「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第15回)(未テキスト化分)


賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第15回・未テキスト化分


     第二章 部落問題の解決と賀川豊彦


   (前回の続き)


     付記1 小説『死線を越えて』の「削除」措置について


 周知のとおり小説『死線を越えて』は、三部作のうち中巻を除く上・下巻において、不当な検閲による伏字の跡が現在まで無残なかたちで残されています。


 しかし当局の検閲とは別に、1927(昭和2)年8月に同じ改造社版で上中下三巻揃って改版されたおり、つぎのような箇所の「削除」措置が講じられています。その後に刊行された『死線を越えて』の作品は、すべてこの「削除」された改版が用いられています。


 これらの措置は、賀川自身によるものか、版元の意向に賀川が同意したのか、版元の自主規制なのか詳しい経緯は不明ですが、概略確認できる箇所は、つぎのようなところです。


 『死線を越えて』(大正9年)


 48頁10行 「穢多を対手に」削除
 403頁13行「特別に穢多の子は美しい」「や、穢多の子」削除
 458頁2行以下「水田が今日はあんな豪勢なものであるけれども、もとは山窩であったこと、このあたりの家主は大抵もとは穢多村から出て来た乞食であったこと、多田と云ふものは乞食から高利貸しをして、貧民窟の家主になって居ることから―」削除


 死線を越えて 中巻 太陽を射るもの』(大正10年)


 73頁8頁 「(指を四本出して―特殊民と云うこと)」削除
 73頁9行 「(指を同じやうに四本出して)」削除
 75頁3行 「之れ(指を四本示して)」削除
 213頁6行「部落民」削除
 284頁2行「特殊民」削除
 345頁3行「特殊部落の」削除
 346頁6行「特殊部落の」削除
 411頁5行「特殊民の」削除


 死線を越えて 下巻 壁の聲きく時』(大正13年)


 検閲による伏字箇所は多いが、「全国水平社」創立後の執筆でもあったのか、230頁2行に「部落」、3行に「新川部落」といった表現はあるものの一・二巻にあるような記述は見当たらないし削除箇所も確認できない。


 よく知られているように、明治学院とは関係の深い島崎藤村が、処女作『破戒』を自費出版したのは1904(明治39)年で、この作品は文学界に大きな衝撃を与えました。そして『破戒』は昭和4年、新潮社の初版本は絶版措置がとられました。


 それは「全国水平社」結成以後の、特に昭和5・6年頃までは、「差別糾弾闘争では、『穢多』『新平民』『特殊部落民』などの言葉を発した言動はもちろん、印刷・出版物の文書の上でそのような字句が使われている場合は、相手かまわず容赦なく徹底的に糾弾した」(注1) 歴史があったからです。


 1939(昭和14)年になって、藤村は自ら初版に入れられた「穢多」を「部落民」に書き換えるなどして「改訂版」を出すのですが、戦後1954(昭和29)年になって漸く、筑摩書房が初版本に復元し、以来藤村の小説『破戒』は現在の岩波文庫も「初版本」で読まれています。


 しかし賀川豊彦の作品は、この時代のなかで「削除」などの「自己規制」が行われたまま、いま無傷の「初版本」は古書で出合う以外一般には不可能になっています。


 なお、武藤富男氏による『賀川豊彦全集』第14巻の解説には、「昭和23年6月には伏字や削除した箇所を埋めて愛育社から出版され」たとされています。しかし、この愛育社版は上巻のみであり、実際に伏字箇所の補正が行われたのは、確認できるかぎりつぎの6ヵ所に止まり、「削除」箇所の初版本への復元とはなっていません。


 138頁14行「○○」 革命
 139頁2行 「○○」 抹殺
 139頁4行 「○○の連鎖」 輪廻の滅却  5字分これは訂正箇所
 139頁7行 「○○」 革命
 382頁8行 「△△△」 生殖器
 512頁4行 「△△△△△との関係」 9字分カット


      (補記)新版『空中征服』について


 「1988年、生誕百年を迎えた日本の生協運動の父・賀川豊彦がすでに今日の社会問題を予見していたともいえる1922(大正11)年のベストセラー小説の完全新版」として刊行された神戸時代の傑作『空中征服』(日本生協連刊、1989年)は、「全面的に新字・新かな、平易なことばづかいを採用、巻末には解説を付した」(カッコ内は何れも表紙カバーからの引用)とされる好著です。


 ところが、本書の「あとがき」で賀川純基氏は、「現代にあまりふさわしくない表現は三箇所ほど手を入れ、また挿絵一つを省きました。」と記し、「研究される方は、松沢資料館で初版本を御覧頂きたい」(273頁)とコメントをしています。研究者ならずとも、わたしも確かめたくなり、念のため手元の初版本で確認してみました。


 省かれた捜絵は、原本353頁の「人間改造機の運転を待つ人々」で、「現代にあまりふさわしくない表現は三箇所ほど手を入れ」たとされる箇所は、おそらくつぎの箇所と思われます。


