新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第15回)



         爽やかな風


     −宗教・人権・部落問題ー


                第15回


   第四章 部落問題の解決と賀川豊彦


    (前回の続き)


     第3節 賀川豊彦の部落問題認識


 これまで「部落問題の解決と賀川豊彦」の主題のもとに、賀川が神戸の「被差別部落」にあって、地域の人々の生活と健康、教育と福祉、そして環境の改善という総合的な問題解決のために取り組み、労働運動や農民運動、消費組合運動や水平運動などの社会運動の展開に、一定の役割を果たしてきた足跡の一端を取り上げてきました。


 続いて、もうひとつの課題である「賀川豊彦の部落問題認識」について検討しておきます。


     1  『貧民心理の研究』の部落問題理解


 まず、賀川の初期の代表的な研究書『貧民心理の研究』(警醒社書店、1915年)の第一篇第七章「日本に於ける貧民及貧民窟」の部分で「特種部落」について言及し、その一節にはつぎのように記しています。


 「日本全体の貧民窟から云へることは、もし都会に貧民窟と云ふ可きものがあるならば、それは特種部落より発達して居ると云ふことである。実際之は驚く可き事実で、日本に於いて実際、純平民の貧民窟は無いと云って然る可きである。(中略)それで、都会の貧民窟と云っても、実は穢多的結合をして居るものが多いので、殆ど人種的と云ってよかろうと思ふのである。東京の今日の貧民が然しどれだけ穢多から成立って居るかと云ふことはわからぬが、よく調べたら或は貧民の三分の二以上が穢多であるかも知れないと私は思って居るのである。之はだから日本の貧民窟研究に志すものが決して忘れてはならない、人種的分解法である。」(85頁〜86頁)


 そして第二節「東京の貧民」、第三節「大阪の貧民」、第四節「神戸の貧民窟」と続き、第五節において「穢多村の研究」がおかれています。そこで彼は、つぎのように書きすすめるのです。


 「日本に於ける貧民を研究する者には穢多の研究は実に重要なものであることは既に説いた。然し日本人が穢多に就いて研究して居る処は実に僅である。起原に就いては『穢多の研究』と云ふ書がある。歴史的に研究せられたものには遠藤博士の『日本我』がある。社会的に研究せられたものには留岡氏の『社会と人道』などがある。然し未だ穢多の研究は之で尽きては居らない。言語学的研究もまだ出来て居ない。人類学的研究もまだ出来て居ない。遺伝学も彼等の中に多くの何者かを発見するであろう。然し私も彼等に関して知る処は全く皆無である。(中略)彼等の起原に関しては、職業によれる起原説(遠藤氏)、人種による起原説、奴婢奴隷捕虜よりなれりとする起原説、罪人穢多編入説等がある。然し私は凡てが少しづヽ真理であろうと思ふ。けれども私は主として、人種説を取る。」(96頁〜98頁)


 このような見地に立って、賀川はそこで自らの主張に見合う諸経験をおりまぜて、部落を「カウカサス種の子孫」「犯罪人種」「時代に後れた太古民」「売春種族」などと断じています。そしてまた、この時の賀川の考えでは、「私は決して特種民の改善に悲観するものでは無い」として、つぎのように記しています。


 「実際彼等の多くは今日既に改善せられて居り、また彼等自身も都会に流入して自己淘汰を行ひつヽあるのである。(中略)よき淘汰法と、教育によっては、普通の日本人よりは善良優等なるものを創造し得るは私の信じて疑わぬ所である。私も多くの穢多と同じ床に寝、同じ食を取って之を信じて疑わないのである。」(103頁)


 「賀川生誕百年」のとき書き下ろした前記拙著『賀川豊彦と現代』のなかで、賀川の部落問題認識の誤りについて指摘し、当時京都帝国大学の新進気鋭の社会学者・米田庄太郎が書いた『貧民心理の研究』の「序文」のことを、少し詳しく取り上げました。(17)


 隅谷三喜男氏は「日本の貧困研究史上不朽のもの」(18) といわれ、嶋田啓一郎氏も古典叢書の一冊に収めるべく準備をされたこともある本書を、米田庄太郎氏もここでは賀川の著作を「良著作」として高く評価し、つぎのように記しています。


 「賀川氏の本著作に於て見るが如く、貧民心理其物を対象として、之を組織的に研究せんと試みたる著作は、まだ欧米諸国の何れに於いても、出版されて居らないと思ふ。(中略)されば余は今日本書の如き著作が、我邦の学者の手によりて、公にされたことは、我邦の学会の誇りとする可きことであろうと信ずるのである。」(6頁)


