「賀川豊彦と現代」(第19回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第19回


 絶版・テキスト化


        V 胎動期の開拓的試み(2)


          6 水国争闘事件


 一九二三(大正一二)年三月、大日本国粋会という右翼団体と全国水平社が奈良県磯城郡で激突した、いわゆる「水国争闘事件」が起こります。この事件は、一村民の差別的言動に端を発し、一般村と部落との対立となり、博徒の国粋会会員が仲裁に入ったことから一般村と国粋会側は日本刀・拳銃などで武装し、水平社側も竹槍などもつ決死隊を先頭に立ち上り、多数の負傷者を出した大事件でした。これには警官はもちろん軍隊も出動して鎮圧し、騒擾罪で水平社関係者が多く検挙されました。
 賀川はこの事件についても、先の自伝小説の中で、次のように記しています。


 「アナーキストの群はこの運動に便乗した。それを見た新見は、不詳な事件が起こらねばよいと思っていた矢先、大和の水平社騒動が爆発し、数千の国粋会員と数干の水平社員が数日に亘って戦争騒ぎを惹起した。そして、大正八年始めて新見の家を訪問してくれたT君が、その首魁者として懲役四年の宣告を受けた。T君は背の高い、貴族的な容姿をもった立派な人物であったが、憎悪の福音から逃れられないで、行くところまで行ってしまった。」


 この事件に対する評価の仕方の問題や、ここでの「T君」や「懲役四年」というのは作品上のフィクションか思いちがいがあるように思われますが、賀川にとってはこの「水国争闘事件」は、水平社運動と直接的な離別ともなっていくのです。


            7 水平社の抗議


 また、水平社の側からの賀川に対する批判は、組織的なレベルでなされたあとはみられませんが、先の『貧民心理之研究』の問題については、『石の枕を立てて』の中の次のような賀川自身の証言によって知ることができます。


 「T君は新見栄一を正面から罵倒し始めた。そして、実際新見としても大正三年頃に出版した書物の中に書き過ぎてゐたこともあったので、咎められるのも仕方がなかった。しかし、それは研究として書いたのであって、同志に対する尊敬と奉仕の精神は変らなかった。それで神戸の人々がその書について謝罪せよと要求して来たとき、十年前の著作であって殆ど絶版してゐたけれども、改めて謝罪し、その書の絶版を約した。かくして愛してゐる者から排斥を受ける時の淋しさは、例へやうもないほど悲しいものであった。」


 「神戸の人々」が誰であったのかハッキリしませんが、『貧民心理之研究』は一九二二(大正一一)年一月に九版が出されて以後、事実上版は重ねられていませんから、右の記述をそのままとれば、おそらく大正一二、三年頃とみることができます。


 ただ、水平社もしくはその関係者とのつながりは全く切れてしまったわけではありません。例えば、一九二六(大正一五)年に、長野県水平社本部を小諸町に建設する企画がつくられ、そこに図書館と水平学校を創設して、賀川や安部磯雄(注1)らがそこの顧問に推される、といった新聞報道などからもそれは知ることができます。


(注1)安部磯雄(一八六五〜一九四九)
 福岡市生まれ。一八八六年同志社で教壇に立ち、一八九一年から米国ほかに留学。帰国後再び同志社で一時教鞭をとり、一九〇三年早稲田大学教授。キリスト教社会主義者として社会主義思想導入に先駆的役割を果たした。


           8 関東大震災の援護


 一九二三(大正一二)年九月一日、関東大震災が起こります。賀川はすぐこれの救援のため、木立義道、深田種嗣(注1)らと共に上京して、無料宿泊所や託児所を開き、すでに帰国して神戸で働いていた馬島医師も参加して無料診療所を始めました。ハルらも、覚醒婦人協会のメンバーと共に蒲団など救援物資を集めて、東京へ届けるなどの働きを行ないます。そして結局、賀川は妻子ともども神戸を離れ、一九二四(大正一三)年四月からは、東京市外の松沢村へ移住します。


(注1)深田種嗣(一九〇一〜一九六五)
 一九二四年一月二一日付の神戸新聞によれば、「父に棄てられた混血児深田」は、神戸のライマンホテルのボーイをしていたが、「賀川豊彦のイエス団に身を投じ、賀川氏につれられ目下東京本所キリスト教産業青年会にあり教えの道にいそしんでいる」と報じられている。後に日本基督教団国分寺教会牧師。