「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第12回)(未テキスト化分)



賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第12回・未テキスト化分


        第二章 部落問題の解決と賀川豊彦


   (前回の続き)


        第二節 賀川豊彦と「部落解放運動」


 かつて1970年代後半から80年代にかけて、主としてキリスト教界内部で指摘されてきた、いわゆる「賀川豊彦と現代教会」問題は、既述のような賀川豊彦の神戸の「被差別部落」における日々の苦闘と諸活動への関心は殆ど顧慮されることなく、批判の焦点は、主につぎのふたつのことに集中していました。


 ひとつは、1922(大正11)年3月「全国水平社」として創立された「部落解放運動」に対して、賀川はこの運動が「憎悪の福音」を基調にするものだとして批判し、「全国水平社」の運動から離れていったとする「部落解放運動との関係のとり方」に関わる問題でした。


 そして二つ目は、第三節で検討する『貧民心理の研究』等諸著作に書き残した賀川の「部落問題認識」とその「差別的表現」の問題でした。ここでは先ず、最初に指摘される「賀川豊彦と『部落解放運動』」について考えておきます。


    1  「部落改善運動」「融和運動」


 ふつう「部落解放運動」という場合、戦前の場合は「全国水平社」の「差別糾弾闘争」を中心とした闘いをさしています。わたしがここで「部落問題の解決」というときは、第1節で取り上げてきたように、日々の活動全体が「部落問題の解決」に無関係ではないという視点に立っています。このことを抜かした「解放運動」はありえないと思うからです。


 周知のごとく「全国水平社」が創立される前、1900年代になり、各地の「被差別部落」で「部落改善運動」といわれる取り組みがおこなわれます。たとえば、1903(明治36)年には「大日本同胞融和会」といわれる全国組織もつくられており、政府の融和策とも結びついて1914(大正3)年には、板垣退助や大江卓らも協力して「帝国公道会」という組織も結成されていくのです。


 賀川豊彦の場合、「葺合新川」への移住当初から「救霊団」の多彩な救済活動を意欲し、先の「帝国公道会」創立と同じ年にそれまでの「救霊団」を「イエス団」に改め、1917(大正6)年5月、米国留学後の賀川の活動は、「無料巡回診療」や「夜学校」、そして授産事業として「歯ブラシ工場」などを設立し、新しい展開を始めていきました。


 丁度この年(1917年)3月には、兵庫県知事の提唱で「兵庫県救済協会」が設立され、賀川の帰国を待っていたかのように、「救済協会」と賀川との緊密な連携がすすむのです。


 この間の経緯は、地元の新聞に度々報道されていますが、「兵庫県救済協会」は、賀川を招いて「米国救済事業視察談」を求めたり、賀川も「葺合新川」の水不足を補うため地域内数箇所に洗い場を設置することを「救済協会」に求めて実現させるなどして関係を深め、賀川は「救済協会」の嘱託にも就いていることが知られています。


 翌年(1918年)6月には、賀川豊彦は神戸市内の失業者救済の目的で、東京で活躍していた遊佐敏彦を神戸に招いて「生田川口入所」を設置し、神戸における職業紹介所事業の口火を切っています。そして7月には「イエス団友愛救済所」を開設し、新たな事業展開を始めるのです。(注1)


 また、それまでは警察署の管轄下にあって治安対策の目的も兼ねた「被差別部落」の各種調査が実施されてきましたが、1918(大正7)年7月、「米騒動」の直前には、神戸市は「新川・番町・宇治川」の「細民部落調査」を実施しています。


 同年8月、富山県下で始まった「米騒動」は神戸市内にも飛び火して、鈴木商店神戸新聞社などの焼き討ちがおこなわれました。これには「葺合新川」や「番町」の人々も多数参加し、警官や軍隊の激しい弾圧を受けたことは周知のとおりです。賀川も、実際にこの騒動を経験し、問題解決に向けた新しい活動の必要性を痛感します。


 こうした社会状況のもとで、賀川豊彦は労働運動や普選要求運動にとりくみ、さらに生産者と消費者を結ぶ互助組織をつくる必要性などを訴えながら、翌1919(大正8)年には「イエス団友愛救済所」の「番町出張所」を新たに開設すると共に、大阪で「購買組合共益社」を、1920(大正9)年には「神戸購買組合」を発足させていくのです。


