「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第13回)(未テキスト化分)



 賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第13回・未テキスト化分


       第二章 部落問題の解決と賀川豊彦


         第一節 神戸の「被差別部落」と賀川豊彦


      (前回の続き)



    付記1 


       小説『石の枕を立てて』の賀川の記述について


 既述のとおり、賀川は自伝小説『石の枕を立てて』(実業之日本社)を水平運動の創立から17年経過した1939(昭和14)年に出版しています。この小説は、賀川が1923(大正12)年9月、東京に活動拠点を移し、1926(大正15)年秋、家族と共に兵庫県瓦木村へ移るまでの3年間を描いています。


 「自伝小説」と銘打たれていますが、もちろん小説です。ここでは特に「賀川と『部落解放運動』」について注目される「憎悪の福音」と題される箇所(98頁〜104頁)について見ておきます。


 この箇所の冒頭には、「大和の国御坊町の劇場には舞台裏まで聴衆が集まっていた。水平社の少数同胞解放演説会が開かれているのであった。新見も多年の間この問題について祈ってきたので、わざわざ東京から応援に出かけた。しかし、新見は深い悩みを抱いて、また大和から引換えして来た。」とあります。(賀川の自伝小説では主人公の「新見」は賀川をさしています。)


 すでに見たように、1923(大正12)年12月の演説会は「御坊」ではなく「御所」の誤りで、講演会の名称も「少数同胞解放演説会」でよいかどうか。前に引用した箇所と一部重複しますが、続いてつぎのように書き記しています。


 「大正8年新見が大阪で消費組合運動を始めた時、御坊の同志四人が消費組合を教えてくれと言って、神戸葺合新川の家まで訪ねて来られたのであったが、この4人が、大和の水平運動を絶叫して立ち、新見の考えているような協同組合精神をまどろっこいとして、圧迫者に対する憎悪の福音を説き始めた、この憎悪の福音が新見の胸を痛めた。しかし一面から云えば又、無理のないことだと思った。村にいて八割以上は土地を持たず、都市に住んでいて幾百年の間社会的侮蔑に苦しんで来た人々にとって、贖罪愛の福音は、余りにも軟弱に響いたのであった。大和の同志の一人であるSは京都の本願寺の賽銭箱を足蹴にかけて本願寺の搾取を呪うた。Sは御坊の本願寺派の僧侶であったのだ。新見はこの人たちに真の解放は、愛と奉仕の外にないということを繰り返して説いたけれども聞き入れてくれなかった。それが彼を悲しませた。」(98〜99頁)


 さらに賀川は続けて書いています。


 「Tは新見栄一を正面から罵倒し始めた。そして、実際新見としても大正3年ごろに出版した書物の中に書き過ぎていたこともあったので、咎められるのも仕方がなかった。しかし、それは研究として書いたのであって、同志に対する尊敬と奉仕の精神は変わらなかった。それで神戸の人々がその書について謝罪せよと要求して来たとき、十年前の著作であって殆ど絶版していたけれども、改めて謝罪し、その書の絶版を約した。かくして愛している者から排斥を受ける時の悲しさは、例えようもないほど悲しいものであった。』(99頁〜100頁)


 ここでの「T」も「神戸の人々」も具体的に誰であったのかハッキリしませんが、『貧民心理の研究』は1922(大正11)年1月に9版が出されて以後、事実上版を重ねていないようなので、右の記述をそのままとれば、おそらくこれは「全国水平社」がスタートして間もない頃と見ることができます。そして「全国水平社」の側からの賀川に対する抗議が、組織的になされたものかどうかも、いまのところ確認できていません。


 また「水国争闘事件」についても、先の記述の後につぎのように記しています。


 「アナーキストの群はこの運動に便乗した。それを見た新見は不祥な事件が起こらねばよいと思っていた矢先、大和の水平社騒動が爆発し、数千の国粋会員と数千の水平社員が数日に亘って戦争騒ぎを惹起した。そして、大正8年初めて神戸の新見の家を訪問してくれたT君が、その首魁者として懲役四年の宣告を受けた。T君は背の高い、貴族的な容姿をもった立派な人物であったが、憎悪の福音から逃れられないで、行くところまで行ってしまった。」(100頁)


 この事件に対する評価の仕方の問題や、ここでの「T君」や「懲役四年」というのは作品上のフィクションと思われますが、賀川豊彦にとってこの「水国争闘事件」は、「全国水平社」とのこれまでの親密な連携を途絶えさせるほどの大きな出来事だったといえます。


