『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(64)終章「キリスト教と部落解放運動」第2節「解放理論の再検討」


終章に収めたこの論考は、前回に掲載誌をUPしましたように、1974年6月の特集で、その2ヶ月ほど前に書き上げています。


ですので、ちょうどこの当時は、平和運動や政治的な活動が根本から問い直されて、旧来のものが大きく分裂して固定化するころで、同和対策事業の10年間の期限の付けられた特別の法的措置はほぼ中間点にさしかかっているときでした。


部落解放運動の分野でも、この1974年という年は、今朝も別のブログで触れましたように、この年の4月に、私たちが「神戸部落問題研究所」を創設し、その秋の11月には、兵庫県の但馬地方で引き起こされた部落解放同盟による高校教師への集団リンチ事件である「八鹿高校事件」が引き起こされていきました。


私自身もこの大きな事件の顛末を直に見届けることになるのですが、今回のこの論考は、事件の起こる前のものでした。


私たちにとって、日々の部落解放運動の実践的取り組みそのものへの批判的検討の必要性と同時に、やはり当時「部落解放理論」として声高に叫ばれていたものそのものへの批判的検討も、避けることの出来ない大きな課題でもありました。


ここで書いているものは、誰かに対して主張するというよりも、専ら自分自身の中からのノートという性格の強いものでした。(私の場合、万事がそういうものであったのですけれども)


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          終章 キリスト教と部落解放運動


     
           第2節 解放理論の再検討


さて、このようにして出立した水平運動は、その後どのような経過をたどり、いかなる現状にあるのであろうか。戦争をはさんで多くの試行錯誤と悪戦苦闘のもとで、部落解放運動の探求においても見逃すことのできない歴史的経験と、他の諸分野の現象と同様に分裂と混乱を呈しており、先にも引用した水平社運動初期の人間解放の基本感覚すら見失われつつあるのではないかと危惧されているのも事実である。


この現象が生れる根本原因は、当然運動そのものの根源的基点にひそむけれども、その要因のひとつを指摘するとすれば、近年の際立った運動の量的拡大と『答申』『措置法』をうけた行政の施策面の拡充にともない、知らず知らずのうちに部落解放運動が行政の下請けに化していくところにあるといえる。


運動の拡大と行政の拡充は、さらに進められなければならないけれども、運動そのものの根源的基点・目標が無視され、くわえてたたかいの方法を誤ることがあるとすれば、熱意と意図とはまったく逆の結果に至らぬとも限らないのである。


「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」と叫ばれたあの「人間の誇り」――そこには「個即類」の広がりと結びつきが自覚されていた――は薄れ、「私人」《Privatmensch》を基礎とした単なる党派的、あるいは徒党的な「運動」が日常化するのである。
したがって、今日ほど部落解放運動そのものの原理的検討が求められているときはないと思われる。


人権・思想闘争のいわば精神的側面にあっては、人間の自由・平等・基本的人権・民主主義などの原理的解明を、他方物質的側面にあっては社会的経済的構造と変革の原則・方法の解明を、それぞれの分野において学理的探求として進められなければならない。


差別と分裂に抗するものは、人間の恣意を絶つところの「原事実」から直ちに成立してくる自由・平等・連帯の知見であることは言うまでもない。そしてこの知見に生きることが、差別にたいする最も有効な反撃なのである。