「賀川豊彦と部落問題」(1989年)


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   賀川豊彦と部落問題


           (1989年執筆)


           1 賀川豊彦生誕百年


 昨年(一九八八年)七月一〇日は、賀川豊彦生誕百年の記念日であった。数年前より記念の実行委員会がつくられ、東京と関西を中心に講演会、シンポジウム、資料展示、さらには「劇団・徳島」の演劇公演や山田典吾監督の映画「死線を越えて」の試写上映など、多彩なとりくみが企画・実施され、賀川に少なからず影響を受けて来られた方々には貴重な「想起の時」となったばかりでなく、彼を知らない世代の人々へもいくらかのインパクトを及ぼしたようである。


 また実行委員会とは別に、全く自発的なかたちで、各地で記念の集いが持たれてきたが、私も小著『賀川豊彦と現代』を兵庫部落問題研究所で刊行したこともあって、公民館などの社会教育・同和教育関係や部落問題の研究集会、宗教団体や大学などで、拙い講演を強いられてもきた。


 なかでも特に印象的な自発的な集会は、昨年暮れ二二月三日に聞かれた京都・同志社の新島会館での「賀川豊彦生誕百年京都集会」である。この集会は「新島会」の主催になるもので、第一部の記念の礼拝と第三部の発題は、昨年国内ばかりでなく米国各地でも記念講演をして帰国されたばかりの同志社大学神学部の深田未来生教授が、第二部の記念講演は賀川研究者のお一人でもある同志社嶋田啓一郎名誉教授か、第三部の発題では、われわれの学生の頃(一九六〇年代)の名講義と全く変わらない田畑忍名誉教授と、賀川と共に生協運動を盛り立て現在も活躍中の灘神戸生協名誉理事・涌井安太郎氏と、そして私とがそれぞれ受け持ち、新聞を見てかけつけた方々も含めて、実に盛会な熱気を帯びた集いとなった。大切に保存されている賀川の筆になる思い出の掛け軸や徳島中学時代のクラス写真(しかもあの「立木写真館」の!)などを持参される方もあったりして。


 この集会でのスピーチは、いずれも「賀川とその時代」を知るうえで重要な証言であるが、私かそのとき求められた発題は「水平運動と賀川豊彦」というもので、「消費組合運動と水平運動」ならびに「水平社の精神と賀川の思想」といったことを一五分ほど語らせていただいた。


 そこで以下「賀川豊彦と部落問題」と題して、彼があの時代に何を求め、どのようなとりくみを行なったのかを、改めて新しく考えて見たいと思う。そして、キリスト教界の一部で問題となっている「賀川問題」のその後についても少し触れておくことにしたい。


            2 賀川豊彦再発見


 今日では、賀川は多くの人々に忘れられた存在になっている。彼が一九六〇年になくなったとき、社会評論家の大宅壮一が追悼の文集『神はわが牧者』の巻頭に「噫々賀川先生」と題して、つぎのように記したことは有名な話である。これは、三〇年ほど前の日本の状況と今との隔たりを感じさせるものであるが、一時期の彼への評価がどのようなものであったかを知る一つの証言として引用しておきたい。


 「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベストーテンを選んだ場合、そのなかに必ず入るのは賀川豊彦である。べストースリーに入るかもしれない。
 西郷隆盛伊藤博文原敬乃木希典夏目漱石西田幾多郎湯川秀樹などと云う名  前を思いつくままに上げて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。
 そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまで もなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。
 私か初めて先生の門をくぐったのは今から四十数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうるものを一人あげようということになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。
 かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である。」


 賀川の活動分野は、ここに大宅が上げているようなもの以外にも、例えば数多くの小説・詩などの文学活動や彼独特の科学を論じた作品、さらには幼児教育や社会教育の分野においても、生涯にわたって大きな足跡を残している。神戸には、彼の活動の拠点でもあったかつての「葺合新川」に「賀川記念館」がつくられ、東京にも「本所賀川記念館」ができており、各地に関連の福祉・医療、教育などの諸事業が受け継がれて、彼の精神が現代に生かされているのである。そして、一九八二年には賀川の総合的な資料館が「賀川豊彦記念・松沢資料館」として完成し、膨大な資料が整理・保存され、一九八五年に設立された「賀川豊彦学会」(現在、磯村英一氏が代表理事に就いている)などの研究者等に役立てられている。近くこの資料館で、賀川の全著作をはじめ関連の史資料を網羅した本格的な「書誌」が刊行される予定であり、同館発行の研究誌『雲の柱』(既刊八号)や本所賀川記念館の『賀川豊彦研究』(既刊一五号)などは、「賀川豊彦再発見」の重要な役割を担っている。


