新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第16回)




         爽やかな風


      −宗教・人権・部落問題ー


                  第16回



   第四章 部落問題の解決と賀川豊彦


       (前回の続き)


    結びにかえて


 最後に、賀川豊彦の最晩年の忘れることのできないエピソードのひとつを添えて、図らずも長くなった「神戸からの報告」の結びとします。


 神戸の「愛護教育」と賀川豊彦 神戸における戦後の同和教育は、初期のころは独自に「愛護教育」と呼んで開拓的な取り組みが行われてきましたが、賀川豊彦は1956(昭和31)年10月1日、神戸市側の強い要望を受け入れて、神戸市の教育委員を引き受けました。以前から賀川は、神戸市内の「被差別部落」の関係校に招かれ講演にでかけることもよくありましたが、1957(昭和32)年8月には、「愛護教育夏期講座」で「教育に期待するもの」と題して講演するなど、その期待に応えています。以下、その関係校のひとつ神戸市立玉津中学校との関わりを示す出来事を、地元『神戸新聞』1959(昭和34)年7月12日付の記事で、そのまま紹介します。


 大きな紙面をとり、見出しには「病床飾る楽焼の花びん 賀川氏へ玉津中生徒が真心の贈り物」「暴力忘れました 先生も早く治って」と大きく書かれています。そして「東京世田谷の自宅で」として「玉津中の生徒から寄せられた見舞いの手紙を読む春子夫人」の写真が収められています。
 また、賀川豊彦の写真の下に「賀川豊彦氏が贈った映写機がきっかけとなって、〈暴力教室〉は明るく静かな〈学び舎〉にもどった。いま同氏は東京の病院に重病の身を横たえている。マクラもとには生徒たちが心をこめて作った楽焼の花びんが置かれ、ひっそりと病状を見守っている。」という導入が入り、つぎのような記事になっています。


 「神戸市が生んだすぐれた社会事業家賀川豊彦氏(70)=東京世田谷区上北沢、松沢教会内=が、神戸市教育委員としてかねて心を痛めていたのは、垂水区玉津中の問題だった。同校は去年2月、生徒が窓ガラスやイスをたたき割るという事件を起こし〈暴力教室日本版〉だと騒がれた。『生徒たちの心を和やかにする方法はないものか』と考えた賀川さんは「学校としてなにかほしいものがあったらいってほしい」という手紙を同校に送った。さっそく同校で生徒たちのアンケートをとったところ、映写機に多くの希望が集まった。4月末、賀川さんの心づくしの立派な映写機が届いた。賀川さんのやさしい思いやりが生徒たちの心を動かしたものか、玉津中これがかつての〈暴力教室〉かと思うほどの明朗さを取り戻した。


 賀川さんは31年10月、神戸市の教育委員に就任してから、月々の会議費をそっくり積み立て、〈賀川基金〉というものを設けている。玉津中以前にもこの基金から真心のこもった贈り物を受けた学校は市内で数校ある。こうして賀川さんの著書そのままに、玉津中にも〈一粒の麦〉が育ち始めたのだ。


 しかし、そのころから、すでに賀川さんは病気と戦う身だった。1月、西宮から徳島へ講演旅行へ行く途中、高松で倒れ、5月末からは東京中野の中野組合病院に入院している。病名は心筋梗塞、持病の腎臓炎と肺炎を併発し、高齢だけに一時は発作がひどく、危ぶまれ、文字通り「死線を越えて」の闘病だった。幸い最近になってやっと悲観的な状態からは脱することができた。看病に当たっている春子夫人も「相変わらず衰弱はひどいですが、呼吸困難の発作も少なくなり、峠を越せたようです。精神力でいままで持ちこたえてきたようなもので、お医者もびっくりしています」とほっとした表情。


 賀川さん倒れるの報に、同志が青年時代から心魂を注いで育ててきた神戸葺合区の新川アパートの人たち、三木岡山県知事、薄井尼崎市長らがかけつけたが、まだ面会謝絶の状態。玉津中の生徒たちもこの知らせにはびっくりした。『先生早くよくなって下さい』というみんなの気持ちが一つになり、『映写機のお返しに賀川先生を慰めるものを贈ろう』という相談がはじめられ、学校で習った楽焼で花瓶をつくって送ることになった。高さ30センチの灰色の美しい花びんは今月はじめ、生徒たちの見舞い状約50通と一緒に賀川さんの下に届いた。