       付記2 

   賀川豊彦と岡本弥・三好伊平次との関係及び高橋貞樹の賀川への批判


 賀川は、次項「賀川豊彦の部落問題認識」でふれる「備作平民会」の三好伊平次(1873〜1969)や和歌山県出身の融和運動家・岡本弥(1876〜1955)などとの交流がありました。
岡本弥が「神戸新川」の賀川を訪問したあと、賀川が送り届けた岡本への「私信」が、1921(大正10)年に出版された岡本の著書『特殊部落の解放』(警醒社書店)に収められています。そこで賀川はつぎのように記しています。


 「私としては特殊部落の撲滅に就いて、三つの方法を考へて居ます。第一は大資本主義の急激な進化に待つこと、第二は部落の人々が金持になること、第三は部落の人々が、立派な人間になることを、科学的に証明することであります。」(359頁)


 「私信」とはいえ、賀川がここで言う「特種部落の撲滅」という言葉も「三つの方法」のいずれも、余りに乱暴な見方です。
 

 賀川と岡本の親密な関係は、「全国水平社」創立直前の1922(大正11)年1月に賀川が創刊した『雲の柱』2号に、岡本の論稿「特殊部落民の叫び」を掲載していることからも知ることができます。賀川豊彦は「全国水平社」が創立される段階にあっても、おそらく基本的にはこうした見方に立っていたと思われます。

 
 ところで『全国水平社』創立の2年後(1924年5月)、弱冠19歳で書き上げたといわれる高橋貞樹のあの『特殊部落一千年史』が更生閣から出版されました。この著作は発行後直ちに発禁となり、5ヵ月後に伏字や削除のある『改訂版』が『部落解放史』と改題して出版されました。


 その中に、つぎのような賀川への批判が記されています。おそらくこれは先の岡本の『特殊部落の解放』に収められた賀川の「私信」を批判したものと思われます。


 「賀川豊彦部落民が金持になることを部落解放の一策として奨めて居る。これは労働者は勤勉して資本家になれと云うのと同じく、『愛』の福音を説く賀川氏の説が、節約をすすめ貯金をすすめる資本家政府と同一の立場にあること、賀川氏は支配階級の走狗であり、幇間であることを證する以外の何ものでもない。』(『部落解放史』229頁。岩波文庫版『被差別部落一千年史』226頁)


 賀川豊彦は、岡本や三好などと共鳴しあう融和運動家のひとりと見ることができます。その重要な証拠のひとつは、水平社創立の10日余り前、賀川は大阪中之島公会堂で開催された「大日本平等会」の発会式に弁士のひとりとして参加していることからも知ることができます。


 この発会式には、全国水平社の準備会の5名が開会前に抗議をおこなうという場面があったり(「荊冠の友」68号、富築氏の証言)、その会場で西光が、3月3日の全国水平社創立大会の参加を呼びかけるビラをまき盛り上がったことなどはよく知られています。


 そしてその後の「水平社」にふれた賀川豊彦の記述からも、そのことが伝わってまいります。たとえば、昭和3(1928)年に刊行された賀川の作品『人類への宣言』(警醒社刊)の230〜231頁には、つぎのような『祈り』が収められています。


 「父なる神、無産者解放運動のために世界各国が今や激しき思想的動揺をいたしておりますときに、使徒パウロが書いた親切な手紙を読んで、いまさらながら、神の愛に満たされ、真に十字架の愛を持った解放であったことを知りえて感謝します。どうか世界をして、無茶無茶の革命運動に賛成せしめず、より上っ面な、外側の解放でなしに、黒人を愛し、奴隷を愛し、軽んぜられている人、目下の人、街の汚れた女をも心から愛する、真の人道的な立場に帰らしめてください。なお、日本にも多くの問題が残っています。水平社の問題、乞食の問題、今日でこそ多少高められましたが、なお低い職工の生活、労働者、日雇いの気の毒な生活に、賃金奴隷解放運動が残されています。
 父なる神、どうか日本をして誤りなき解放運動の道をたどらせてください。イエスによって祈ります。」


 さらに、昭和8(1933)年の著作『農村社会事業』(日本評論社刊)の283頁の「農村における融和事業」の項で、つぎのように記しています。


 「日本における水平運動がどんな形をとろうと、結局、産業運動によるほか、貧しい同胞たちの生活保障は殆ど不可能であろう。どこまでも協同組合によってこれらの人々に土地を与え、家を与え、職業を与え、教育を与え、自ら進んで更正の道をたどり得るような道を開いてあげることが必要である。」



注1  1992年の岩波文庫版では、原題の『特殊部落一千年史』が変更されて、新しい書名『被差別部落一千年史』とされている。高橋貞樹の時代には決して「被差別部落」と呼ばれることはなかった。