 なお、最近地元の新聞各紙が大きく取り上げたようであるが、賀川が幼少年期を過ごし現在も賀川家の墓などがある鳴門市大麻町で、「賀川記念館」の建設の機運が高まっている。昨年(一九八八年)九月、当地の市会議員の田淵豊氏や全解連(全国部落解放運動連合会)の人たちをはじめ地元の関係者が集まって記念の講演会が開かれ、それに招かれたおりに、参加者の鳴門教育大学の田辺教授から「徳島にはモラエス記念館があるのに、賀川記念館がないのは不思議」と話されたのがきっかけになって、この運動か急速に動き始めている。「劇団・徳島」の若い人たちや『炎は消えず・賀川豊彦再発見』の著者・林啓介氏らも加わり、彼の故郷・徳島でも改めて賀川の足跡が注目されようとしている。


           3 水平社の創立と賀川


 さて、「賀川豊彦と部落問題」に関する立ち入った言及は前掲拙著にゆずらなければならないが、彼の際立った活動は何といっても明治の末、一九〇九年に二一歳で神戸の「葺合新川」に移り住み、当時の深刻な生活実態のなかでの苦闘である。賀川豊彦の長男・純基氏が『雲の柱』最新号の八号(一九八八年一〇月)で、賀川の当時の日記を紹介している。そこには、明治四三年二月の「露の生命」と題されたノートに「安料理、無賃宿、子供預所、資本無利子貸与、医薬施療、葬礼部、雇人口入部、日曜学校、子供理髪入浴、慰安部、日曜礼拝水曜祈祷会」が、同年一二月の「感謝日記」には「無料宿泊所、天国屋安料理、病室、無料葬式執行、婦人救済部、職業紹介所、避暑感化、保育所、労働保険、授産所、肺病離所」が、それぞれあげられており、純基氏はそれに、つぎのような言葉を添えている。


 「日記には毎日のように人が死んだと書かれています。非衛生的な所で、ちょっと悪い病気がはやると何十人と死んでいくのに、スラムの人口は増えていく。賀川豊彦が留学から帰ると、スラムは一ブロック増えているのです。ここで、賀川豊彦はスラムに人が入ってこないためにはどうしたらよいのかと考えます。救済だけでなく、防貧の仕事をしなければならない、そうでなければ日本中がスラム化すると。その頃、労働者や農民は立場が悪く、労働者は三日寝込めば職場から首を切られてしまう。けがをしたらそのまま保障もないままスラムに落ち込んでいく。農家で凶作があると小作料が払えなくて、次男三男は都会に出てきて、仕事がなければスラムに来る。女の子達は売られてしまう。そういう中で、労働組合を作って労働者が社会の中で人格的な立場を得られるようにする。あるいは農村で、どうやれば農村が貧しくならないか、小作人の立場をよくし、貧しい山奥で、立体農業によって農業が成り立つようにする。……」


 こうして賀川は、一九一九年七月に有限責任購買組合共益社を設立して新しい分野の活動に着手するのであるが、一九二〇年段階から、後に水平社運動の創立の中核を担った西光万古、阪本清一郎、駒井喜作ら青年たちとの交流が開始されるのである。西光や阪本らは、生前折々の機会に、また機関誌「荊冠」(後に「荊冠の友」)などで、断片的ではあるが賀川と水平社運動との関わりを書き残している。また、今は亡き工藤英一氏が『キリスト教と部落問題』(新教出版社、一九八三年)などでその消息を探り、水平運動史研究の側から鈴木良氏がすでに立ち入った論稿を発表されているが、賀川はまだ一般的には、水平運動・融和運動の歴史の中に正当な位置を占めるには至っていない。(鈴木氏の論稿の中に、この度の拙著によせて、わざわざ『月刊部落問題』一九八八年九月号で「賀川豊彦と水平運動」と題する詳しい批評を頂いた。本小稿も鈴木氏のこの論稿に負うところが多い。)