 組合創立時は「葺合新川」の「イエス団」に事務所を置き、神戸における協同組合運動のスタートを切っています。


 そしてあの空前の超ベストセラー小説『死線を越えて』が改造社から刊行されるのも同じ年の10月のことです。さらに翌年、1920(大正10)年八月の賀川豊彦を参謀とする、あの「川崎・三菱大争議」の大闘争と敗北へと突きすすんでいきました。


 この有名な闘いについても数多くのドラマが刻まれ、語り継がれていますが、ここでは立ち入ることができません。


       2 「燕会」の中心メンバーたちと賀川豊彦


 ところで、「賀川豊彦と『部落解放運動』」については、まず「被差別部落」住民自らのはじめての自立的な解放運動として知られる「全国水平社」と賀川豊彦の関係について見ておく必要があります。


 賀川の自伝小説のひとつである既述の『石の枕を立てて』には、つぎのような箇所があることはよく知られています。


 「大正八年新見が大阪で消費組合運動を始めた時、御坊の同志四人が、消費組合を教えてくれと言って、神戸葺合新川の家まで尋ねて来られたのであった。』(98頁)


 近著『水平社創立の研究』(部落問題研究所、2005年)などで話題を呼ぶ歴史家の鈴木良氏による詳細な研究で知られているように、この「御坊の4人」というのは「御所の四人」の誤りで、その「4人」は、後の「全国水平社」創立の立役者、阪本清一郎、駒井喜作、西光万吉、池田吉作をさしています。(注2)


         「つばめ組」から「燕会」へ


 阪本・駒井ら数名の青年たちは、1919(大正8)年頃、奈良県柏原(現在の御所市)で「つばめ組」とよばれる親睦団体をつくり、自由な天地を求めて、セレベス島に移住する計画を立て、マレー語の勉強を始めていました。しかし折からの排日気運のためにこれを断念し、自分たちの地域にとどまって民主的な村づくりに乗り出すのです。


 そうした中で彼らは、「葺合新川」での賀川豊彦の活動、なかでも「消費組合運動」という、生産者と消費者を結合させて新しい関係を実現させようとする活動に強い関心をいだき、神戸に賀川豊彦を訪ね、その経験を学んでいきます。


 そして1920(大正9)年5月、阪本らは、部落問題の解決を目指すという、より明確な目的をもって、新たな決意で「つばめ組」を「燕会」として再スタートをいたします。
最初この会は、14、5人の団体旅行をおこなう程度の自主的団体でした。


 それが徐々に60人程度に増えてきた頃に、賀川豊彦がそれまで島崎藤村の意向も受けて密かに筐底に留めていた小説『死線を越えて』の一部が、雑誌『改造』の1920(大正9)年1月号から5月号まで掲載されました。これは、すでに『ドン底生活』で名声を馳せていた「大阪毎日新聞」の記者で、早くから賀川の理解者であった村島帰之の紹介によるものでした。


 この小説が、単行本として改造社から刊行され爆発的な読まれ方をするのは同年10月以降ですが、「燕会」の同人たちの目に入ったのは、おそらく雑誌『改造』の小説であったろうと言われます。


 もちろん西光万吉ら同人たちは、賀川豊彦という青年が神戸の「葺合新川」で活動を始めていることは、すでに二冊の大著『貧民心理の研究』『精神運動と社会運動』がいずれも警醒社書店から出版されひろく話題を呼び、『救済研究』や『労働者新聞』さらには『改造』などでも、賀川はつぎつぎと刺激的な論稿を発表していましたから、彼らにはすでに一定の関心と知識はあったと思われます。


 ともあれ、この雑誌『改造』の『死線を越えて』を読んだ同人たちは、「世間には売名的なくわせものが多いから、偽善者かどうか確かめ」その上でいろいろ意見を聞こうということで、前記の西光・阪本・駒井、池田の四名が、神戸「葺合新川」の賀川豊彦宅を初めて訪れるのです。


 そこで彼らは、「賀川の眼は、トラホームでただれていて、この人は本物だ」と感じたのだといいます。そして、賀川の案内で「葺合新川」地域を視察し、新しく消費組合の活動など、彼の目指す志のあれこれを、直接聞き及ぶのです。


