「賀川豊彦と現代」(第16回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第16回


  絶版・テキスト化


         Ⅳ 胎動期の開拓的試み(1)


          四 川崎・三菱大争議


           I 大示威運動


 一九二一(大正一〇)年の夏、神戸の川崎・三菱両造船所を中心として勃発した労働争議は、神戸製鋼所・台湾精糖・ダンロップなどの大工場からゴム・マッチ等の小さな工場も巻き込んだ、戦前では日本最大の争議でした。


 武田芳一の社会小説『熱い港』(一九七九年)は、渦中に巻き込まれた人々の証言を取材して争議の全容を明らかにした大作ですが、ここでは争議の概要と共に参謀として活躍した賀川のことに少しふれておきます。


 同年六月には、川崎・三菱両造船所に次々と労働組合が結成され、要求交渉が始まり、会社側は、交渉に当る委員を一方的にクビにしていきます。これに対し、労働者の抗議と憤感が爆発し、遂に官憲の弾圧や軍隊の出動も加わり、延四五日間の悪戦苦闘がくりかえされます。


 そしてこの争議には、数多くの未組織労働者や市民も加わり、七月一〇日の大示威運動には、炎天下三万人を越える人々が参加しました。しかも、無政府主義的な直接行動主義が労働運動に支配的であった当時にあって、争議団はあくまで整然とした非暴力的正攻法の争議戦術を展開しました。


 争議は長期化しデモも禁じられるなか、同月二八日には「神社参拝デモ」を組織、一万余の争議団は長田神社に集合し、神前において野倉萬治(注1)が次のような「祈祷文」を朗読しています。この「祈祷文」も、賀川の作と言われます。


 「天地神明二誓ッテ、神戸三万ノ労働者ハ申ス。我等ハ金権二虐ゲラレ、官憲ノ圧迫ニアイ、自由ノ道ハ通ゼズ、日二嘆キ、夜ニ憂イ、肉ハ落チ、血ハ枯レ、ココ二唯、天地神明二祈願シテ、宇宙大衆ノ批判ヲ受ケンコトヲマツ。我等ガ道非ナルカ、金ヲ貪ル彼ラガ是ナルカ。我等ハ圧制横暴迫害二堪エ、アクマデ産業ノ自由ト人格ノ解放ノタメニ天地大霊ノ庇護ヲ乞イ願ウ。」





(注1)野倉萬冶(一八八一〜一九四二)
 兵庫県龍野市生まれ。一九一〇年川崎造船所入社。一九一九年同造船所のサボタージュ闘争で最高責任者として指導。一九二一年友愛会神戸連合会会長。


            2 「敗北宣言」


 翌日も「神社参拝デモ」を行ない、ついに警官隊との衝突が起こり多数の重軽傷者を生みます。そして賀川ら争議団の主たった幹部は一斉に検挙されてしまいます。翌三〇日、賀川は三ノ宮警察の獄中で、「留置場の歌」をつくり、「………死ぬなら 彼等と共に/罰せられるなら 彼等と共に/ただ私は 解放の日の為に/強く 生きて居りたい!」と結んでいます。(『永遠の乳房』)


 こうして遂に、八月九日には「敗北宣言」が発表され、翌日賀川は一二日ぶりに釈放されます。そして、新聞記者から感想を求められ、彼は次のように語っています。


 「労働争議があんな風になったことは、遺憾の極みです。しかし、これはただ表面の敗北のみにとどまって、その内容は決して惨敗したものでも何でもない。今回の労働運動によって、労働者が階級意識に目覚めたこと、労働運動の真理は、はたして如何なるものであるかをあまねく社会に諒解せしめたことだけでも、かなりの収穫をえたものと信じます。
 しかも罷業の終息と同時に、争議団の経過、惨敗の理由等を堂々と言言して、就業するにいたった態度は、まことに英米のやうな先進国の労働運動を彷彿させたものであって、たしかに我国の労働争議史上に大きな新しいレコードをつくった。……こうした意味で、こんどの争議は決して敗けたのではなくて、ただ労資戦の序幕が静かにおろされたといふべきが至当だろうと思ひます。」(横山春一『賀川豊彦伝』)


 この大争議は、たしかにその後の労働運動の幕開けではありました。しかし、この争議が起因になって死亡した人は五名を超え、賀川は不起訴となりましたが五十六名もの人々が起訴され、なかでも川崎争議団代表の野倉萬治は二年半の懲役刑を受けました。そのため受刑者への差入れや家族の生活費など多額の費用を要し、賀川は『死線を越えて』の印税で、その多くを負担しました。


 ※賀川の小説『死線を越えて』は三五〇版、次の『太陽を射るもの』と『壁の声聞くとき』はそれぞれ二〇〇版、およそ五〇万部が出版され、その印税の中から三万五千円を上記の争議の後仕末に用い、二万円を次章でふれる日本農民組合を起こす費用に、一万五千円を診療活動で多額の費用を要していたイエス団友愛救済所を財団法人組織にするための基本金に、一万円を消費組合の設立費用に、五千円を鉱山労働運動の費用に、同じく五千円を大阪労働学校の設立基金に、さらに一万円をその他の社会事業費にあてたと言われています。


   (次回に続く)