 すでに明らかにされていることであるが、西光や阪本ら奈良県御所の「燕会」の人たちは、賀川らの消費組合運動にひかれて「新川」の賀川を訪ね、自分たちの力でこの消費組合運動に心血を注ぎ、産業組合の設立にまで発展させているのである。彼らの「燕会」そのものも、賀川の一定の示唆を受けながら「会則」をつくり、「会長」「主事」「当番」がおかれ、低利金融や座談会・研究会・講演会など組織的な活動を展開し、図書館や「部落問題研究部」なども、その中から出来ていくのである。


 この一九二〇年には、賀川の超ベストセラー『死線を越えて』が改造社から出版され、翌年の夏にはあの「川崎・三菱大争議」で、賀川はまさに「時の人」となるのであるが、彼の独自な「非暴力主義」や「協同組合精神」は、共鳴する者ばかりでなく、逆に彼に対する反対者も少なくなかった。西光らの「燕会」が、新しく「水平運動」へと思想的にも実践的にも飛躍的な前進を示すのには、当時の時代状況の影響が甚大であるとはいえ、そこには、西光らの主体的な「覚醒・発見」が力になっていることは言うまでもない。彼らは、あのまだ厳しい差別のなかで、「よき日」を先取りして「創立趣意書」の表紙にロマン・ロランの『民衆芸術論』からあの「歓喜」を引用して、熱い思いを歌ったのである。そして、そこから「よき日の為めに」新しい一歩を踏み出したのである。


 水平社が創立の準備をすすめるのと時を同じくして、一九二一年一〇月に賀川は、杉山元治郎らと日本農民組合を結成する(創立大会は翌二二年四月)が、杉山の「土地と自由のために「杉山元治郎伝」に記した証言につぎの言葉がある。


 「日本農民組合創立の打合せを神戸新川の賀川宅でしていたところ、全国水平社創立の相談を同じく賀川の宅でしていた。その人々は奈良県からきた西光万古、阪本清一郎、米田富の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川氏宅で顔をあわせたことがある。」


 この証言に対しては、水平社創立(一九二二年三月)の年の暮れ、後でも言及するように、奈良県水平社の西光らが、農民組合と提携しようと改めて賀川を訪問した時のことではないか、と杉山のこの証言の「記憶違い」を、鈴木氏は指摘している。なるほどそうとも考えられるが、私はしかし、水平社創立前の同年一月の朝日新聞の「一万人の受難者が集まって京都で水平社を組織、総裁は賀川豊彦氏の呼び声が高い」とする記事や、創立の事実上の呼び掛けの場ともなり賀川も弁士の一人でもあった二月の中之島公会堂における「大日本平等会」での西光らとの関わり、また創立大会には、そのとき賀川と共に活動していた同志社の中島重や農民運動の河合義一、さらには兵庫県救済協会の小田直蔵らが参加していたことなどを考え合せるとき、賀川と西光らとの「水平社創立の相談」が何も無かっかとも言い切れないようにも思われる。


 いずれにもあれ、水平運動の創立の母体となった西光らの「燕会」が協同組合運動の分野で最も早い時期に開拓的な実験を試みた点において、また逆に言えば、協同組合運動に参画した「燕会」が水平運動の母体であったという点で、改めて注目さぜられるところである。

          4 水平社の精神と賀川の思想

 さて、つぎに「水平社の精神と賀川の思想」について触れて置かねばならない。この点も、特に前掲鈴木氏の論稿に学んだ論点であるが、西光や阪本ら水平運動の指導者たちは、先に見たように「よき日」を先取りし、その「歓喜」を運動の基調にして立ち上り、「宣言」にあるような「心から人生の熱と光を願求礼讃する」ことを「水平社の精神」として出発させたはずの初期水平運動が、未だ十分には部落差別の本質を見極めることができず、大衆的な徹底的糾弾闘争主義に流されていく大きな危険(誘惑・落とし穴)から、いかにして脱出することができるか、それが、彼らが最初に強いられた厳しい試練であったのである。


 そうした中で、西光たちは一九二二年一二月、水平社主催の講演会に日本農民組合の幹部・杉山のほか、行政長蔵、仁科雄一らを招いたり、賀川や佐野学を呼んだりして、水平社と農民組合との連帯の方向を探っている。そして、西光・阪本・駒井の三名は同年暮れに、つぎのような運動内部の人たちに向けた注目すべきビラを印刷・配布し、彼らの立場を闡明に示したのである。