 原本231頁「不具廃疾者」、これを「体が不自由な人」に言い換え
 原本340頁「私は之で大助かりです。貧民窟の人々などは之でどれだけ助かるか知れやしませんよ。鼻の落ちた人、手の取れた人、不具者、廃疾者、白痴、低脳、発狂、老衰、犯罪者・・これらの人々をこの機械で改造すれば、さしあたり貧民窟は無くなりますね」 この箇所は、全く書き換えられて「私のまわりに大勢いる、怪我で手足を失った人や、人生に失敗してもう一度出直したいと思っている人たちに、大いに利用したいですね」 これは確かに「手を入れ」たものです。
 原本351頁「跛の人には足がつき、盲の人には眼がつくやうに」 これを「足の悪い人には自由に動く足がつき、目の見えないひとには見える眼がつくように」
 

 こうした著作の場合は、「新字・新かな、平易なことばづかい」の採用はよいとしても、このような「削除」や「手の入れ」方は、適切ではないと思います。初版本を大切にして、必要な場合に適切なコメントを付すという一般的ルールが回復される必要があります。


   付記2 山村暮鳥の小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』と賀川豊彦


 賀川豊彦より4歳年上で詩人・児童文学者として名高い山村暮鳥(1884年〜1924年)には、41歳の生涯を閉じる前、闘病生活のなかで仕上げた重要な小説『鼴鼠(もぐらもち)の歌』という作品があります。「全国水平社」が創立されたあと1923年(大正12年)7月下旬に脱稿されました。


 慕鳥にはいま、評論家・土田杏村(1891〜1934)宛の最後の手紙(1925年7月15日付)が残されています。賀川と直接出合ったことも記されている興味深い文面です。


 「杏村学兄
 (前略)自分が去年の震災前、特殊部落の小説をかゐていたのを大兄にお知らせしてありましたがね。焼けてしまったとばかりおもってゐたそれがアルスでたすかり、この春頃、それを改造社でだすとかださぬとか、堺枯川氏が読んで何か書いてくれる筈だったのが、氏のチブスで入院されたのでおじゃんになり、とうとうまた手にかへって来ました。
 先に、その事で、一つは水平社の人々の意向なども知らうとおもって、水戸で、講演にきた賀川氏にあひました。話したら、とてもだめだめ、死後遺稿とでもして発表する外ないでせうとの事、するとその数日後大兄の『水平社新劇運動』の記事が読売にでた。さっそく大兄へ手紙をかかうとおもったが、何しろ仕事が忙しかったので今になった次第です。
 どうでせう、そうしたものは発表不可能でせうか。
 いま、自分は文化運動で大兄の水平社中学の記事を読んだが、実際あの人達はあの人達以外のものの理解や共鳴を求めぬのですか。
 自分はその小説を真剣でかいた。ある大きな(二字分不明)を感じてかいた。実に一朝一夕の仕事ではない。自分が牧師になったのもあの人達の間に伝道したいためであった。それは二十年来の宿望なのであった。
 まあ、発表は急ぎはしない、一どお暇をみて読んでみてくださるまいか。自分は純文学の立場でかかなかった。いつか大兄のお言葉もあったので、より普遍的な、民衆的な(でも通俗に堕しない)ペンでかいたつもりである。拙い事はいつもながらだ。けれどいくらかどこにか買ってもらへる真摯はあろうといふものだ。
 この頃、自分は華厳経を読んだ。すばらしいものだね。仏教にはもうおどろくばかりだ。
 いまは正法眼蔵をよんでゐる。もうもうたまらない。大きなものはみんな隠れているんだね。
                       イソハマにて  山村生」
  (『山村暮鳥全集』第4巻761頁〜762頁、筑摩書房、1990年)


 暮鳥の詩作品は、広く親しまれていますが、この『鼹鼠(もぐらもち)の歌』という小説も実に完成度の高い作品のひとつではないかと思います。


 彼はこの手紙を送った後、翌8月には詩集『風は草木にささやいた』をイデア書院から、9月には『ドストエフスキー』を同書院から、更に10月には『聖フランシス』をあおぞら社から、矢継ぎ早に出版しています。そして、11月には詩集『雲』の校正を病床で終え、ついに12月8日に永眠、41歳の短い生涯を終えました。


 暮鳥の小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』の発表について、ここで書かれている賀川の「とてもだめだめ、死後遺稿として発表する以外ないでしょう」という言い方は、死期の近い暮鳥に対する言葉として、全く賀川らしくない言葉として、戸惑いを覚えます。しかしそれほどに、賀川にとってこの問題は、特別の警戒心を抱かせるものであったことをうかがわせる、ひとつのエピソードだと思います。賀川がこの時、時の状況に抗して、暮鳥の作品にも直に目をとおし、暮鳥を励ますことができていたとしたら、どれほど良かったろうと、暮鳥を愛する者としても、惜しまれてなりません。



                


1   北原泰作「『破戒』と部落解放の問題』(1953年11月、雑誌『部落』48号)参照。