『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(43)第4章「Weekly・友へー番町出合いの家から」第3節「ナザレの大工・イエス」

労働を始めた最初の仕事場の写真は少ないのですが、工場の入口の写真と、「日録・解放」にも収めていた、はじめての日曜日に有馬ヘルスセンターに仕事仲間が、家族そろって出掛けた時の写真と、2枚を収めます。







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        第4章 Weekly・友へー番町出合いの家から


          第3節 ナザレの大工・イエス


                  『週刊・友へ』第4号


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エスの出身地は、当時周囲から蔑視され、差別されていたガリラヤ地方のナザレというところであった(ヨハネ1:46)。そして彼は「大工」を職業としていた。すなわちイエスは「ナザレ」で生れ、「大工」として成人したのである。


エスの「公生涯」をより正しく把握するためには、「ナザレの大工なるイエス」を視座にすえることが、きわめて重要なことと思われる。


ひとりの人間が、その時代のなかで思索し、公然と行動を起こしてゆくその背後には、それ相当の「探求の過程」がかならず潜まっているものである。


エスの場合も、人としての探求の生活が真摯にたどられ、深められて、そこから「公生涯」の旅へと展開されていくのである。


ここで新たに注目させられるのは、イエスの探究の道程は「はじめから」「現実から」の歩みであったということである。すなわち、イエスははじめから、虐げられたものの一人として歩まれたのである。


それはその「公生涯」のなかに随所に現われているイエスの深い大衆性が示されていることでもわかることである。そこには、差別され抑圧された者たちとの「トモダチ関係」が当然のこととして起こっている。


ところで、なぜぼくが「ナザレの大工・イエス」に特別の関心を寄せるのかといえば、これはまったく私的なことではあるが、「部落」の外で育ち、零細ゴム労働者でない「牧師」の職にあったものが、「部落」に住む一労働者となること、つまり現実に直面して生きようとすることへの内的動機たらしめたモノは、ここでいう「ナザレの大工・イエス」の視座ではなかったということからくることである。


じつは昨年のくれごろから、ひとつの問題意識がぼくの内に芽吹きだしていたのだ。その頃のある日の日記に、次のようなメモをしていた。


「今まで無自覚であった方向性に気付きはじめた。<自分を捨てる>は<有>から<無>への方向性。これは持てる者の発想ではないか。本来の方向性は、<真無から真無へ>とでもいうべきか、<信仰から信仰へ>というべきか、ここの解明が大事なカギとなりそうだ。・・」


あれから数ヶ月を経た今日もなお、同じようなことを思いながら生活をつづけている。「ナザレの大工・イエス」は、この「真無から真無へ」の道をはじめから一貫してたどられたのではないか、と気付きはじめているのである。


「ナザレの大工・イエス」は「貧しい人」であり、「最も小さい人」であり、「空腹の人」「渇いている人」であり、「他国の人」「裸の人」「病気の人」であった。
けっして幸せ者の立場でモノを考え、行動したのではなく、不幸なもののひとりとして、はじめから生きた人である・・ということに注目したいのである。


ふつう「他者のための存在」としての(幸せモノから不幸なものへの)「愛の傾斜」モチーフがキリスト教の中心的指針であるかのようにみなされているけれども、はたしてそうなのであろうか? そのような理解からは、愛というも慈善的身振りとなるばかりである。


「ナザレの大工・イエス」は、自分自身が不幸なものの道に生まれ育ち、思索し、行動されたのである。それゆえにこそ、そこにはマヤカシや慈善的イヤラシサはみつからないのだろう。


ぼくは、「イエスの仕事場(道)」に連れ戻されることを、つねに喜びとしなければならないのである。幸せものは不幸せなものの道を志向することは、その意味では自然なことであるとともに,健康なことなのである。