「賀川豊彦と現代」(第15回)(絶版テキスト化)



 賀川豊彦と現代(第15回


 絶版・テキスト化



         Ⅳ 胎動期の開拓的試み(1)


       三 『死線を越えて』と『貧民窟物語』


          1 超ベストセラー


 賀川にとって予期しなかった大きな出来事が、一九二〇(大正九)年一〇月に起こります。それはあの空前の超ベストセラー『死線を越えて』の刊行です。


 この小説は、はじめ『改造』(注1)に大正九年一月号から四回分が掲載され、一〇月には改造社の処女出版として世に出ました。ところがこれが人々の心をとらえ、出版二ケ月ならずして一六版を売りつくしてしまいます。どの新聞も競い合ってこれの書評を載せていますが、次の『時事新報』の批評はいくらか誇張があるとはいえ、当時の様子を彷彿させるものがあります。(この小説で「栄一」は賀川を指しています。)





 「『私は人間を愛する。人間を崇拝する』と栄一はいふ。この人間性に対する無限の愛と信頼とは、まことに聖者の心である。この心を抱く栄一は、彼等に対して、些の優越意識をも有ってゐない。憐むとか恵むとか教えるとか、導くとか率ゐるといふ気持を持ってゐない彼は、彼等下層民の中に交って完全にその一人となり、十分に彼等の心を体得してゐる。而して彼等を彼の中に生かすと共に、彼を彼等の中に生かしてゐる。その心を私は有難く思ふ。」


 また、横山春一は『賀川豊彦伝』の中で、賀川自身がこの小説について次のように述べたことを紹介しています。


 「私が小説を書きたかった理由は、私の小さい胸に、過去の悲しい経験があまりに深刻に響き、私が宗教的になって行くことによって、非常に気持が変って来たことを、どうしても小説体に書きたかったのです。書きあげた小説を、私は島崎藤村(注2)先生に一度見て頂いたことがありました。すると先生は丁寧な手紙を添えて、数年間篋底に横へて自分がよく判るやうになってから、世間に発表せよといはれたのでした。その後肺病はだんだんよくなって、私は貧民窟に入りました。それから十二年経ちました。十二年目に……私は、『死線を越えて』(上巻)の後の三分の一を、新しく書き加えたのでした。……私は、あの小説を必ずしも成功した小説だとは思ひません。それが雑誌『改造』に出た時に、あまり拙いので自分ながらはらはらしました。ですから、本になった時に、あんなによく売れたのを、自分ながらも驚いたのでした。けれども今になって考えてみると、読者はやはり私が考えた通り、拙い文章を見逃してくれて、私が書かうと思った心の歴史――つまり心の変り方――を全体として読んでくれたのだと感謝してゐるのです。私は、文章の拙いことを読まないで、心持の変って行く順序を読んで下さる方は、私の最もよき友達であると、いつも感謝してゐるのです。それと共に私は、……あの拙い文章を辛抱して読んでくれ、その上私の心の生活を全部知り抜いた読者は、予言者のように、私を批判する力を持ってゐるのであると、いつも思ふからです。」


 当時の農村・都市を問わず、老若男女を問わず、人々の心を打ち、熱烈に歓迎されたこの小説の魅力は、ここに記されているように彼の青年期の波乱にみちた「心の歴史(心の変り方)」が克明に刻みこまれて、しかも彼自身が結核などの病苦による「死線を越えて」たどりついた新しい生活のドキュメントを、正直に描き出したところにありました。


             2 ハルの名著


 『死線を越えて』が刊行される五ヶ月前に、ハルの名著『貧民窟物語』が「社会問題叢書」のひとつとして福永書店から出版されています。これは小さなポケット版の二百頁余りの作品ですが、女性の細やかでやさしい目をとおして、彼女自身が一九一二(大正元)年から出会った「葺合新川」の人々との生活を、落ち着いた筆致で書き下したものです。


 「蔭の人々」「小さいストーブを囲んで」「簡易生活のよろこび」「天下泰平棟割長屋」「セメントと馬鈴薯と死」「風呂屋日記」「貧民窟の小詩人」などのエッセイが、飾らずに淡々と語られています。
ハルは、そこで次のように記しています。


 「貧民窟に対して従来は単に金銭物品の施与を以て貧を救はんと致しました。勿論眼前の貧困はその慈善に待つでありませうが、これが根本的の防貧策としては、住宅が改良され、彼等に教育なるものが普及され、飲酒を止めて風儀を改め、趣味の向上を計るなどこれら、貧民窟改良事業を、労働運動に合せて行ふ時に、今日の一大細民部落の神戸市から跡を絶つに至ると信じます。私は神戸市民の覚醒により、貧民窟が改良さるる具体的の改造を、切に願ってやまない次第であります。」


 ハルは、賀川の影にかくれて表面に出ることは少ないのですが、人々の生活に密着した活動に専念し続けた様子が、本書によって知ることができます。そしてその後彼女も、賀川と共に社会運動に積極的に参加し、一九二一(大正一〇)年三月には、「無産婦人の解放」をかかげて長谷川初音らと共に「覚醒婦人協会」を結成し、月刊『覚醒婦人』を刊行しはじめます。彼女らは、ゴム女工の争議支援や婦人労働組合の組織化に乗りだすのをはじめ、次に記す大争議でも「救護班」として婦人パワーを発揮いたします。


(注1)「改造」
 一九一九年四月、大正期のデモクラシー思潮の高揚を背景に山本実彦によって創刊。
(注2)島崎藤村(一八七二〜一九四三)
 賀川は一九〇八年五月「鳩の真似」(後の「死線を越えて」)の原稿を携えて、島崎藤村を訪れる。藤村はその二年前、『破戒』を自費出版し好評を博していた。



     (次回に続く)