「賀川豊彦と現代」(第18回)(絶版テキスト化)



 川豊彦と現代(第18回


  絶版・テキスト化


          V 胎動期の開拓的試み(2)

          
          4 水平社運動と農民組合運動


 京都の岡崎公会堂で開かれた全国水平社の創立大会には、各地から三千名もの人々が参集したと言われますが、これには同志社の中島重(注1)や兵庫の河合義一(注2)、兵庫県救済協会の小田直蔵(注3)など部落外からも参加しており、賀川もこれに出席したとの証言もみられます。


 しかも、この大会が開かれる前の『朝日新聞』(大正一一年一月二百)には、二万人の受難者が集って/京都で「水平社」を組織/総裁は賀川豊彦氏の呼声が高い/先づ社会に向って差別撤廃を布告する”の見出しが掲げられ、本文にも「『水平社』の総裁には賀川豊彦氏推薦説が最も優勢である」と記されています。


 実際は「総裁」などというポストはつくられませんでしたが、水平社創立者たちと賀川との関係は浅からぬものがあったことは否めません。とりわけ西光万古などは賀川に傾倒して、演説のとき賀川の真似をするほどであったと言われています。


 水平社と農民組合双方とも、創立当初はとくに、それこそ維新の志土たちのように、広く議論を起こして横に結び合う、活気にみちたものでした。賀川らが農民組合を組織して各地に小作争議の支援に出かければ、遼原の火のごとく広がった水平社の運動とは、自ずと結び合うことになります。


 杉山の証言でも、部落は「社会的に非常な圧迫をうけているとともに、経済的には、とくに農村では最も貧乏な小作人であったから、身分解放のための水平社運動を起こすと同時に、経済運動としての農民運動にも利害相通ずるので、これら水平運動の先覚者は直ちに農民運動にも加担してくれる」ことになり、「奈良県で農民組合運動の最初の火蓋を切ってくれたのは西光万古」であり、その演説会を彼の西光寺で開催した、と言われています。


(注1)中島 重(一八八八〜一九四六)
 東大法学部に学び、同志社関西学院で教え、SCM運動に大きな影響を与えた。法理学者、社会的キリスト教の提唱者。
(注2)河合義一(一八八二〜一九七四)
 兵庫県高砂市生まれ。一九〇四年東京外国語学校卒業後、日本銀行に就職。一九一一年に帰郷し、一九一九年高砂町会議員、一九二三年には日農東橋連合会会長に就き、農民運動を指導した。
(注3)小田直蔵(一八八五〜一九六四)
 清野知事の依頼で一九一七年兵庫県嘱託となり、兵庫県救済協会常務理事をつとめる。以来、兵庫県の社会事業につくす。

 
           5 水平社への共感と批判


 賀川にはすでに当時、各地からの来訪者はもとより全国からの講演依頼が殺到していました。しかし彼はそれをほとんど断わり、断われない関係のあるところのみ応じていたようです。そんな中で、水平社からの依頼に応えて一九二三(大正一二)年一月、大和地方へ講演に出かけました。賀川はその時のことを、次のように記しています。


 「私は一月は水平社の特殊部落解放講演会や小作人の農民組合の運動の為めに大和の田舎や播州の田舎に出かけました。
 雪の中を貧しい部落に出入すると、私は何となしに悲しくなりました。あまりに虐げられてゐる部落の人々の為めに、私は涙が自ら出てそれ等の方々が、過激になるのはあまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。私は水平社の為めに祈るのであります。みな様も水平社の為めに祈ってあげて下さい。
水平社の中には清原さん(西光万吉の本名)、駒井さんや、阪本さんなど古くから私の知っている方があります。『神様どうか、水平社を導いて下さい。雲の柱、火の柱を以て御導き下さい。アーメン』」
                       (「雲の柱」大正12・3)


 賀川はしかし、水平社運動の初期にみられた「徹底的糾弾闘争」(注1)の仕方に対しては批判的な見方をしていました。『よき日の為めに』や「創立宣言」にみられるような、人間解放を求める正当ないぶきと積極的な行動に対しては十分な理解を示し、その前進のための協力を惜しみませんでしたが、彼の一貫した非暴力主義の立場からは、全面的には同調できないものを残しました。


 前に紹介した自伝小説『石の枕を立てて』の中で、一部重複しますが次のように書きしるしています。


 「大正八年新見(賀川のこと)が大阪で消費組合運動を始めた時、御坊の同志四人が消費組合を教えてくれと言って、神戸葺合の家まで訪ねて来られたのであったが、この四人が、大和の水平運動を絶叫して立ち、新見の考えているような協同組合精神をまどろっこしいとして、圧迫者に対する憎悪の福音を説きはじめた。この憎悪の福音が、新見の胸を痛めた。……しかし一面から云えば又、無理のないことだと思った。村にいて八割以上は土地を持たず、都市に住んでいて幾百年の間社会的侮蔑に苦しんで来た人々にとって、贖罪愛の福音は余りにも軟弱に響いたのであった。……新見はこの人たちに真の解放は、愛と奉仕の外にないということを繰り返し説いたけれども聞き入れてくれなかった。それが彼を悲しませた。」


