「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第14回)(未テキスト化分)


 賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第13回・未テキスト化分


         第二章 部落問題の解決と賀川豊彦 


    (前回の続き)


          第三節 賀川豊彦の部落問題認識


 これまで「部落問題の解決と賀川豊彦」の主題のもとに、賀川が神戸の「被差別部落」にあって、地域の人々の生活と健康、教育と福祉、そして環境の改善という総合的な問題解決のために取り組み、労働運動や農民運動、消費組合運動や水平運動などの社会運動の展開に、一定の役割を果たしてきた足跡の一端を取り上げてきました。


 続いて、もうひとつの課題である「賀川豊彦の部落問題認識」について検討しておきます。


       1 『貧民心理の研究』の部落問題理解


 まず、賀川の初期の代表的な研究書『貧民心理の研究』(警醒社書店、1915年)の第一篇第七章「日本に於ける貧民及貧民窟」の部分で「特種部落」について言及し、その一節にはつぎのように記しています。


 「日本全体の貧民窟から云へることは、もし都会に貧民窟と云ふ可きものがあるならば、それは特種部落より発達して居ると云ふことである。実際之は驚く可き事実で、日本に於いて実際、純平民の貧民窟は無いと云って然る可きである。(中略)それで、都会の貧民窟と云っても、実は穢多的結合をして居るものが多いので、殆ど人種的と云ってよかろうと思ふのである。東京の今日の貧民が然しどれだけ穢多から成立って居るかと云ふことはわからぬが、よく調べたら或は貧民の三分の二以上が穢多であるかも知れないと私は思って居るのである。之はだから日本の貧民窟研究に志すものが決して忘れてはならない、人種的分解法である。」(85頁〜86頁)
 

 そして第二節「東京の貧民」、第三節「大阪の貧民」、第四節「神戸の貧民窟」と続き、第五節において「穢多村の研究」がおかれています。そこで彼は、つぎのように書きすすめるのです。


 「日本に於ける貧民を研究する者には穢多の研究は実に重要なものであることは既に説いた。然し日本人が穢多に就いて研究して居る処は実に僅である。起原に就いては『穢多の研究』と云ふ書がある。歴史的に研究せられたものには遠藤博士の『日本我』がある。社会的に研究せられたものには留岡氏の『社会と人道』などがある。然し未だ穢多の研究は之で尽きては居らない。言語学的研究もまだ出来て居ない。人類学的研究もまだ出来て居ない。遺伝学も彼等の中に多くの何者かを発見するであろう。然し私も彼等に関して知る処は全く皆無である。(中略)彼等の起原に関しては、職業によれる起原説(遠藤氏)、人種による起原説、奴婢奴隷捕虜よりなれりとする起原説、罪人穢多編入説等がある。然し私は凡てが少しづヽ真理であろうと思ふ。けれども私は主として、人種説を取る。」(96頁〜98頁)


 このような見地に立って、賀川はそこで自らの主張に見合う諸経験をおりまぜて、部落を「カウカサス種の子孫」「犯罪人種」「時代に後れた太古民」「売春種族」などと断じています。そしてまた、この時の賀川の考えでは、「私は決して特種民の改善に悲観するものでは無い」として、つぎのように記しています。


 「実際彼等の多くは今日既に改善せられて居り、また彼等自身も都会に流入して自己淘汰を行ひつヽあるのである。(中略)よき淘汰法と、教育によっては、普通の日本人よりは善良優等なるものを創造し得るは私の信じて疑わぬ所である。私も多くの穢多と同じ床に寝、同じ食を取って之を信じて疑わないのである。」(103頁)


 「賀川生誕百年」のとき書き下ろした前記拙著『賀川豊彦と現代』のなかで、賀川の部落問題認識の誤りについて指摘し、当時京都帝国大学の新進気鋭の社会学者・米田庄太郎が書いた『貧民心理の研究』の「序文」のことを、少し詳しく取り上げました。(注1)


 隅谷三喜男氏は「日本の貧困研究史上不朽のもの」(注2) といわれ、嶋田啓一郎氏も古典叢書の一冊に収めるべく準備をされたこともある本書を、米田庄太郎氏もここでは賀川の著作を「良著作」として高く評価し、つぎのように記しています。


 「賀川氏の本著作に於て見るが如く、貧民心理其物を対象として、之を組織的に研究せんと試みたる著作は、まだ欧米諸国の何れに於いても、出版されて居らないと思ふ。(中略)されば余は今日本書の如き著作が、我邦の学者の手によりて、公にされたことは、我邦の学会の誇りとする可きことであろうと信ずるのである。」(6頁)


