「賀川豊彦と現代」(第17回)(絶版テキスト化)




 賀川豊彦と現代(第17回


  絶版・テキスト化



         V 胎動期の開拓的試み(2)


         一 水平社運動・農民組合運動


          1 西光(注1)・阪本(注2)らの訪問


 部落問題に関する賀川の認識上の誤りについてはⅢで取り上げました。そして、米田庄太郎の注意をはじめ、賀川自身の独自の努力や時代の前進により、また米国の留学やその後の社会運動・労働運動の経験をとおして、部落問題についての理解も一定の変化をみせます。加えてさらに、「よき日の為に」情熱を傾ける部落出身の青年たちの来訪も受けて、具体的な交流も深まることになります。


 一九三九(昭和一四)年につくられた自伝小説『石の枕を立てて』で賀川は、「大正八年新見(賀川のこと)が大阪で消費組合運動を始めた時、御坊の同志四人が、消費組合を教えてくれと言って、神戸葺合の家まで尋ねて来られたのであった」と書き残しています。この「御坊の四人」というのは御所の誤りで、後に全国水平社の創立の立役者、阪本清一郎・駒井喜作(注3)・西光万吉らを指しています。


 すでによく知られているように、阪本・駒井ら数名の青年たちは、一九一九(大正八)年頃、奈良県柏原(現御所市)で「つぼめ組」とよばれる親睦団体をつくり、自由な天地を求めてセレベス島に移住する計画を立て、マレー語の勉強を始めていました。しかし、折からの排日気運のためこれを断念し、自分たちの地域にとどまって民主的な村づくりに乗りだします。


 そうした中で彼らは「葺合新川」での賀川の活動、なかでも「消費組合運動」という、生産者と消費者を結合させて新しい理想を実現させようとする活動に強い関心をいだいて、神戸に賀川を訪ね、その経験を学んだのです。


 そして、一九二〇(大正九)年五月に、阪本らは、部落問題の解決をめざすという、より明確な目的をもって、新たな決意で「燕会」として再スタートいたします。消費組合運動を柏原の地で独自に発展させるために「消費組合部」を設立して、生活の刷新と合理化のために奮闘します。さらに「燕会」の中に「社会問題研究部」をつくり、社会科学の学習やデモクラシーの思想を積極的に学んでいきます。


 こうして、翌年七月に雑誌『解放』に発表された佐野学(注4)の「特殊部落民解放論」などにも触発されて、阪本らは同年秋ついに、部落の自主的な全国組織をめざして「水平社創立事務所」を設けるのです。そしてそこで、“起きて見ろ――夜明けだ”とよびかけるあの有名な創立趣意書『よき日の為めに』を刊行して、ひそかに「水平社」結成の準備にとりかかるのです。


(注1)西光万吉(一八九五〜一九七〇)
 奈良県御所市生まれ。一九二〇年阪本らと日本社会主義同盟に参加。一九二二年の全国水平社「創立宣言」を起草。また日農本部の常任委員となり、機関誌『土地と自由』の編集にもあたる。
(注2)阪本清一郎(一八九二〜一九八七)
 奈良県御所市生まれ。全国水平社の創立者のひとり。人間の平等を示す「水平社」という組織名の提案者。一九二七年労働農民党第一回大会で全国水平社を代表して中央委員に選出される。
(注3)駒井喜作(一八九七〜一九四五)
 奈良県御所市生まれ。阪本・西光らと行動を共にし、全国水平社創立大会では「水平社宣言」を度々絶句しながら朗読し参会者を感涙させた。その時の様子は「三千の会衆みな声をのみ面をふせ戯欷の声四方に起る……沈痛の気、堂に満ち、悲壮の感、人に迫る」と記されている。
(注4)佐野 学(一八九二〜一九五三)
 大分県杵築市生まれ。東京帝国大学大学院卒業後「満鉄」を経て、一九二〇年早稲田大学講師となり経済学および経済史を担当。同年全国坑夫組合を創立し、雑誌『解放』の編集にも参加。


            2 水平社創立の準備


 先にふれた「川崎・三菱大争議」は一九二一(大正一〇)年八月に終わり、争議で職を失った人々や『死線を越えて』で心動かされた人々が、賀川のもとに集ってきます。そして、一〇月には、賀川と共に「日本農民組合」を構想・準備しつつあった杉山元治郎(注1)も、それの創立に向けて本格的な取り組みを開始いたします。


 農民組合の機関誌『土地と自由』は翌(大正一一)年一月に創刊され、各地で起こる小作争議の支援に出かけるなど多忙となりますが、杉山は『土地と自由のために――杉山元治郎伝』(一九六五年)の中で、次のような重要な証言を残しています。


 「日本農民組合創立の打合せを神戸新川の賀川宅でしていたころ、全国水平社創立の相談を同じく賀川宅でしていた。その人々は奈良県からきた西光万吉、阪本清一郎、米田富(注2)の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川氏宅で顔をあわせたことがある。」


(注1)杉山元治郎(一八八五〜一九六四)
 大阪府泉佐野市生まれ。一九〇九年東北学院神学部卒業後、東六番丁教会および小高教会牧師。一九二〇年大阪に移り賀川を訪れ、共に農民運動に取り組み日本農民組合初代組合長に推される。
(注2)米田 富(一九〇一〜)
 奈良県五条市生まれ。一九二一年西光・駒井らに出会い、水平社創立に協力。また日本農民組合の組織化につとめる。


             3 日本農民組合


 周知のように、全国水平社は京都の岡崎公会堂に於て、一九二二(大正一一)年三月三日に創立大会を開き、日本農民組合は神戸基督教青年会館に於て、四月九日に創立大会を開いています。全国水平社の「創立宣言」は西光万古の筆になることはよく知られていますが、賀川の筆になる日本農民組合の「言言」と「綱領」はあまり知られていませんので、次に紹介しておきます。「綱領」は水平社のものと形式が酷似し、「宣言」は賀川の思想がよくあらわれています。


               宣 言

 農は国の基であり、農民は国の宝である。日本はまた農業国である。国民の七割は田園に居住し、またその七割は小作人である。然るに積年の階弊は田園に充ち、土地兼併の悪風漸く現われ、田園も遂に資本主義の侵略するところとなり、小作人は苦しみ、日雇人は歎く。茲に我等農民は互助と友愛の精神を以て解放の途上に立つ。
 我等は飽迄暴力を否定す。我等は思想の自由と社会公益の大道に従い、真理を愛し、妥協なき解放を期せねばならぬ。即ち我等はただ農民の団結による合理的生産者組合により、横暴なる資本家に対抗するより外に道を持たないのである。
我等は急いではならぬ。土地の社会化も産業の自由も一瞬にして成るものではない。春蒔く種は、秋まで待たねばならぬ。既に国際労働会議は農民組合の自由を保証した。我等はこの世界の大勢に従い倦むことなく歩み続けねばならぬ。田園に光明が漲るまでには尚幾百回の苦難を通過せねばならぬ。苦難を知らざるものは成功を知らざるものである。
 日本の農民よ、団結せよ。然して田園に山林に、天与の自由を呼吸せよ。我等は公義の支配する世界を創造せんがために、此処に犠牲と熱愛とを捧げて窮乏せる農民の解放を期す。

                 綱 領

 一 我等農民は知識を養い、技術を研き、徳性を涵養し、農村生活を享楽し、農村文化の完成を期す。
 二 我等は相愛扶助の力により相擁し、相倚り、農村生活の向上を期す。
 三 我等農民は穏健着実、合理合法なる方法を以て共同の理想に到達せんことを期す。


   (次回に続く)