 その上で米田氏は、つぎのようなコメントを付しています。


 「勿論余は本書の研究法や材料に就いては、不完全なる点の少なくないことを認めて居る。又著者の見解や、結論に就いては、余の賛成し難い点は多い。而して其等の点に就いては、他日本書を公に論評して、又著者の帰朝の上、個人的に注意して、著者の反省を促したいと思ふて居る」(6頁〜7頁)


 米田氏はその後、賀川のこの著作について「公に論評」した形跡は認められません。むしろ賀川は、1917(大正6)年5月に帰朝して早々、米田氏を訪問しています。そして賀川と米田氏とはその後、友愛会の運動や協同組合運動などを通して、ふたりの関わりは深まることになるのです。


 ところで、拙著『賀川豊彦と現代』でわたしは、米田氏の賀川に対する「注意」と「反省を促したい」ことの中身は、賀川のこの部落問題認識に関わることは「確かなことでしょう」(74頁)と記しました。


 しかしわたしのその判断に対して、歴史研究者のなかから疑問が出されていました。賀川のとった「人種起源説」の見方は、「全国水平社」の創立に大きな役割をになった佐野学氏(1892〜1953)のような人も、1921(大正10)年に『解放』で発表した論文「特殊部落民解放論」のなかでは、この考え方に立っていたといわれますし、『日本社会史』などで知られる滝川政次郎氏は、戦前・戦後を通じての「人種起源説」の主唱者のひとりであったことはよく知られています。


 また、歴史家の渡辺実氏は『未解放部落史の研究』で有名ですが、1959(昭和34)年の自民党同和問題議員懇談会で「史上より見たる同和問題」と題して講演し、「・・特殊部落の祖先は、中国から日本に帰化してきた民族の末裔である。・・人種起源説というのが私の考え方・・」とする見方も残されてきました。


 米田氏の「個人的に注意」したかった内容はともかく、改めていうまでもないことですが、今日の歴史研究ではもちろん、賀川豊彦の『貧民心理の研究』で主張したような見方は、けっして受け入れられるものではありません。


    2  『精神運動と社会運動』の部落問題理解


 ところで、賀川は『貧民心理の研究』を刊行して4年後(賀川の帰朝2年後)、1919年(大正8)6月、719頁にもなる大著となった『精神運動と社会運動』を、同じ警醒社書店から世に問うています。


 この書物の後編『社会運動編』の四に「兵庫県内特種部落の起原に就いて」と題する一節が収められています。そこでの検討材料に用いているのは、引用文などを見るかぎり、「大正二・三年刊」とされる『兵庫県部落沿革調』(兵庫県内務部議事課)であることがわかります。


 この『沿革調』は、1912(明治45)年に内務省が各府県知事に命じて、部落の起源・沿革・人口などを調査したものを踏まえたものですが、これ自体当時の限界とはいえ、差別的な内容であることはいうまでもありません。それでも賀川の『精神運動と社会運動』における見方は、前著『貧民心理の研究』のような記述の仕方からは一定の変化が見られます。


 そしてまた、賀川はこの書物の別の箇所でも「内務省報告」の大正6(1917)年のものや8年のものをも参照しながら、つぎのような記述を残しています。


 「部落の問題―この最暗黒の感情の中で、所謂特種部落なるものに向って、普通の部落が現す所のもの程暗黒なるものはない。日本には今日八十三万八千六百六十六人の部落民があることになって居る。その多くは農村に住んで居る(大正八年一月内務省報告)。然し彼等が今日農村で受けて居る忍従は、とても想像以上である。然し之は全く、今日の日本の農村の米をつくるを知って人間をつくるを知らざる故である。私はこの階級的思想が一日も早く去られんことを望む。島崎藤村の小説破戒はこの辺の消息を洩したものであるが、私は部落民のことを思ふと涙が出る。彼等を開放(ママ)せよ。彼等を開放(ママ)した日に、日本の社会は完成に近いのだ。」(466頁)


      3 部落問題への研究的関心の持続と認識の変化


 賀川は、この『精神運動と社会運動』を刊行したとき(1919年6月)、『救済研究』7巻6号で『和歌山市周辺貧民窟の研究」(『和歌山県同和運動史』資料編、平成7年所収)を発表し、同年一一月発行の『救済研究』7巻11号でも「広島県の部落の社会的研究」を発表するなどしています。


 さらにその後も、おそらく大正10(1921)年前後のものと思われる『部落伝説史料』も収集しています。これは、全国の「細民部落分布」と兵庫県下の「部落調査」で構成され、二百字詰の「賀川原稿用紙」で244枚に及ぶ自筆資料です。この資料は、部落問題研究所所蔵の三好伊平次寄贈の「三好文庫」にありますが、おそらく三好が内務省社会課の部落問題担当主事に就いていたときに賀川と交渉があり、三次から譲り受けた「史料」を検討したものと思われます。


