「賀川豊彦と現代」(第20回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第20回


 絶版・テキスト化


         V 胎動期の開拓的試み(2)


          二 共同住宅の建設


           1 「不良住宅地区改良法」


 賀川にとって重大な関心事であり続けたものに、住宅を中心とした環境改善の課題がありました。日本でようやく都市に於ける住宅問題がクローズ・アップされはじめる一九一八(大正七)年七月には、賀川は日本建築学会に招かれて「貧民窟の破壊」と題する講演を試みています。しかし実際にこの課題が国のレベルで論議が開始されるのは、一九二四(大正一三)年に入ってからのことです。


 政府は四月に「帝国経済会議」という諮問機関を設置して、その委員に賀川を委嘱しました。そしてその中のいくつかの小委員会の一つに「不良住宅地区改良委員会」がつくられ、賀川はそこで『死線を越えて』『貧民心理之研究』をはじめ村島帰之の『ドン底生活』などから抜粋したパンフレットをつくり、自ら原案を作成するなどして、重要な役割をになうことになるのです。
 『石の枕を立てて』の中で、彼はこの時の委員会での発言を、次のように書いています。


 「六大都市の家屋の約六割が不良住宅地区と考えてよいと思ひますが、その不良住宅を全部一度に改造するとなると、相当な金が要りますが、内務省が二千万円、地方の自治体がそれにいくらかの金を加へてやる気を出せば、十分所謂貧民窟は改造出来ると思ひます。」


 こうして、賀川の原案はいくらか修正され、帝国経済会議に於て「不良住宅地区改良法案」が採択され、ついに一九二七(昭和二)年三月には法律一四号として同法が制定されます。


              2 夢の実現


 神戸市はこれをうけて急拠、その第一の事業として「葺合新川」の改良計画に着手し、法に基づく「地区指定」の申請を翌年一月に内務大臣あて提出します。しかしこれが認められるのが一九三〇(昭和五)年一〇月で、翌年五月にようやく事業認可となり七月から事業着手しました。


 一九三二(昭和七)年五月一九日付の『神戸又新日報』には、「やがては神戸第一の文化住宅街! 新川スラムの改良事業 希望輝く大工事」とか、完成予想図を入れて「改善事業が完成して面目を一新した暁の新川スラム、賀川豊彦氏によって世間に紹介せられた有名な新川不良住宅地域は、斯くも堂々たるアパート街となるのだ」と、大きく報じられています。


 そして翌年六月、近代的な「アパートメント・ハウス」の一部が竣工します。その後一九三五(昭和一〇)年までに、鉄筋住宅三二六戸と木造住宅六〇戸の建設はすすみましたが、おりからの戦時体制の強化によって、残念ながら当初計画の約半分が達成されたに留まらざるを得ませんでした。
賀川はこの住宅建設にふれて、次のように書いています。


 「こんどいよいよ神戸の貧民窟も二百三十万円の資本金で、立派なセメントコンクリートの労働者アパートに建てかはることになった。これは前の若槻内閣の時に通過した六大都市不良住宅改良資金が廻ってきたのである。この議案を議会に通過さすとき『死線を越えて』の一部分が参考資料として議会内に配布せられたのであった。それで『死線を越えて』がその貧民窟を改造する糸口になったことを神に感謝しないわけにいかない。『死線を越えて』を発表してから今年で満一三年目である。そしてその『死線を越えて』によって、貧民窟がうちこわされるのを見て私はうれしくてたまらなかった。そのまたセツルメントの主任に私が貧民窟で最初教へた夜学校の学生である武内勝氏が主任として、就任せられるやうになったことは、殆ど奇蹟的にも考えられる。」
                    (「雲の柱」昭和7・3日)


 「そして新見の住んでゐた神戸葺合新川の汚い家が破壊され、その代りに鉄筋混凝土の四階建の御殿のやうな家がそこに実現した。それを見た新見栄一は、貧民窟を改造しようとした多年の祈りが聴かれたことを、心より神に感謝した。」
                        (『石の枕を立てて』)




   (次回に続く)