」が沸いてきたのだと思います。先生方の場合は、同じようにして、学校の教師として教育の仕事に一生捧げるのだと思われたに違いありません!


私は深く確信しているのですが、青春の悩みを経て、大事なことに出会って「新しい発見の喜び」が、その人に湧き出たとき、そこに、新しい「冒険」も始まるのではないか、と。つまり、「発見の喜び」に促されるのでなければ、本当の「新しい・創造的な・建設的な」ことは出て来ないのではないか、と思います。


例えば、部落問題でも、単に部落問題は大事である、というテーマだけがあって、あるいはもっと悪い場合は、運動団体などから「糾弾」されたりして、青白い顔でどこか引き攣った姿のままこの問題に関わり始めますと、まったくダメだというのと同じです。


これまで身近にそういう場面を見掛けてきましたが、そういう場合は、どこか卑屈に迎合的になって、公明正大に相互批判ができなくなり、間違った取り組みに悪乗りしてしまうことが多くあります。


そしてもう一つ大変興味深いことがあるのですが、レジュメに『宇宙の目的』と記しているところです。これは、賀川の一生のテーマで、彼のスケールの大きさを示すようなタイトルですが、この『宇宙の目的』という題の書物は、1960年に72才で波乱の生涯を閉じる2年前に毎日新聞社から刊行されました。彼の本の中では、最も売れなかった本だそうです。


彼はまだ20才になるまえからこの問題を考えていたと、この本の「序」に書かれています。つまり彼は、若き日より「宇宙の目的」を基軸に置いて現実の「悪」の問題を考える方法を発見している点が、実に面白いと思うのです。


彼の場合、「悪」の問題―それは個人的・対人的な「悪・罪」の問題や、社会的な貧困・差別・戦争などの問題も、彼にとっては「悪」の問題として捉え、これをその『宇宙の目的』を基礎にして修復し、変革していく道筋を探ろうとしていたわけです。


現実は「悪」に支配されているが、この悪の支配を打破り、「悪を修理し、再生させている力が常に裏側から働いている」、つまり「宇宙には目的がある」。だから、少しでもヨリ良い世界を実現させるために、力をあわせて働く責任が、誰にでも私達には存在しているのだということを、一生彼は、自ら生き、訴え続けたわけです。


   (つづく)