「賀川豊彦の『贈りもの」ー21世紀へ受け継ぐ宝庫」(2000年)


上に写真は、ぶらり散歩で訪ねた「烏原貯水池」。




   賀川豊彦の「贈りもの


    21世紀へ受け継ぐ宝庫


         1 賀川豊彦へのおもい


 「二〇〇一年神戸聖書展」には「賀川豊彦」の名ははずせない。なぜなら、賀川は生涯、「聖書」の息吹きに突き出され、「神戸」を拠点に生きた先達のひとりだからである。ここでは求められるままに、私的な「賀川豊彦へのおもい」をまじえて、その聖書理解の独自な面白さと、彼が神戸で手掛けた大きな仕事の一端にふれながら、短く断片的なメモを書き留めて、新しい「世紀越え」のバネにしたいと思う。


 「賀川生誕一〇〇年」(一九八八年)のおり、映画「死線を越えて」の製作が行われたり、神戸でも多彩な記念のイベントが開催された。先年(一九九九年)、関連の講演記録などが『賀川豊彦から見た現代』(教文館)としてまとめられたが、私もあの記念の年に『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所)をまとめ、先生の神戸時代をたどってみた。NHK教育テレビ「賀川豊彦って知っていますか」の番組製作にも少し関係を持つことができたが、人々の心の奥にいまもなお「賀川豊彦」への熱いおもいが生きっづけていることを知らされた。


 すでに賀川豊彦は没後でも四〇年を経ており、学生たちに「賀川」について尋ねてみても、名前さえ知らないことも珍しくない。そういう私も、先生と直接面談することのない世代であるが、四〇年以上も前、まだ高校生のころに、横山春一氏の編著『隣人愛の闘志ー賀川豊彦先生』(薪教出版社)を読み、いたく感動したのが最初である。山陰の倉吉という小さな町に、歴史の古いキリスト教会があって、鎌谷幸一という牧師がおられた。とりわけ奥様の清子先生は賀川豊彦から洗礼を受け、「賀川先生へのおもい」も格別だった。


 縁は不思議なものである。後に私たちは、賀川の活動の原点となった「葺合・新川」に建つ「神戸イエス団教会」から招聘を受け、はじめて「神戸の人」になった。一九六六年のことである。


 この「神戸イエス団教会」という教会は、名実ともにユニークな教会である。先般「賀川豊彦献身九〇年」を記念する集いがあり、その時も感じたことであるが、この教会は「賀川の献身」とその活動を核に「イエス団」が誕生し「イエスの友」ができ、着実に成長していった教会である。


 賀川の片腕として活躍しつづけた武内勝氏とは、惜しくも生前一度しか出合えず、神戸での初仕事はその武内氏の葬儀であった。氏の貴重な口述記録が現在『賀川豊彦とそのボランティア』として残されているが、ここでは今もセツルメント事業・幼児教育・教会活動とが重なり合い、「神戸の下町」に根を張りつつ、福祉・教育・教会それぞれの持ち味を発揮し、新たな冒険を積み重ねる場所になっている。


 私のこの教会での経験は二年間という短いものであったが、賀川豊彦の仕事の秘密を学び、生きる方向づけを確かめる、大切な時と場所であった。


           2 独白なコスモロジー


 ところで、賀川の聖書の読みはいつもユニークであり、詩的な表現で彩られている。文庫にもなり今日なお版をかさねる『聖書の話』(社会思想社)で賀川は、つぎのように書いている。


 「聖書は黄金の箱である。その中には真理の珠(たま)が満ちている。聖書は踏み迷う道を照らす輝かしい光であり、乾く旅路の清い流れである。昼は雲の柱となり、夜は炎の雲となって道しるべとする。それが聖書である。」


 牧師であった賀川が、このように述べるのは別に不思議ではない。こうした賀川の「聖書の話」は、いつもご自分の全身と全経験を経由させて表現された、いわば「受肉した話」であるために、言葉のひとつひとつが私たちの心を耕し、豊かなメッセージとして響き合うのであろ


 賀川にはこの『聖書の話』のような作品は多く、『人間として見たる使徒パウロ』『イエスの日常生活』『イエスの内部生活』(何れも警醒社書店)などもそうである。なかでも『イエスの宗教とその真理』(同)や『人類への言言』(改造社)などは、わたしの大好きな作品である。(賀川の主要な作品は『賀川豊彦全集』全二四巻に収められている。)


 彼は聖書のほかに、多くの仏典などにも親しんでおり、「私は仏教の中で、法華経と維磨経と華厳経の三つが最も好きである」と言い、「宗派の相違で喧嘩するのは大嫌ひである(『暗中隻語』春秋社)という。


