「天の心・地の心ー賀川豊彦記念墓前集会にて」(1993年4月)


上の写真は、5月5日の「須磨アルプス」散策の途中にて。



   天の心・地の心


    賀川豊彦記念墓前集会にて


       雀の子そこのけそこのけ御馬が通る


 よく知られる小林一茶のうかです。彼が二I歳のときの作品でこんなものもあります。


       木々おのおの名乗り出たる本の芽哉


 私は「おのおの」という表現が気にいりました。新緑のこの季節、いまお集まりの若いみなさん、そして熟年の方々、「おのおの名乗り出たる本の芽」と等しく、ことしもまた新しい芽を吹き出しています。一茶も、この新しい自分に篤いて、こんなうたを詠んだのでしょう。


 賀川先生を記念するこの墓前の集いで、何かをお話しさせていただくなど、全く考えつかないことでした。短い時間ですが、先生の足跡を思い起こしながら、ごI緒にひとときを過ごさせていただきたいと思います。私のお話よりも、美しいこの自然のなかで、先生を想いながらともにいる、この事実だけで満足です。「おのおの」それぞれに、お好きなことを思いめぐらしてくがされば、うれしく存じます。


 二七年ほど前、私ははじめて神戸にまいりました。賀川記念館のなかで生活をしてノ王に教会の仕事をいたしました。その頃、この納骨堂もできました。ここには、賀川先生と関係の深い方々がたくさん納骨されています。私もいずれここに入れていただくことになっています。


 賀川先生のお墓は、東京の松沢教会の墓地と幼少年期を過ごされた先生の故郷・徳島にあります。徳島のお墓には一度だけ、お参りをさせていただきました。


 私たちの世代は、先生を直接知らない世代です。みなさんの中には、先生からじかにその志を受け継いでこられた方々も多くおられます。ちょうど私たちの世代を境にして、先生を直接知らない世代になってきます。


 高校生のころに教会にかよいはじめ、はじめて賀川先生のことを聴き、書物を見てたいへん驚きました。幅広い大きな仕事をしてこられたことへの驚きもありましたが、私には、人として生きていく「生きるかたち」が示されているように思われたのです。


 その教会の牧師さんは、大の賀川ファンでした。その先生の生活ぶりが私には実に新鮮でした。私もあのような牧師さんになりたい、そう思いました。そうしたご縁もあって、先生のゆかりの神戸イエス団教会でお世話になり、そこで「新しい道」を備えられて、今年(一九九三年)ちょうど満二五年になりました。


 さて、本日はただ一つのことを申し上げたいと思います。それは、賀川先生の「生き方の秘密」についてです。


 誰でも「秘密」をもっています。最近サザエさんの「磯野家の謎」とか「サザエさんの秘密」という本が、よく読まれています。今では「どらえもんの秘密」とか「磯野家の秘密、おかわり」まで出ています。私加賀川先生の「生き方の秘密」などと言いますことも、実は誰にとっても身近なことです。余りにも身近すぎることです。


 先生はもともと、私たちと同じ様に、心もからだもとても弱い方でした。ご存じのように、ご両親を幼くして失い、たいへん不幸な育ち方を強いられました。その先生が、自分の「ほんとうの故郷」「いのちの支え」を発見して、「新しい生き方の秘密」に出合います。その喜びを「発揮する」場所が、あの神戸の下町でした。先生はそこでの歩みのなかで、少しずつ元気を取り戻していかれました。


 先生は、秘かにいつも「お父さん!」と祈られたようです。神戸時代の作品で『イエスの宗教とその真理』という貴重な作品があります。先生は「イエスの宗教」、つまり「イエスというお方が、何を信じ、何を支えにして、何を目的にして歩んでおられたのか」、その「秘密」(隠された真実)を学ぶことから、ご自分の歩みを始めようとされたのでした。ナザレのイエスの生き方(イエスの真実)に、ご自分の生き方と支えの場所を重ねあわせておられました。


 ですから、先生の「生き方の秘密」を学はうとすれば、「イエスの秘密」を学ぶのでなければならないのです。先ほど、有名な「イエスの山上の説教」の一部を読んでいただきました。


 「あなたは祈るとき、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい。」「あなたは、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい。」


 ナザレのイエスは、いつも「隠れたところにおいでになる父に」「父さん!」と祈っておられたのでした。イエスというお方は、「お父さん」とじかにひとつ、はじめからひとつでした。


