「賀川豊彦と現代」(第24回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第24回


 絶版・テキスト化



         Ⅵ キリスト教界の「賀川問題」


          キリスト教界の「賀川問題」


            日本基督教団の動向


 『全集』問題が果てしなく続く一方で、一九八四(昭和五九)年一一月に開催された第二三回日本基督教団総会において、「故賀川豊彦氏及び氏に関する諸文書の再検討に関する件」といわれる「建議」が出され、同教団常議員会付託となるという新たな展開が始まります。


 詳しい背景は割愛しますが、同教団の常議員会での討議は、「賀川氏の差別文書問題は日本基督教団キリスト教界だけの問題でなくなり、同宗連(「同和問題に取りくむ宗教教団連帯会議」の略称)で取り上げられている。今やキリスト教界全体の差別体質の実例として問題にされている」といった論調のもとに担当委員が選ばれ、検討作業がすすめられていきました。そして一九八六(昭和六一)年二月に、『「賀川豊彦と現代教会」問題に関する討議資料』と題する、全体八頁の小さなパンフレットが作成され、同年四月に同教団内各教区・全教会へ届けられました。


             2 『討議資料』問題


 この『討議資料』はまず①問題の経過、②賀川文書の問題点、③賀川の「キリストの贖罪愛」とは、④「賀川問題」と現代の教会、⑤まとめ、と各一頁ずつあてられ、そのあとに討議の課題、『貧民心理の研究』における差別表現、賀川全集第八巻の「差別語」および「不快語」、が附されています。内容的には、あまりに独断が多く、「教会の差別的体質」を問題にするために「賀川問題」を用いたともとれる、ずさんなものです。ここではまず、この「討議資料」に対するわたしの個人的意見として、同年五月に日本基督教団総会議長後宮俊夫氏あてに提出した質問書を、少し長文ですがその全文を次に収めることにいたします。


     《「賀川豊彦と現代教会」問題に関する討議資料》への
      いくつかの質問と希望・意見


 1 『貧民心理の研究』にみられた「人種起源説」の見方は、『精神運動と社会運動』では「やや後退している」と記されていますが、後者では、大正二・三年刊の『兵庫県部落沿革調』(兵庫県内務部議事課)を検討素材に用いられていることが分ります。賀川氏の場合、その他独自に兵車県下の「部落伝説史料」を収集し原稿化されたものが「三好文庫」(注1)でうかがえます。こうした努力や、後でふれる水平社運動関係者との出会いなどをとおして、いくらかの変化がみられるはずですが、その点て何かご存知であればご教示下さい。


 2 いわゆる「人種起源説」が広く一般に流布されたのは明治以降、とくに日本の朝鮮・中国への侵略と関係することはよく知られています。そして、水平社運動の結成に大きな役割をになった佐野学氏のような人も、大正一〇年に『解放』で発表した論文「特殊部落民解放論」の中では、この考え方に立っていたとも言われますし、『日本社会史』などで知られる滝川政次郎氏(注2)は、戦前・戦後を通じての「人種起源説」の主唱者のひとりであったことはご存知の方もあるとおもいます。


 こうした見方の誤りについては今日明白なこととはいえ、「宗教起源説」「職業起源説」などとともに、これまで正解とみられてきた「政治起源説」についても、近年さらに立ち入った検討がなされています。したがって、むづかしいことですが、こうしためざましい起源論研究の成果をふまえて、より正確な見方をわかりやすく明示される必要かあるようにおもいます。


 3 『資料』では『貧民心理の研究』にたいしては「発行直後から、各方面より抗議の声が起こりました」と記されています。周知のとおり、その「序文」で米田庄太郎氏が「注意」されたり、賀川氏の自伝小説『石の枕を立てて』の中で「神戸の人々」の抗議があったことが書かれていますが、その他にどのような「各方面より抗議の声」が起こったのでしょうか。


 『資料』の他の個所でも「『貧民心理の研究』も糾弾を受け」とされていますが、前掲小説以外で、その事実について証言されているものがありましたらお教えください。たとえば、全国水平社の大会記録などでも。(なお『資料』で、この小説の発行年が「一九二九年・昭和四」とありますが、「一九三九年・昭和一四」の間違いではないでしょうか。)