(注1)「徹底的糾(軋)弾闘争」
 全国水平社創立大会で採択された「吾々に対し徴多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す」という決議にもとづく基本的な闘争戦術。
 この差別糾弾闘争は、部落住民の「人間としての自覚」をうながし、部落住民みずからの手よる人間としての権利を奪還する闘いを意味していた。しかし水平社運動の初期にあっては、部落差別の本質はおくれた人びとの偏見にあるとみなし、差別者個人に対する徹底的糾弾をつみかさねていけば差別観念は一掃できるものと確信していた。したがって差別する者は、資本家・地主も労働者・農民もまったく区別されることなく徹底的に糾弾された。その結果、表だった露骨な差別はしだいに少なくなったが、差別的な感情は一向に解消せず、かえって人びとの意識の奥ふかく沈んでしまい、糾弾闘争のはげしさから新たに恐怖や憎悪の感情さえつけ加わり、それが支配階級の分裂支配に利用されて、遂に部落との対立の溝が深められることにもなった。しかしやがてこうした差別者個人に対する徹底的糾弾闘争の誤りも克服されて、新しい方向を見出していくのである。


            6 水国争闘事件


 一九二三(大正一二)年三月、大日本国粋会という右翼団体と全国水平社が奈良県磯城郡で激突した、いわゆる「水国争闘事件」が起こります。この事件は、一村民の差別的言動に端を発し、一般村と部落との対立となり、博徒の国粋会会員が仲裁に入ったことから一般村と国粋会側は日本刀・拳銃などで武装し、水平社側も竹槍などもつ決死隊を先頭に立ち上り、多数の負傷者を出した大事件でした。これには警官はもちろん軍隊も出動して鎮圧し、騒擾罪で水平社関係者が多く検挙されました。
 賀川はこの事件についても、先の自伝小説の中で、次のように記しています。


 「アナーキストの群はこの運動に便乗した。それを見た新見は、不詳な事件が起こらねばよいと思っていた矢先、大和の水平社騒動が爆発し、数千の国粋会員と数干の水平社員が数日に亘って戦争騒ぎを惹起した。そして、大正八年始めて新見の家を訪問してくれたT君が、その首魁者として懲役四年の宣告を受けた。T君は背の高い、貴族的な容姿をもった立派な人物であったが、憎悪の福音から逃れられないで、行くところまで行ってしまった。」


 この事件に対する評価の仕方の問題や、ここでの「T君」や「懲役四年」というのは作品上のフィクションか思いちがいがあるように思われますが、賀川にとってはこの「水国争闘事件」は、水平社運動と直接的な離別ともなっていくのです。


             7 水平社の抗議


 また、水平社の側からの賀川に対する批判は、組織的なレベルでなされたあとはみられませんが、先の『貧民心理之研究』の問題については、『石の枕を立てて』の中の次のような賀川自身の証言によって知ることができます。


 「T君は新見栄一を正面から罵倒し始めた。そして、実際新見としても大正三年頃に出版した書物の中に書き過ぎてゐたこともあったので、咎められるのも仕方がなかった。しかし、それは研究として書いたのであって、同志に対する尊敬と奉仕の精神は変らなかった。それで神戸の人々がその書について謝罪せよと要求して来たとき、十年前の著作であって殆ど絶版してゐたけれども、改めて謝罪し、その書の絶版を約した。かくして愛してゐる者から排斥を受ける時の淋しさは、例へやうもないほど悲しいものであった。」


 「神戸の人々」が誰であったのかハッキリしませんが、『貧民心理之研究』は一九二二(大正一一)年一月に九版が出されて以後、事実上版は重ねられていませんから、右の記述をそのままとれば、おそらく大正一二、三年頃とみることができます。


 ただ、水平社もしくはその関係者とのつながりは全く切れてしまったわけではありません。例えば、一九二六(大正一五)年に、長野県水平社本部を小諸町に建設する企画がつくられ、そこに図書館と水平学校を創設して、賀川や安部磯雄(注1)らがそこの顧問に推される、といった新聞報道などからもそれは知ることができます。


(注1)安部磯雄(一八六五〜一九四九)
 福岡市生まれ。一八八六年同志社で教壇に立ち、一八九一年から米国ほかに留学。帰国後再び同志社で一時教鞭をとり、一九〇三年早稲田大学教授。キリスト教社会主義者として社会主義思想導入に先駆的役割を果たした。


            8 関東大震災の援護


 一九二三(大正一二)年九月一日、関東大震災が起こります。賀川はすぐこれの救援のため、木立義道、深田種嗣(注1)らと共に上京して、無料宿泊所や託児所を開き、すでに帰国して神戸で働いていた馬島医師も参加して無料診療所を始めました。ハルらも、覚醒婦人協会のメンバーと共に蒲団など救援物資を集めて、東京へ届けるなどの働きを行ないます。そして結局、賀川は妻子ともども神戸を離れ、一九二四(大正一三)年四月からは、東京市外の松沢村へ移住します。


(注1)深田種嗣(一九〇一〜一九六五)
 一九二四年一月二一日付の神戸新聞によれば、「父に棄てられた混血児深田」は、神戸のライマンホテルのボーイをしていたが、「賀川豊彦のイエス団に身を投じ、賀川氏につれられ目下東京本所キリスト教産業青年会にあり教えの道にいそしんでいる」と報じられている。後に日本基督教団国分寺教会牧師。


    (次回に続く)