 そのときすでに賀川豊彦らは、1919(大正8)年8月に大阪東区で「購買組合共益社」を組織し、翌年1月に認可を受け、消費組合としての事業活動を開始していましたし、現在の「コープこうべ」の前身のひとつ「神戸購買組合」の発足を間近にしていたときでもありましたから、賀川の説く「消費組合」に対する情熱的で具体的な主張は、「燕会」の同人たちにとって大いに共感・共鳴の出来るものがあったようです。


 こうして西光や阪本ら同人たちは、「燕会」の「会則」「会の試み」「低利金融」「決議」などを定め、活発な活動を自分たちの地域で展開していくことになります。「燕会」は「相互扶助を以ってその存在理由」とし、「会長及主事及当番」を置き、「会の試み」として「低利金融」「消費組合」「団体旅行」「夜話及講演」「家の組合」などを上げています。


 ここには、彼らが賀川豊彦から学んだいくつかのアイデアの跡が残されているのではないかと、鈴木良氏は指摘しています。そして実際に「燕会」では、9月から資金融資が始められ、同人相互で低利の金融がおこなわれるようになります。さらに10月からは、「消費組合部」の「共同購入」も開始されるのです。


 賀川らが始めた大阪の共益社や神戸購買組合は、けっして順調な展開を見せませんでしたが、「燕会」の場合は、そのはじめから好調な運営がおこなわれ、消費組合の事業水準としてはかなり高いもので、店舗の置き方や帳簿のつけ方なども学習され、きわめて先進的なものであったことが知られています。


         3 「全国水平社」創立と賀川豊彦


 一方で賀川豊彦の方は、消費組合づくりのほかに労働運動や普選運動に乗り出し、先にふれた小説『死線を越えて』の刊行を契機に、まさに彼は『時の人』になっていきます。加えて翌1921(大正10)年の夏、前記のあの有名な「川崎・三菱大争議」に参謀として参画するなど、激動の日々を送ることになるのです。


 「燕会」の方は、消費組合運動を発展させ、生活の刷新と合理化のために奮闘し、さらに社会問題に目をむけ、「燕会」のなかに「社会問題研究部」をつくり、社会科学の学習やデモクラシーの思想を積極的に学んでいきます。


 そして、国内の「社会主義者」たちの刺激や国際的な民族独立運動などにも影響を受けながら、同年7月に雑誌『解放』に発表された佐野学の論文「特殊部落民解放論」などにも触発され、阪本らは10月以降ついに、部落の自主的な全国組織を目指して「水平社創立事務所」を設け、一気に「全国水平社創立」の機が熟していくのです。


 あの「起きてみろ―夜明けだ」と呼びかける有名な創立趣意書「よき日の為めに」を刊行し、結成前夜を迎えていきます。


 この年(1921年)の後半期は、各地で小作争議や職人たちの立ち上がりが見られ、10月には賀川豊彦とともに「日本農民組合」を構想・準備しつつあった杉山元治郎(1885〜1964)も、その創立にむけて本格的な取り組みを開始します。


 年明けて1922(大正11)年1月には、機関紙『土地と自由』を創刊し、賀川豊彦も各地で起こる小作争議の支援に出かけるなど多忙になりますが、杉山は後に『土地と自由のために―杉山元治郎伝』(1965年)のなかで、つぎのような重要な証言を残しています。


 「日本農民組合創立の打ち合わせを新川の賀川宅でしていたころ、全国水平社創立の相談を同じく賀川宅でしていた。その人々は奈良県からきた西光万吉、阪本清一郎、米田富の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川氏宅で顔を合わせたことがある。」(205頁)


 (この証言はしかし、水平社創立の前でなく、創立後の1922(大正11)年末に、奈良県水平社が農民組合と提携しようとして、西光らが神戸に賀川豊彦を訪ねたときのことであって、これは杉山の記憶違いではないかとの鈴木良氏の説得的な指摘があります。)


           「水平社」総裁推薦説


 そんな中で、同年1月23日付 『大阪朝日新聞』で、「一万人の受難者が集まって/京都で『水平社』を組織/総裁は賀川豊彦氏の呼声が高い/先づ社会に向って差別撤廃の宣戦を布告する」という見出しで、つぎのような記事が報道されています。