 4 これもよく知られているように、賀川氏は、水平社運動創立期の関係者、たとえば、西光万吉氏、阪本清一郎氏、駒井喜作氏、米田富氏、さらに木村京太郎氏(注3)、上田音市氏(注4)など主要な活動家の人々への影響は少なからぬものがありました(西光、駒井両氏のほかは今日ご健在です〔阪本氏は一九八七年二月没〕)。『資料』では、なぜこれらの点についてすべて除かれたのでしょうか。西光氏は戦後一九五二年に『部落』第三一号で、また阪本氏は一九六六年に『荊冠の友』第五号で、賀川氏を神戸に訪ね消費組合を学んだことなどにふれられており、工藤英一氏も、次のような発言をされています。


 「……杉山元治郎さんの書いた文章によると、日本農民組合の創立のための相談を新川の賀川の家でやっている。その隣の部屋では、水平社の人たちが集まっていろいろやっている。時たま終わってから顔を合わせるということがあったと書いている。つまり水平社は賀川の家で設立の準備をしたといってもいいくらいに、賀川と水平社を準備した人たちは結びついていた。そして農民組合ができると、農民としてあるいは小作人としての部落の経済的な問題は農民組合で解決するんだと、水平社の活動家たちは農民組合のオルグというかたちでやってくる。特に奈良や三重ではそれが活発でした。また西光さんは、演説する時は賀川さんのスタイルまで真似をするくらいに賀川に傾倒していた人である、といわれる。それぐらいに賀川と水平社の人たちとは結びついていた。そして水平社ができてしばらくの間は、賀川は水平社に呼ばれて演説をしていたんですね。」(『部落問題研究』第七五号、一九八三年)


 5 『資料』では、「徹底的糾弾を基調とした」「糾弾的な戦い」を「憎悪の福音」と呼び、「水平社運動」を批判したことが問題とされていますが、賀川氏があそこで「憎悪の福音」と呼んだのは、大正一二年の水平社と国粋会が双方竹槍・日本刀などで数百名が激突し多数の負傷者が出た、いわゆる「水・国争闘事件」にみられた「徹底的糾弾闘争」にたいして言われていることはハッキリしているにもかかわらず、『資料』ではなぜ、その歴史的場を除かれてしまったのでしょうか。それとも、あの「水・国争闘」にみられる「徹底的な闘い」をも、「糾弾とは解放に目覚める共同学習の場であります」として一般化してすますべきでしょうか。


 部落解放運動の歴史において、水平社創立期の「徹底的糾弾闘争」の方針は、部落問題の本質把握の前進とも関わって変化がみられ、とりわけ戦後の運動のなかでも大きな前進を見ており、現代における「糾弾」のおり方に関しては、一九八四年六月に出された「地域改善対策協議会」(注5)による「今後における啓発活動のあり方について」(意見具申)だけでなく、部落解放運動の内外で検討がつづけられているとおりです。


 6 賀川氏の部落問題との関わりを考える場合、『資料』でふれられるような部落問題認識の誤りや「水平社の徹底的糾弾闘争」にたいする批判の是非という点だけでなく、賀川氏の生活と実践、その行為面も同時にみられるのでなければならないとおもいます。


 兵庫、なかでも神戸における部落問題との関わりをみましても、生田川地区(今日では「新川」という呼称は歴史的呼称として用いられるだけです)および番町地区を中心とした様々な諸活動――たとえば、「救霊団」「救済・診療事業」「隣保事業」「幼児教育」「職業紹介」「共同住宅建設」、その他労働運動、農民組合、消費組合、YMCA、神戸市行政・教育、兵庫県救済協会など、数多くの同労者だちとの共同のはたらきで今日まで受け継がれている諸活動――についての広範囲にわたる歴史的な研究が必要かとおもうのですが、その点についての関心と評価が、『資料』ではほとんど欠落しているために、積極的な説得力を欠くようにおもわれます。それとも、賀川氏の全活動は「差別意識」をもつ故に積極的評価をもちえないとみられるのでしょうか。