 勿論この『部落伝説史料』そのものが各地域の地域史研究を踏まえたものではなく、文字どおり「部落伝説史料」で、それぞれの部落の「起原と沿革」を集めたものです。


 賀川自身が「落武者」「浪士」「美濃の武士」「移住」「個人的」「僧」「朝鮮帰化」などと書き込み、部分的に「研究ノ要アリ」と記すなどして、「部落伝説史料」に検討を加えています。これを見るかぎり、賀川なりの、この分野の研究的関心の持続のあったことがわかります。


 しかし賀川はその後いつ頃まで、この問題の研究的関心を持ち続けたのか、そして賀川の中にどのような認識上の変化があったのか、今のところ正確な史料をとおして、それを明らかにすることはできません。


 けれども賀川豊彦は、部落問題だけでなく労働運動その他、広範な活動に打ち込むなかで、とりわけ「全国水平社」の創立者たちとの交流や、下記に言及する旧著『貧民心理の研究』に対する関係者からの批判なども経験して、旧来の考え方は徐々に改められていったであろうことは推測することができます。


 現在の部落問題理解から見て、大正期における「賀川豊彦の部落問題認識」には基本的な誤認と欠陥が含まれています。これはあくまでも「学問的な見解」として、歴史的に批判検討されるべきことは、改めて指摘するまでもありません。


 前にもあげた自伝小説『石の枕を立てて』の「憎悪の福音」のところで、賀川は、『貧民心理の研究』と思われる「大正3年頃に出版した書物の中に書き過ぎていたこともあったので、咎められるのも仕方がなかった。しかし、それは研究として書いたのであって、同志に対する尊敬と奉仕の精神は変わらなかった」と記しています。


 ここに賀川が「研究として書いた」という文言の意味は重要だと思います。賀川はそこに続けて「神戸の人々がその書について謝罪せよと要求して来たとき、十年前の著作であって殆ど絶版していたけれども、改めて謝罪し、その書の絶版を約した。こうして愛している者から排斥を受ける時の淋しさは、例えようのないほど悲しいものであった」(99頁〜100頁)と書いています。


 賀川に対する「批判・糾弾」は、当時部落問題に限らず労働運動や農民運動で日常的なことで珍しいことではありませんが、前記のように、この問題で「全国水平社」が組織的に糾弾を行ったという事実は確かめることはできません。また「神戸の人々」が誰であったのかも不明です。あくまでも小説のことであり、この記述を典拠にして、これが歴史的事実であったと見ることも控えねばなりません。(19)


 以下「付記」として、賀川が生前、代表作として版を重ねた小説『死線を越えて』の作品における「削除」措置のことと、詩人として知られる山村慕鳥が晩年に書き上げた重要な小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』の出版について、賀川に相談を持ちかけた一件について、簡単に触れておきます


     付記1 小説『死線を越えて』の「削除」措置について


 周知のとおり小説『死線を越えて』は、三部作のうち中巻を除く上・下巻において、不当な検閲による伏字の跡が現在まで無残なかたちで残されています。


 しかし当局の検閲とは別に、1927(昭和2)年8月に同じ改造社版で上中下三巻揃って改版されたおり、つぎのような箇所の「削除」措置が講じられています。その後に刊行された『死線を越えて』の作品は、すべてこの「削除」された改版が用いられています。


 これらの措置は、賀川自身によるものか、版元の意向に賀川が同意したのか、版元の自主規制なのか詳しい経緯は不明ですが、概略確認できる箇所は、つぎのようなところです。


 『死線を越えて』(大正9年)
 48頁10行 「穢多を対手に」削除
 403頁13行「特別に穢多の子は美しい」「や、穢多の子」削除
 458頁2行以下「水田が今日はあんな豪勢なものであるけれども、もとは山窩であったこと、このあたりの家主は大抵もとは穢多村から出て来た乞食であったこと、多田と云ふものは乞食から高利貸しをして、貧民窟の家主になって居ることから―」削除


 『死線を越えて 中巻 太陽を射るもの』(大正10年)
 73頁8頁 「(指を四本出して―特殊民と云うこと)」削除
 73頁9行 「(指を同じやうに四本出して)」削除
 75頁3行 「之れ(指を四本示して)」削除
 213頁6行「部落民」削除
 284頁2行「特殊民」削除
 345頁3行「特殊部落の」削除
 346頁6行「特殊部落の」削除
 411頁5行「特殊民の」削除