 「『人間は尊敬すべきものだ』と云ってゐる吾々は決して自らそれを冒涜してはならない。自ら全ての人間を尊敬しないで水平運動は無意義である(中略)。諸君は他人を不合理に差別してはならぬ、軽蔑し侮辱してはならぬ。吾等はすべて人間がすべての人間を尊敬する『よき日』を迎へる為めにこそ徹底的糾弾をし、血を流し泥にまみれることを辞せぬのである。けれどもこと更に団結の力をたのんで軽挙妄動する弥次馬的行為には我等は断じてくみするものではない。(鈴木良『近代日本部落問題研究序説』二七三頁)


 当時既に、労働運動のみならず水平運動のなかでも、賀川排斥の動きがみられ、例えば一九二一年五月の『労働週報』での「水平運動の途にて」と題する平野小剣の小論(「荊冠の友」七五号所収)なども、「部落排外主義・部落第一主義」に立つ賀川批判の典型であるが、これはそうした中での西光らの力強い意志表示であったのである。賀川は個人誌『雲の柱』の一九二三年三月号で、その「大和の田舎」に講演に出かけた時のことを、つぎのように記している。


 「私は一月は水平社の特殊部落解放講演会や小作人の農民組合の運動の為めに大和の田舎や播州の田舎に出かけました。
 雪の中を貧しい部落に出入りすると、私は何となしに悲しくなりました。あまりに虐げられてゐる部落の人々の為めに、私は涙が自ら出てそれ等の方々が、過激になるのはあまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。私は水平社の為めに祈るのであります。みな様も水平社の為めに祈ってあげて下さい。水平社の中には清原さん(西光の本名)、駒井さんや、阪本さんなど古くから私の知っている方があります。」


 賀川はしかし、この年九月の関東大震災救援のため主たる生活の拠点を東京に移し、それ以後水平運動との直接的な関わりは薄れていくのである。もちろん、東京に移ってからも一九二七年の「不良住宅地区改良法」の制定などに活躍するのであるが。


        5 キリスト教界の「賀川問題」その後


 以上、短い紙幅のなかで「賀川豊彦と部落問題」に限って、しかもその中の一側面だけを振り返ってみた。私たちがこの問題を正しくとらえるためには、彼が生きたあの時代の歴史的な場をふまえ、広い視野から検討をしなおす学問的態度が求められる。その点、全くの素人がまとめたこの度の拙い小著は、余りに狭い視野からの「独り言」であることは、著者の私が十分に承知している。


 しかし、今日のこの問題をめぐる状況はこのような「独り言」でも大事な意味をもっていたようで、素人の小さな「声なき声」が待たれていたのかもしれない。ただ「対話」を求めて書き上げたものの、キリスト教界で「賀川問題」を熱心に問題提起してきた人々からは未だ何の反論や異論も出されていないのが、残念と言えば残念であるが、この小著に対して、共感の声は数多く寄せられ、その後この問題がキリスト教界で殆ど話題に上らなくなっていることは、それとして喜んで良いことかも知れない。問題の所在がハッキリして、的の外れた事柄に過熟しないですむようになるだけでも意味はある。この問題が自由に論じ合われ、正しく理解されることが必要であるが、もともとしかしこの問題は、こんな形で論じ合わなくてもよいものであったのである。非問題を生真面目に問題にして非生産的な徒労を重ねている、ということも、笑うに笑えぬ私たちの現実である。


 歴史家の鈴木氏が前掲稿の末尾で「最後に一言する」として、「俗人」たる「宗教者」(宗教教団)を、つぎのように一喝している。


 「日本基督教団の『賀川豊彦と現代教会』問題に関する討議資料、同第二部などを読んで感ずることは、これらの資料の作成者たちは、まともに水平運動史をみずから学んだことがあるのだろうか、という疑問である。事実にもとづかずに人を批難することは俗人にも許されないことである。」


 それにしても、私のような「独り言」が、こうして専門の研究者の方々の目にもとまり、過分のコメントを受けるなど、思いも寄らぬことであった。そして、その後改めて、賀川の戦時下及び戦後の活動についても、少し丁寧に学んでみたのであるが、私には、部落問題との関わりでの賀川への一方的断罪にも似た、戦中戦後の賀川の言動にたいする最近の断罪の仕方についても、一層の吟味・検討が求められるように思われてならないのである。この点については、ここでは立ち入ることはできないが、一人の生きた人間(歴史)を理解する上での基本に関わる、根本的な問題がそこには含まれているように思えるのだ。
                      
                         (一九八九年三月)