 「今春二月中旬(補記・実際は3月3日)京都で開催される全国部落民大会は夕刊記載の通りであるが、楽只青年団を始め、田中、崇仁其他京都府下各団体を始め、和歌山、滋賀、奈良県下から約一万人の少壮者が会合する筈で、当日結党される「水平社」の総裁には賀川豊彦氏推薦説が最も優勢である。そして社会に向って差別撤廃の宣戦布告をすると云えば不穏のやうだが、内容は頗る穏健なもので、正義人道に訴えて舌戦を闘はすと云ふのであるが、是等の目覚めた人達が来るだけ腹の底からの叫びが出て熱が高く、既に奈良、和歌山方面から六百、滋賀県から一千名は確実に出席の報告が達した。京都府下からは全部参会する意気込みで、奈良から河内方面へは目下自動車で宣伝されている由。京都の宣伝文、大会趣意書は一旦印刷されたが、当局の注意があったのでやり直した。」


 そしていよいよ同年2月21日には、大阪中之島公会堂での「大日本平等会」による「同胞差別撤回大会」が開かれ、西光らはこの大会を逆手に取って「全国水平社」の創立を知らせる宣伝の場にし、呼びかけのビラをまき、演壇に立って熱弁を振るうなどして、3月3日の京都岡崎公会堂での「全国水平社」の創立大会へとすすむのです。


 「全国水平社」創立のとき、賀川豊彦はハルと共に台湾伝道にでかけているので出席もしていませんが、賀川豊彦と関係の深かった同志社の中島重や兵庫の河合義一、兵庫県救済協会の小田直蔵など、部落外からの参加者も少なからずあったことが知られています。


         4 「全国水平社」創立のあと


 「燕会」同人らの呼びかけで創立された「全国水平社」の運動は、それこそ各地に燎原の火のごとく波及していきましたが、彼らがこれまで大事にして取り組んできた地域における「燕会」の活動、なかでもそれまで順調な運営がおこなわれてきた「消費組合」は、事実上継続困難になり、「水平社」創立半年後の1922(大正11)年9月までは続けたものの、ついに途絶えてしまうのです。


 改めていうまでもなく、「全国水平社」の基本的な精神は、その「宣言」や「よき日の為めに」などで知られるように、自ら「人間を尊敬し」ともに人間性を発揮しようとする志に裏打ちされていました。したがってそれは、賀川が目指した「協同組合」的な社会、つまり「全く営利の支配せざる相互扶助の社会」(共益社の創立宣言)を自らつくりだす運動とは、本来矛盾するものではありませんでした。


 賀川豊彦にしてみれば、協同組合的な運動を基本にして、新しい社会を自らつくりだしていくことが問題解決の近道だと考えていました。しかし、実際の「全国水平社」の流れは、賀川が危惧した、「差別に対する徹底的糾弾闘争」の運動として展開されていきました。


             農民運動と水平社


 もちろん西光や阪本たちは、「水平社」創立の当初より、差別に対する単なる怒りを爆発するだけの運動に陥ることの危うさについて、気づいていたはずです。そして賀川の方も、運動の担い手たちを「同志」として尊敬し、その危うさを乗り越えるための賀川にできる支援を惜しみませんでした。


 杉山は前記著作のなかで、「農民運動と水平運動」の関係にふれて、つぎのように記しています。


 「・・社会的に非常な圧迫をうけているとともに、経済的には、とくに農村では最も貧乏な小作人であったから、身分解放のために水平運動を起こすと同時に、経済運動としての農民運動にも利害相通ずるので、これら水平運動の先覚者は直ちに農民運動にも加担してくれる(中略)奈良県で農民組合運動の最初の火蓋を切ってくれたのは西光万吉(中略)演説会を西光寺で開催した。」(210頁)


 確かに、1922(大正11)年12月19日には、奈良県水平社主催による講演会が西光寺で開かれ、杉山ほか行政長蔵、仁科雄一、安藤国松ら農民組合本部員が、満員の盛況のなかで講演をおこなっています。


 そして翌日、柏原の小作人200余人で日農支部を結成し、翌々日(12月21日)には、賀川豊彦も佐野学らとともに招かれ、御所町寿座で水平社主催の講演会が開かれています。(注4)


 賀川豊彦はすでに当時、各地からの来訪者はもとより、全国からの講演依頼が殺到していました。しかし彼はそれをほとんど断り、断れない関係のあるところのみ応じていました。