 『死線を越えて 下巻 壁の聲きく時』(大正13年)
 検閲による伏字箇所は多いが、「全国水平社」創立後の執筆でもあったのか、230頁2行に「部落」、3行に「新川部落」といった表現はあるものの一・二巻にあるような記述は見当たらないし削除箇所も確認できない。


 よく知られているように、明治学院とは関係の深い島崎藤村が、処女作『破戒』を自費出版したのは1904(明治39)年で、この作品は文学界に大きな衝撃を与えました。そして『破戒』は昭和4年、新潮社の初版本は絶版措置がとられました。


 それは「全国水平社」結成以後の、特に昭和5・6年頃までは、「差別糾弾闘争では、『穢多』『新平民』『特殊部落民』などの言葉を発した言動はもちろん、印刷・出版物の文書の上でそのような字句が使われている場合は、相手かまわず容赦なく徹底的に糾弾した」(20) 歴史があったからです。


 1939(昭和14)年になって、藤村は自ら初版に入れられた「穢多」を「部落民」に書き換えるなどして「改訂版」を出すのですが、戦後1954(昭和29)年になって漸く、筑摩書房が初版本に復元し、以来藤村の小説『破戒』は現在の岩波文庫も「初版本」で読まれています。


 しかし賀川豊彦の作品は、この時代のなかで「削除」などの「自己規制」が行われたまま、いま無傷の「初版本」は古書で出合う以外一般には不可能になっています。


 なお、武藤富男氏による『賀川豊彦全集』第14巻の解説には、「昭和23年6月には伏字や削除した箇所を埋めて愛育社から出版され」たとされています。しかし、この愛育社版は上巻のみであり、実際に伏字箇所の補正が行われたのは、確認できるかぎりつぎの6ヵ所に止まり、「削除」箇所の初版本への復元とはなっていません。


 138頁14行「○○」 革命
 139頁2行 「○○」 抹殺
 139頁4行 「○○の連鎖」 輪廻の滅却  5字分これは訂正箇所
 139頁7行 「○○」 革命
 382頁8行 「△△△」 生殖器
 512頁4行 「△△△△△との関係」 9字分カット


 (補記)新版『空中征服』について


 「1988年、生誕百年を迎えた日本の生協運動の父・賀川豊彦がすでに今日の社会問題を予見していたともいえる1922(大正11)年のベストセラー小説の完全新版」として刊行された神戸時代の傑作『空中征服』(日本生協連刊、1989年)は、「全面的に新字・新かな、平易なことばづかいを採用、巻末には解説を付した」(カッコ内は何れも表紙カバーからの引用)とされる好著です。


 ところが、本書の「あとがき」で賀川純基氏は、「現代にあまりふさわしくない表現は三箇所ほど手を入れ、また挿絵一つを省きました。」と記し、「研究される方は、松沢資料館で初版本を御覧頂きたい」(273頁)とコメントをしています。研究者ならずとも、わたしも確かめたくなり、念のため手元の初版本で確認してみました。


 省かれた捜絵は、原本353頁の「人間改造機の運転を待つ人々」で、「現代にあまりふさわしくない表現は三箇所ほど手を入れ」たとされる箇所は、おそらくつぎの箇所と思われます。


 原本231頁「不具廃疾者」、これを「体が不自由な人」に言い換え
 原本340頁「私は之で大助かりです。貧民窟の人々などは之でどれだけ助かるか知れやしませんよ。鼻の落ちた人、手の取れた人、不具者、廃疾者、白痴、低脳、発狂、老衰、犯罪者・・これらの人々をこの機械で改造すれば、さしあたり貧民窟は無くなりますね」 この箇所は、全く書き換えられて「私のまわりに大勢いる、怪我で手足を失った人や、人生に失敗してもう一度出直したいと思っている人たちに、大いに利用したいですね」 これは確かに「手を入れ」たものです。


 原本351頁「跛の人には足がつき、盲の人には眼がつくやうに」 これを「足の悪い人には自由に動く足がつき、目の見えないひとには見える眼がつくように」 


 こうした著作の場合は、「新字・新かな、平易なことばづかい」の採用はよいとしても、このような「削除」や「手の入れ」方は、適切ではないと思います。初版本を大切にして、必要な場合に適切なコメントを付すという一般的ルールが回復される必要があります。


   付記2 山村暮鳥の小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』と賀川豊彦


 賀川豊彦より4歳年上で詩人・児童文学者として名高い山村暮鳥(1884年〜1924年)には、41歳の生涯を閉じる前、闘病生活のなかで仕上げた重要な小説『鼴鼠(もぐらもち)の歌』という作品があります。「全国水平社」が創立されたあと1923年(大正12年)7月下旬に脱稿されました。