 7 その他、『資料』では、「部落解放の視点」から賀川氏の「キリストの贖罪愛」などの再検討の必要性がいくども強調されています。しかし、その「視点」というのは、ここでは明晰判明ではないようにおもいます。


 「部落解放の視点」といわれる場合、少なくとも部落問題そのものに関する歴史や現状、さらに部落解放理論などの科学的な研究活動の諸成果に学びながら。「キリスト教の視点」と呼べるものがあるとするならば、それを積極的に提示することが期待されているのではないでしょうか。


 そして、その作業は今日の部落解放理論へのいくらかの批判的な吟味をも含む試みにならざるをえないように考えています。小著『部落解放の基調−宗教と部落問題』(創言社、一九八五年)も、その試論にすぎませんが、生産的な相互批判の進展とともに、部落問題解決への確かな展望を共にさぐりたいとおもいます。


(注1)「三好文庫」
 「備作平民会」(一九〇九年)や「岡山県協和会」(一九二〇年)などの設立で知られる融和運動家・三好伊平次(一八七三〜一九六九)の寄贈図書資料が部落問題研究所に「三好文庫」として所蔵されている。
(注2)滝川政次郎(一八九七〜)
 大阪市生まれ。東京帝国大学卒。日本・中国法制史家。
(注3)木村京太郎(一九〇二〜)
 奈良県御所市生まれ。一九一六年御所高等小学校卒業後、小林青年団を再建して団長となり、一九二二年小林水平社を結成。翌年全国水平社青年同盟をつくり、機関誌『選民』の編集にあたる。
(注4)上田音市(一八九七〜)
 三重県松阪市生まれ。一九二一年徹真同志社を結成し部落差別撤廃の運動をはじめる。全国水平社創立大会並びに日農結成大会にも参加し、一九二二年日農三重県連合会執行委員長、一九二三年三重県水平社委員長に就任。
(注5)地域改善対策協議会(地対協)
 一九九二年三月同和対策事業特別措置法が廃止され、同年四月から、地域改善対策特別措置法が制定実施されるにともない設置された審議機関。各省事務次官、学職経験者などで構成され、基本的事項に関する意見具申を行なう。


         3 聞かれた研究・討議の必要


 この「質問と希望・意見」は、不完全なかたちとはいえ日本基督教団の機関誌『教団新報』で紹介され、全国の関係者が知るところとなり、次々と『討議資料』に対する異論も出されるようになりました。とくにこれまで地道に研究と実践を重ねてきた石田正弘氏(注1)は、『「賀川豊彦と現代教会」問題――教団の討議資料をめぐって』と題する冊子をまとめ、一九八六(昭和六一)年一一月の第二四回日本基督教団総会で配布しました。この冊子は関係者に広く読まれましたが、その後同教団の「部落解放センター」からこの論文に対する「疑議」と同時に「話し合い」が求められ、そこで論文の「撤回」が要求されるといった事態も生んでいます。せっかくの労作が、一部の人々の高圧的な「話し合い」によって、一方的に封じられてしまうようなことがあってはなりません。つねに聞かれた研究・討議が必要であり、意見の異なる人々の相互批判の積み重ねが求められているのです。


 しかし同教団の常議員会では、これまでに各方面から出された率直な疑問や意見に対して、何らの「応答」もしないまま、二年近く経て再びこの問題の『第二次討議資料』なるものがつくられようとしています。すでにそれは、小委員会案として、①私たちのなかにある融和主義、②賀川擁護論の問題点、③「愛の倫理」の問題、①福音理解をめぐって、といった柱のもとに具体的な検討の段階に入っていると言われます(『教団新報』一九八七年一二月五日付)。


 この問題も、前の『全集』問題と同様に、これまでの見方を改め、新しい視点を見出さないかぎり、ますますキリスト教界にタブーを増幅させる結果に終わらざるを得ないでしょう。その新しい視点と新しい実践の方向は、終章でたずねようとする「賀川豊彦と現代」において、いくらか示唆できればとおもいます。


(注1)石田正弘(一九二七〜)
 目本基督教団枚方くずは教会牧師。イエスの友中央委員。



    (次回に続く)