 その上で米田氏は、つぎのようなコメントを付しています。


 「勿論余は本書の研究法や材料に就いては、不完全なる点の少なくないことを認めて居る。又著者の見解や、結論に就いては、余の賛成し難い点は多い。而して其等の点に就いては、他日本書を公に論評して、又著者の帰朝の上、個人的に注意して、著者の反省を促したいと思ふて居る」(6頁〜7頁)


 米田氏はその後、賀川のこの著作について「公に論評」した形跡は認められません。むしろ賀川は、1917(大正6)年5月に帰朝して早々、米田氏を訪問しています。そして賀川と米田氏とはその後、友愛会の運動や協同組合運動などを通して、ふたりの関わりは深まることになるのです。


 ところで、拙著『賀川豊彦と現代』でわたしは、米田氏の賀川に対する「注意」と「反省を促したい」ことの中身は、賀川のこの部落問題認識に関わることは「確かなことでしょう」(74頁)と記しました。

 しかしわたしのその判断に対して、歴史研究者のなかから疑問が出されていました。賀川のとった「人種起源説」の見方は、「全国水平社」の創立に大きな役割をになった佐野学氏(1892〜1953)のような人も、1921(大正10)年に『解放』で発表した論文「特殊部落民解放論」のなかでは、この考え方に立っていたといわれますし、『日本社会史』などで知られる滝川政次郎氏は、戦前・戦後を通じての「人種起源説」の主唱者のひとりであったことはよく知られています。

 また、歴史家の渡辺実氏は『未解放部落史の研究』で有名ですが、1959(昭和34)年の自民党同和問題議員懇談会で「史上より見たる同和問題」と題して講演し、「・・特殊部落の祖先は、中国から日本に帰化してきた民族の末裔である。・・人種起源説というのが私の考え方・・」とする見方も残されてきました。


 米田氏の「個人的に注意」したかった内容はともかく、改めていうまでもないことですが、今日の歴史研究ではもちろん、賀川豊彦の『貧民心理の研究』で主張したような見方は、けっして受け入れられるものではありません。


       2 『精神運動と社会運動』の部落問題理解


 ところで、賀川は『貧民心理の研究』を刊行して4年後(賀川の帰朝2年後)、1919年(大正8)6月、719頁にもなる大著となった『精神運動と社会運動』を、同じ警醒社書店から世に問うています。


 この書物の後編『社会運動編』の四に「兵庫県内特種部落の起原に就いて」と題する一節が収められています。そこでの検討材料に用いているのは、引用文などを見るかぎり、「大正二・三年刊」とされる『兵庫県部落沿革調』(兵庫県内務部議事課)であることがわかります。


 この『沿革調』は、1912(明治45)年に内務省が各府県知事に命じて、部落の起源・沿革・人口などを調査したものを踏まえたものですが、これ自体当時の限界とはいえ、差別的な内容であることはいうまでもありません。それでも賀川の『精神運動と社会運動』における見方は、前著『貧民心理の研究』のような記述の仕方からは一定の変化が見られます。


 そしてまた、賀川はこの書物の別の箇所でも「内務省報告」の大正6(1917)年のものや8年のものをも参照しながら、つぎのような記述を残しています。
 

 「部落の問題―この最暗黒の感情の中で、所謂特種部落なるものに向って、普通の部落が現す所のもの程暗黒なるものはない。日本には今日八十三万八千六百六十六人の部落民があることになって居る。その多くは農村に住んで居る(大正八年一月内務省報告)。然し彼等が今日農村で受けて居る忍従は、とても想像以上である。然し之は全く、今日の日本の農村の米をつくるを知って人間をつくるを知らざる故である。私はこの階級的思想が一日も早く去られんことを望む。島崎藤村の小説破戒はこの辺の消息を洩したものであるが、私は部落民のことを思ふと涙が出る。彼等を開放(ママ)せよ。彼等を開放(ママ)した日に、日本の社会は完成に近いのだ。」(466頁)


      3 部落問題への研究的関心の持続と認識の変化


 賀川は、この『精神運動と社会運動』を刊行したとき(1919年6月)、『救済研究』7巻6号で『和歌山市周辺貧民窟の研究」(『和歌山県同和運動史』資料編、平成7年所収)を発表し、同年一一月発行の『救済研究』7巻11号でも「広島県の部落の社会的研究」を発表するなどしています。