 慕鳥にはいま、評論家・土田杏村(1891〜1934)宛の最後の手紙(1925年7月15日付)が残されています。賀川と直接出合ったことも記されている興味深い文面です。


 「杏村学兄


 (前略)自分が去年の震災前、特殊部落の小説をかゐていたのを大兄にお知らせしてありましたがね。焼けてしまったとばかりおもってゐたそれがアルスでたすかり、この春頃、それを改造社でだすとかださぬとか、堺枯川氏が読んで何か書いてくれる筈だったのが、氏のチブスで入院されたのでおじゃんになり、とうとうまた手にかへって来ました。


 先に、その事で、一つは水平社の人々の意向なども知らうとおもって、水戸で、講演にきた賀川氏にあひました。話したら、とてもだめだめ、死後遺稿とでもして発表する外ないでせうとの事、するとその数日後大兄の『水平社新劇運動』の記事が読売にでた。さっそく大兄へ手紙をかかうとおもったが、何しろ仕事が忙しかったので今になった次第です。


 どうでせう、そうしたものは発表不可能でせうか。


 いま、自分は文化運動で大兄の水平社中学の記事を読んだが、実際あの人達はあの人達以外のものの理解や共鳴を求めぬのですか。


 自分はその小説を真剣でかいた。ある大きな(二字分不明)を感じてかいた。実に一朝一夕の仕事ではない。自分が牧師になったのもあの人達の間に伝道したいためであった。それは二十年来の宿望なのであった。


 まあ、発表は急ぎはしない、一どお暇をみて読んでみてくださるまいか。自分は純文学の立場でかかなかった。いつか大兄のお言葉もあったので、より普遍的な、民衆的な(でも通俗に堕しない)ペンでかいたつもりである。拙い事はいつもながらだ。けれどいくらかどこにか買ってもらへる真摯はあろうといふものだ。


 この頃、自分は華厳経を読んだ。すばらしいものだね。仏教にはもうおどろくばかりだ。


 いまは正法眼蔵をよんでゐる。もうもうたまらない。大きなものはみんな隠れているんだね。
                       イソハマにて  山村生」
  

    (『山村暮鳥全集』第4巻761頁〜762頁、筑摩書房、1990年)


 暮鳥の詩作品は、広く親しまれていますが、この『鼹鼠(もぐらもち)の歌』という小説も実に完成度の高い作品のひとつではないかと思います。


 彼はこの手紙を送った後、翌8月には詩集『風は草木にささやいた』をイデア書院から、9月には『ドストエフスキー』を同書院から、更に10月には『聖フランシス』をあおぞら社から、矢継ぎ早に出版しています。そして、11月には詩集『雲』の校正を病床で終え、ついに12月8日に永眠、41歳の短い生涯を終えました。


 暮鳥の小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』の発表について、ここで書かれている賀川の「とてもだめだめ、死後遺稿として発表する以外ないでしょう」という言い方は、死期の近い暮鳥に対する言葉として、全く賀川らしくない言葉として、戸惑いを覚えます。しかしそれほどに、賀川にとってこの問題は、特別の警戒心を抱かせるものであったことをうかがわせる、ひとつのエピソードだと思います。賀川がこの時、時の状況に抗して、暮鳥の作品にも直に目をとおし、暮鳥を励ますことができていたとしたら、どれほど良かったろうと、暮鳥を愛する者としても、惜しまれてなりません。


              


17  拙著『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所、1988年)67頁〜75頁参照。
18  隅谷三喜男著『賀川豊彦』(岩波書店同時代ライブラリー、1995年)25頁参照。
19  『賀川豊彦全集』問題については第一章でも言及しているが、上記の小説で賀川自身が「絶版を約した」とする記述を理由に、『貧民心理の研究』の全集収録を批判する意見も見られた。これも当時の「部落問題フィーバー」現象のひとつの勇み足に過ぎない。
 なお「賀川豊彦生誕百年」のとき製作されたNHKスペシャル番組「賀川豊彦って知っていますか」の中で、作家の大江健三郎氏は「『貧民心理の研究』に見られる賀川の表現は、小説『死線を越えて』に見られる文学表現と違って、当時の知識人の研究論文の書き方・表現の仕方がこういうものだった」ことを指摘し、隅谷三喜男氏は「確かに賀川の部落問題認識は間違っているが、賀川には差別的な意識はない」というコメントを残していた。
20 北原泰作「『破戒』と部落解放の問題』(1953年11月、雑誌『部落』48号)参照。