 ここがすべての出発点でした。


 賀川先生は、自分のもとにもあるこの「秘密」を受け容れることが出来たのでした。これは、先生自身の決意とか、思想とか、善行とかとは全く関係なく、実ははじめから、イエスと同じ様に、「隠れたところにおいでになるお方」が、ともに居てくださることに目が聞かれていました。ですから、先生はイエスと同じ様に、「お父さん!」と祈ることを学ばれました。


 この素朴で、単純な事実。これが、イエスの証しされた「神の福音」でした。先生は、この素朴な事実に出合われました。どの人も「隠れたところにおいでになる父の子」であり「イェスの友」であることから、「イエスの友だちづくり」に情熱を傾け、福祉活動や教育活動など、ユニークな働きを切り拓いて行かれました。


 「イエスの友」は、決して狭く「キリスト教の友」ではありません。イエスがそうであったように、宗教を超え、民族を超え、国家を超えて、「友だち」であることを学ぶことでした。先生の最も大切にされた「精神」は、「友愛・協同」の精神でした。あらためてこの「精神」が、現代に生きる人々に注目されつつあるのです。


 「おのおの」が「父の子」であり、おたがいが「友」であり、「協同の社会」「友愛の経済」「協同組合的な世界国家」をめがして、賀川先生は全生涯を送られました。


 先生は一九六〇年(昭和三五年)四月二三日に亡くなりましたが、亡くなるふた月まえに「現代知性全集」の三九巻として「賀川豊彦集」が出版されました。そこに短い序文を残しておられます。これがおそらく先生の最後の文章ではないかと思います。


 そこで先生は、「私はすべての行者、すべての経典に教えられて、路傍の雑草にも生命の生き抜く道が何処にあるかを知らんとしている。」と記しておられます。最後まで、「開かれた自由な精神」をいきづかせておられました。


 昨年二九九二年)亡くなった国際的なイスラーム学者・井筒俊彦先生は、こんなことを語られたことがあります。


 「みんなは花が存在するなどといっているけれども、そうではないのだ。これは存在が花しているのだ!」


 『老いのみち』とか『こころの処方施』などでおなじみの河合隼雄先生も、人間はお互いに、存在そのものとしてつながり、関係づけられている、個人を超えて、人間は最も深いところでつながっている、というようなことをよく語られます。もっと全体的な観点から、東洋と西洋、宗教と科学などの接点を関係的に理解していく見方が、いま広がりつつあります。


 これらは、賀川先生の基本感覚でもある「友愛・協同」の基本感覚に通じるものです。凝り固まった考え方をほぐして、内にも外にも「聞かれている見方」です。


 お話の題を「天の心・地の心」といたしました。これは、御存じの方もあるでしょうが、先生の最晩年、六七歳のときの作品のタイトルです。「戦後日本の再建の指針として、戦災で焼け残った日本の若き良心にむかって書かれたもの」です。先生は「天の心を地の心とすることから始めよう!」と呼び掛けられました。


 「天にいます我らの父よ、御名があがめられますように、御国がきますように、みこころが天におこなわれるとおり、地にもおこなわれますように!」


 先生は、生涯、この「イエスの祈り」に生きた方でした。


 「私たちの日ごとの食物を、今日もお与えください」という祈りは、単に日ごとの「食べ物」ではなく、日ごとの「いのちのパン」「明日のパン」、つまり生活に必要なすべてI−’本当の喜び、幸せ、平和、くらしのすべてIIが含まれています。生活のすべてに、心を配りながら、先生は羽ばたかれたのです。


 先生は、多くの分野で新しい夢の火種を届けてまわられました。その志を受け止め、受けつぎ、苦労をかさねてこられたのは、お集まりの皆さんをはじめ、無数の先輩方でした。そしていま新しい時代の中で、賀川先生を直接知らない若い皆さんとともどもに、協同組合運動やYMCA活動、保育活動や教育活動、教会活動に「おのおの」が、それぞれの持味を生かしながら、協力してとりくんでおられます。


 どの人のもとにも「隠れたところで見ておられる」お方が、ともにいてくださって、「あなたはどうしているか」「あなたはどこにいるのか」と、ときにきびしく、ときにやさしく、励ましてくださいます。「おのおの」の待ち場、学びの場で、ごI緒に「天の心」に養われ、ともによろこんで、この世界のなかで、「地の心」を耕しつづけることができれば、うれしいと思います。


       本々おのおの名乗り出でたる本の芽哉


                      (一九九三年四月)