 そんな中、「全国水平社」からの依頼にこたえ、1923(大正12)年1月にも講演に出かけ、そのときのことを『雲の柱』1923年3月号で、つぎのように記しています。


 「私は一月は水平社の特殊部落解放講演会や小作人の農民組合の運動の為めに大和の田舎や播州の田舎に出かけました。雪の中を貧しい部落に出入りすると、私は何となしに悲しくなりました。あまりに虐げられている部落の人々の為めに、私は涙が自ら出てそれ等の方々が、過激になるのはあまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。私は水平社の為めに祈るのであります。みな様も水平社の為めに祈ってあげてください。水平社の中には清原さん(西光万吉のこと)駒井さんや、阪本さんなど古くから私の知っている方があります。神様どうか、水平社を導いてください。雲の柱、火の柱を以って御導き下さい。アーメン」


 賀川は、12月21日の講演にでむき、さらに年明けの1月にも「大和の田舎」に出かけたことになりますが、もしそうであるとすれば12月には「大和の田舎」へ、1月には「播州の田舎」に、それぞれ出向いたのかも知れません。


           御所町寿座での配布ビラ


 このように「全国水平社」創立後も、賀川豊彦と運動の中軸にあって活躍する「同志」たちとは、相互に緊密な交わりが継続していることがわかります。


 そして注目させられるのは、鈴木良氏によれば、「全国水平社」創立後、「徹底的糾弾闘争」という運動形態のなかに、運動の基本をふみはずす傾きが生じてきたために、創立宣言を起草した西光万吉と創立大会で宣言を朗読した駒井喜作、そして「水平社」という組織の名前を発案した阪本清一郎の運動の中核となる三人が、水平社と農民運動の連携を図るなかで、さきの御所町寿座での講演会において配布したといわれる、つぎのようなビラが残されているというのです。


 「『人間は尊敬すべきものだ』と云っている吾々は決して自らそれを冒涜してはならない。自ら全ての人間を尊敬しないで水平運動は無意義である。(中略)諸君は他人を不合理に差別してはならぬ。軽蔑し侮辱してはならぬ。我等はすべての人間を尊敬する『よき日』を迎える為めにこそ徹底的糾弾をし、血を流し泥にまみれることを辞せぬのである。けれどもこと更に団結の力をたのんで軽挙妄動する野次馬的行為には我等は断じてくみするものではない。」(注5)


 「団結の力をたのんで軽挙妄動する野次馬的行為には我等は断じてくみするものではない」とするこの3人の意思表明は、運動の基調の確認の上でも重要ですが、この基調は、賀川豊彦の思想と深く共鳴するものです。


 「全国水平社」と農民組合のこの連携の動きには、運動を単なる徹底的糾弾闘争から超克させようとする西光らの着眼と期待があったこと、そして彼等はその意図をもって、この大事なときに、賀川豊彦を講演会に招いたのであるという鈴木氏の指摘は、十分に説得的であるように思われます。


        5 「水国争闘事件」とそれ以降のこと


 ところがしかし、「全国水平社」創立の1年後、1923(大正12)年3月に「水国争闘事件」といわれる大事件がおこってしまうのです。大正デモクラシーの風潮を抑えるために当時の内務大臣が斡旋してつくったといわれる右翼団体「大日本国粋会」と「全国水平社」が、奈良県磯城郡(都村鍵ノ辻)で激突するという事件です。


 この事件は、部落住民の嫁入り道具運搬の行列を都村八尾の一村民が四本指を出して差別したのに対して、「下永水平社」同人が抗議、八尾側にいた博徒で「大日本国粋会」会員が仲裁に入り、「水平社」側はこれを拒否して両者は激突。「国粋会」側は各地から博徒在郷軍人青年団などの応援をえて約1000人が竹やり・トビ口・日本刀・拳銃などで武装し、「水平社」側も県下各地の同人の応援のもとに、竹槍などで武装した300人の決死隊を先頭に数百名が激突し、多数の負傷者を出した大事件でした。


 これには警官はもちろん軍隊までも出動して鎮圧し、騒擾罪で「水平社」関係者が多く検挙され、懲役・罰金をふくめ全員有罪となり、「国粋会」側は軽微な処罰にとどまりました。