 さらにその後も、おそらく大正10(1921)年前後のものと思われる『部落伝説史料』も収集しています。これは、全国の「細民部落分布」と兵庫県下の「部落調査」で構成され、二百字詰の「賀川原稿用紙」で244枚に及ぶ自筆資料です。この資料は、部落問題研究所所蔵の三好伊平次寄贈の「三好文庫」にありますが、おそらく三好が内務省社会課の部落問題担当主事に就いていたときに賀川と交渉があり、三次から譲り受けた「史料」を検討したものと思われます。


 勿論この『部落伝説史料』そのものが各地域の地域史研究を踏まえたものではなく、文字どおり「部落伝説史料」で、それぞれの部落の「起原と沿革」を集めたものです。


 賀川自身が「落武者」「浪士」「美濃の武士」「移住」「個人的」「僧」「朝鮮帰化」などと書き込み、部分的に「研究ノ要アリ」と記すなどして、「部落伝説史料」に検討を加えています。これを見るかぎり、賀川なりの、この分野の研究的関心の持続のあったことがわかります。


 しかし賀川はその後いつ頃まで、この問題の研究的関心を持ち続けたのか、そして賀川の中にどのような認識上の変化があったのか、今のところ正確な史料をとおして、それを明らかにすることはできません。


 けれども賀川豊彦は、部落問題だけでなく労働運動その他、広範な活動に打ち込むなかで、とりわけ「全国水平社」の創立者たちとの交流や、下記に言及する旧著『貧民心理の研究』に対する関係者からの批判なども経験して、旧来の考え方は徐々に改められていったであろうことは推測することができます。


 現在の部落問題理解から見て、大正期における「賀川豊彦の部落問題認識」には基本的な誤認と欠陥が含まれています。これはあくまでも「学問的な見解」として、歴史的に批判検討されるべきことは、改めて指摘するまでもありません。


 前にもあげた自伝小説『石の枕を立てて』の「憎悪の福音」のところで、賀川は、『貧民心理の研究』と思われる「大正3年頃に出版した書物の中に書き過ぎていたこともあったので、咎められるのも仕方がなかった。しかし、それは研究として書いたのであって、同志に対する尊敬と奉仕の精神は変わらなかった」と記しています。


 ここに賀川が「研究として書いた」という文言の意味は重要だと思います。賀川はそこに続けて「神戸の人々がその書について謝罪せよと要求して来たとき、十年前の著作であって殆ど絶版していたけれども、改めて謝罪し、その書の絶版を約した。こうして愛している者から排斥を受ける時の淋しさは、例えようのないほど悲しいものであった」(99頁〜100頁)と書いています。


 賀川に対する「批判・糾弾」は、当時部落問題に限らず労働運動や農民運動で日常的なことで珍しいことではありませんが、前記のように、この問題で「全国水平社」が組織的に糾弾を行ったという事実は確かめることはできません。また「神戸の人々」が誰であったのかも不明です。あくまでも小説のことであり、この記述を典拠にして、これが歴史的事実であったと見ることも控えねばなりません。(注3)


 以下「付記」として、賀川が生前、代表作として版を重ねた小説『死線を越えて』の作品における「削除」措置のことと、詩人として知られる山村慕鳥が晩年に書き上げた重要な小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』の出版について、賀川に相談を持ちかけた一件について、簡単に触れておきます



                 注


1  拙著『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所、1988年)67頁〜75頁参照。


2  隅谷三喜男著『賀川豊彦』(岩波書店同時代ライブラリー、1995年)25頁参照。


3   『賀川豊彦全集』問題については第一章でも言及しているが、上記の小説で賀川自身が「絶版を約した」とする記述を理由に、『貧民心理の研究』の全集収録を批判する意見も見られた。これも当時の「部落問題フィーバー」現象のひとつの勇み足に過ぎない。


 なお「賀川豊彦生誕百年」のとき製作されたNHKスペシャル番組「賀川豊彦って知っていますか」の中で、作家の大江健三郎氏は「『貧民心理の研究』に見られる賀川の表現は、小説『死線を越えて』に見られる文学表現と違って、当時の知識人の研究論文の書き方・表現の仕方がこういうものだった」ことを指摘し、隅谷三喜男氏は「確かに賀川の部落問題認識は間違っているが、賀川には差別的な意識はない」というコメントを残していた。


   (次回に続く)