『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(55)第5章「モグラ暮らしの中からの小さな発言」第2節「働く人」(日本基督教団出版局発行)1「うそのいきどまりの次にくるあんたへ」
この第2節に収めるものは、日本基督教団出版局の発行する機関誌のひとつ「働く人」に掲載された小稿です。
まず最初に掲載するのは、1970年1月1日号のもので、すっかり語調をかえたものです。
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第5章 モグラ暮らしの中からの小さな発言
第2節 「働く人」(日本基督教団出版局発行)への小品
1 うそのいきどまりの次に来るあんたへ
――1970年 ルン・プロの弁――
偽りの化粧をひんむけ
今年こそ本当に うんと働くぞ そして ああして こうもする
うそのいきどまりの大晦日 なった なった 大晦日が
正月になって またおめでたく ブラブラ
(高田渡「ブラブラ節」)
ボクは零細ゴム工場のロール場で働く労働者だ。その名は「常庸」別名「雑役」、十数名の仲間の一番下っ端だ。
下っ端は給料(日給)も最低だが、こき使われる量と質も最低だ。正直言って、毎日の「労役」はこの上なくキツクつらい。
重いラバーをあっちへこっちへ運搬し、そのたびに腰の骨がギクシャク鳴る。モウモウと舞い上がる白粉が、数十枚重ねたガーゼのマスクを通して、鼻の奥に粘りつく。
髪もけまつげも真っ白ケ、まだ30前というのに初老のキューピー?のようだ。とても、人間サマの働く場所ではないと自認している。
でも、やはりボクは人間サマであるから、時々、空を仰ぐ。
ボクの仰ぐ空は、穴倉のような工場の鉄格子からのぞく小さな四角な空である。切り取られた空。ちょっとした喜び・安心がそこにはある。
だが、その空は何と狭く限定された空なのだろう。まるであんたのように。ボクらは何とあんたから追放されていることだろう。
あんたは、何とボクたちを寄せ付けないほどに、武装しきって、威しくあるだろう。ボクらは、この切り取られた空を見るようにしか、あんたを見ることができない。
政治の貧困とか腐食の重圧に押しひしがれた職場の真っ只中にありながら、ボクらは政治から遠い存在なのだ。そしてこの矛盾のなかに、いよいよボクらを押し込めるためであるかのように、あんたはやってくる。
安保堅持、万博、沖縄返還交渉という偽りの粉飾で白く塗りこめられたあんた。
うそをうそで上塗りして、どうやら生き繋いできた1960年代の、その「うそのいきどまり」の次の主役として登場してくるあんた。ホンマの主人公であるボクらを「デコボコ道」へと「追放」しにやってくるあんた。
だが、ボクらは、あんたの分厚いおしろいの下の正体が何であるかを、チャンと見抜いている。
ムチャクチャに働かされた挙句、焼酎で気を紛らわせことしかできないときも、ラーメンいっぱいで、あとまた3時間も残業させられると言うときですらも、家に帰って、ヤレヤレと、カアちゃんに御輿を揉んでもらうときにだって、ボクらは、けっして、あんたへのウラミ・ツラミを忘れはしない。
ボクらには、デモや集会に行く時間が、金が、どうしても取れないときがある。1日休めば、たちどころに生活に響く日雇い労働者だからだ。
組合はあるでなし、健康保険も失業保険もなく、倒産で仕事からあぶれれば、張り紙便りに町工場を転々とするボクら。祝日なんぞもセッセと働き、正月休みも無給の悲しさ、オチオチ休んでもいられない。
ボーナスとても「小遣い銭」の涙金。ルンペン・プロレタリアートとはよく言ったものだ。そして、このルン・プロのボクらを疎外しているのはあんただけではない。
「うそのいきどまり」の年、つまり1969年の10・21デモの夕、ボクは晩メシもそこそこに市内の統一デモ集合地へ向かった。
揺れる旗、ハタ、旗・・。だが、ボクはたしかボクが属しているハズの「〇〇労組」(個人加盟)のハタをどういうわけかついに見つけ出すことができなかった。
仕方なく**労組のハタのあとについて歩いた。ボクのようなルン・プロは、こういうところに来る余地はないのではないか・・という気後れのようなモノを胸の奥深くに感じながら・・。
未組織労働者――ルン・プロは、70年と対決する仲間たち(組織労働者)からさえ、すっかり置いてきぼりにされているのではあるまいか? そんな不安がいっそう強まるばかりなのだ。
だが、しかし、ボクらルン・プロは、人の同情や仮面をかぶった愛などに依存せず、ボクら自らの力を持って、人間サマの失地を回復させねばならないのだ。
ウラミ・ツラミをハラのなかで知ると言う点においては、誰だってヒケをとらない。だからこそ、あんたの偽りの化粧をひん剥くことだってできるのだ。
「今年こそは本当に、ウーンともうけるぞ」と機動隊から自衛隊まで引き連れて、ブラブラとお出ましになる1970年サマ、ほんまにおめでとうさん!