 「全国水平社」の歴史においてもこの事件は大きな位置を占める事件でしたが、賀川豊彦はこの年、九月には関東大震災の救援活動のために神戸を離れることもあり、後で取り上げる『貧民心理の研究』に対する「水平社」関係者からの批判などもあって、「水平運動」との直接的な関係は薄れていくのです。


 ただ、「水平社」もしくはその関係者とのつながりは全く切れてしまったわけではありません。


 たとえば、1926(大正15)年1月13日の『神戸又新日報』には、長野県水平社本部を小諸町に建設する企画がつくられ、そこに図書館と水平学校を創設して、賀川豊彦安部磯雄らがそこの顧問に推されるといった報道も見られますし、『荊冠の友』15号(昭和42年7月)で阪本清一郎氏は、「ある日、大阪天王寺公会堂で水平社主催の社会問題大演説会を開いた。当日の弁士は、早稲田大学安部磯雄学長、クリスチャンの賀川豊彦氏」云々という記述なども散見されます。


             『荊冠の友』での証言


 この『荊冠の友』という機関誌は、水平運動関係者の親睦組織として「荊冠友の会」が1965(昭和40)年10月、西光・阪本・木村・難波ら戦前の水平運動・社会運動関係者100余名が参加して奈良市で結成された親睦誌です。木村京太郎(1902〜1988)が編集発行人となり、1965年1月から1976年3月に解散されるまで継続し106号で廃刊されました。


 この機関誌には、西光万吉(1895〜1970)や阪本清一郎(1892〜1987)らの記した思い出が収められていて、当然そこには「賀川豊彦」の思い出も語られています。わたしも折々、今は亡き阪本氏や木村氏、そして上田音市氏などから、「賀川豊彦への尊敬の思い」は直にお聞きすることができました。


 第11号(昭和42年5月1日)の巻頭には、「水平運動への外廊支援の人達を偲ぶ」として「三浦三玄洞」「喜田貞吉」「山本宣治」「住谷悦治」「安部磯雄」「佐野学」「山川均」「堺利彦」「大杉栄」らと並んで「クリスチャン賀川豊彦」があげられています。


 そして第52号(昭和45年10月10日)には「外廊支援の人達」のひとりである住谷悦治氏自身が(当時1963年から1975年までの3期、同志社大学の総長の任にあり、西光万吉とは同い年)が、「賀川豊彦・はる子夫人」という興味深い長文を寄稿しています。これには住谷氏の描いた賀川のスケッチも収められていますが、本文にはつぎのようなことが記されています。


 「大正8年に『涙の二等分』という赤表紙の小さい詩集が出たのを買い求めたり、扇子に揮毫などして貰って東京に帰った。そのころ、賀川さんは上京するたびにYMCAの寄宿人舎を訪れ、わたしら舎生と記念撮影などした。大正11年4月、わたしは大学を卒業して京都同志社大学へ勤めるようになったとき、賀川さんは六月に大阪労働学校を創立した。・・」。


                


1  賀川と共に歩んだ最初の同労者・武内勝氏に関しては、同氏の口述記録『賀川豊彦とそのボランティア』(1973年)などで比較的知られているが、勝氏の相方・武内雪さんのことはあまり知られていない。彼女はこの生田川の「口入所」で遊佐氏のもとで事務を担当していたことは生前の聞きとりで伺ったことがある。


2  この項並びに次の項は、いちいち指摘していないが、鈴木良氏の「賀川豊彦と水平運動―鳥飼慶陽『賀川豊彦と現代』によせて」(『月刊部落問題』1988年9月号)ほか鈴木氏による実証的な論稿に負っている。鈴木氏の近著『水平社創立の研究』(2005年、部落問題研究所)では、さらに立ち入った研究成果が盛り込まれているが、ここではそれにもとづく必要な補正を施すことができなかった。ぜひ一読願いたい。


3  『賀川豊彦学会論叢』13号99頁の賀川純基氏の記述「3月2日」は誤記である。


4  このときのことは木村京太郎氏の聞き取りにおいても生き生きと語られてる。『月刊部落問題』1988年9月号『賀川豊彦のことなど―木村京太郎さんに聴く」参照。


5   鈴木良著『近代日本部落問題研究序説』(兵庫部落問題研究所、1985年)273頁参照。