 今日でこそ「仏教とキリスト教」など「諸宗教間の聞かれた対話と出合い」は、最も興味深い21世紀の世界の平和の試金石のひとつとなっているが、賀川の独自なコスモロジー(『宇宙の目的』毎日新聞社)は、現代の心ある研究者のなかに、彼と同世代に生きたティヤールード・シャルダン(一八八一〜一九五五)やアルフレ″ド・N・ホワイトへ″ド(一八六一〜一九四七)の思想と関連させる、興味尽きない関心も生まれてきている。


 賀川豊彦シャルダンの宗教思想の比較研究は、岸英司教授によって着実にすすめられていることはよく知られている。また、ホワイトヘッドのプロセス哲学の研究も日本でも活発であるが、近く刊行される延原時行教授の新著『ホワイトヘッドと西田哲学のくあいだ〉』(法蔵館)の「あとがき」を拝見すると、あの『ホワイトヘッドの対話』(みすず青腸)のつぎの言葉が引用されている。


 「神は世界のうちにあるのであって……絶ゝえずわれわれの内部と周辺で創造しています。……宇宙における共同創造者としての人間の真の運命こそ、人間の尊厳であり、崇高さなのです。」


 賀川の視座の深く広いコスモロジーと宗教思想は、新しい時代と全世界に、ますますその光彩を放ちつづけている。


          3 「生き方」の開拓


 さて、賀川の面白さは聖書理解や宗教思想、つまり「思惟・認識・考え方」のユニークさのみにあるのではない。賀川の場合、際立っているのがその献身的な「行為’実践・生き方」のユニークさである。


 賀川と同時代を生きた先達たちは、現在でも文庫で手軽に読むことのできる『死線を越えて』(三部作)や『一粒の麦』いずれも社会思想社)など小説・詩・随筆・論文など膨大な著作を「心の糧」とし、その志に共鳴しつつ、自らの「生き方」を開拓して行ったのである。


 賀川豊彦を直接知らない世代に属する私たちの場合でも、一九世紀から二〇世紀にわたって生き抜いた彼の働きは、二I世紀に向かって歩みつづける私たちの「雲の柱」のひとつになっている。


 前記のとおり、二年間の「神戸イエス団教会」での貴重な経験につき動かされ、私たちは賀川豊彦のもうひとつの神戸の活動拠点であった長田区の下町に移り住んだ。「番町出合いの家」という小さな「家の教会」の実験であったが、あれからはや三〇数年も時を重ねたことになる。


 丁度この期間は、神戸市内に残されていた同和問題の集中的な解決のとりくみの時と重なり、この課題にも没頭できる幸せな日々であった。


 その中で、「出合いと対話」「労働と生活」「宗教と部落問題」といったことも学びつづけた。そして、早くから賀川も提唱した「イエスの教えた非宗教的宗教の運動ニ『賀川豊彦氏大講演集』(大日本雄弁会)の秘密に、少しずつ触れていった。


 神戸における部落問題解決の見通しが確かなものとなった一九八〇年代の半ばには、「新しい協同のまちづくり運動」が模索されはじめ、あらためて《賀川豊彦の「友愛・協同」「まちづくり」》(部落問題研究所紀要『部落問題研究』一ニ○)をまとめてみたりもした。


 実際にこの新しい住民運動は、一九八二年に「教育文化協同組合」「労働者協同組合」として実を結び、一九九五年の犬震災のあとは「高齢者協同組合」もつくられ、現在では「高齢者生活協同組合」として地道な発展を遂げている。


 「賀川豊彦コープこうべ」については別にくわしく触れられるはずであるが、賀川の協同組合論、なかでも「賀川の協同組合保険・共済論」に新たに注目しつづける本間照光教授などの諸労作を、私たちはいま、実に新鮮に受け止めている。


 賀川豊彦の全仕事は広大無辺で、二一世紀に託された「贈りもの」はあまりに大きい。自称「社会教育家」の賀川は、いつも「心の奥が滅びては駄目です」と訴えた。そして神戸を本拠に、日本国内はもとより世界を遍歴して「人生の座標軸」を指し示しつづけた。新しい世紀も、すべての人々と共に、「賀川豊彦」は生きつづけている。


 「雲水の心は無執着の心である。風に雨に、私は自ら楽しむことを知っている。世界の心は、私の心である。雲は私であり、私は雲である。雲水の遍歴は、一生の旅路である。」(『雲水遍路』改造社
                       (二○○○年四月)


 ※ 本稿で取りあげている賀川豊彦の文庫本は、版元の社会思想社倒産のため現在入手できなくなっている。