 その日から、この花びんはずっとマクラもとで賀川さんの病状を見守っている。刺激的なものを避けねばならぬ病状をおもんぱかって、花が生けられている日、ない日がある。賀川さんは毎日花びんを見つめてはただニコニコしているという。同氏にとってこれ以上の〈お見舞い〉はないであろう。生徒たちの見舞い状を整理しながら、春子夫人は賀川さんからの言葉だとして『予想以上に早くよくなったのも生徒さんたちの真心のお陰でしょう。一生懸命養生して、皆さんの希望に沿うようにしたいと思っています。なによりも学校が明るく和やかになったことは喜ばしいことです』といっていた。」


 賀川豊彦逝去の翌日1960(昭和35)年4月24日(日曜日)の『神戸新聞』は、大きな紙面をつかって「原口神戸市長に口説かれて神戸市教育委員になったが、賀川さんは『貧乏人のために引き受けたんだよ』と語っていた、そして「食いはぐれの無い教育、失業の心配ない完全雇用の教育」を情熱こめて説いていた。」などと「賀川豊彦氏と神戸」を特集しています。


 また、1963(昭和38)年、「賀川記念館」の建設と完成の折も、大々的な記事が踊っています。


    付記 「没後の賀川豊彦」と神戸の「被差別部落」の現在


 以上、「部落問題の解決と賀川豊彦」の主題のもとに、主として神戸の「被差別部落」を拠点として活動した賀川の歩みを概観しました。


 神戸における没後の賀川豊彦に関しても、無数のドラマを生みました。そのうち部落問題に関連する事柄の一端は、最初にあげた2冊の著作(『賀川豊彦と現代』『賀川豊彦再発見』)と拙稿「賀川豊彦 没後の40余年」(本書第一章所収)で整理しました。


 そして賀川没後の40余年は、部落問題そのものの総合的な解決をめざす激動の期間として経過してきたことは周知の事実です。この激動のなかでの模索ノートは『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社、1985年)として発表し、阪神淡路大震災のあと避難先で書き下ろした小冊子『対話の時代のはじまり―宗教・人権・部落問題』(兵庫部落問題研究所・1997年)などでも報告しました。


 神戸の「被差別部落」は、賀川が主として活動の拠点とした「生田川地区」(21) と「番町地区」は、神戸市内すべての地域とともに、あの1988(昭和63)年の「賀川生誕百年」の時点ですでに、21世紀を待たずに問題解決の展望を確かなものにしていました。


 とりわけ、あの1995(平成7)年の「阪神淡路大震災」の被災と復興の11年を経験した現在、33年間もの長期間にわたり継続実施されてきた特別法に基づく行政措置も2002年3月末をもって終結し、神戸における同和関連事業もほぼそれと時を同じくして、すべて終了しています。


 もちろん、「旧来の部落問題」は基本的に解決しても、都市問題・高齢者問題・青少年問題・住民自治の問題など、共通する新しい諸課題はいつまでも途絶えることはありません。21世紀の新しい住民自治のまちづくりの取り組みは、引きつづいて、今後ますます大切な課題でありつづけます。


 (なお、法的措置も終了して4年も経た現在(2006年)も、大阪・京都・奈良など全国の多くの自治体でいまだに「同和行政」が継続されている問題や、「部落解放運動」の腐敗などが噴出し、連日マスコミ報道がおこなわれています。これらは「旧来の部落問題」とは異なり、行政の基本と住民自治の基礎の回復を迫られる課題です。長期間にわたって見過ごし、放置してきた問題の付けとはいえ、早急の解決が求められています。)                       

   (補記)賀川豊彦の「新川入り」に関する村島帰之の証言 


 上記講演草稿を仕上げた後、雨宮栄一氏の新著『貧しい人々と賀川豊彦』を一読し、「新たなひとつの問い」を持ちました。


 新著における同氏の論点は明晰で、賀川の「新川入り」は「彼が早くから抱いていた伝道の志の実現をめざすものであ」り、「新川の住民の救貧問題に直面するのは、その直後のことで」(17頁)あり、「彼は、伝道者として地域住民の救霊に努力していた」(37頁)ことが強調されています。


 賀川豊彦の独自の「伝道」理解の検討はともかく、雨宮氏の本書で展開される「救霊」が先で「救貧」が後とする一貫した歴史的考察に対する直接的な異論ではないのですが、わたしにとって最も関心をそそる「新たなひとつの問い」とは、賀川豊彦の「新川入り」を促した、その「志の出処」そのものにあります。  


 この問いは「部落問題の解決と賀川豊彦」の主題からそれる論点でしたが、このたびの講演において、上記第一章「賀川豊彦と『被差別部落』」の冒頭のところで、昭和6(1931)年に改造社が『現代日本文学全集』第59編として、小説『死線を越えて』3部作と「年譜」を入れた『賀川豊彦集』を刊行した折に挿入された賀川の「序詞」を当日資料として紹介し、以下のような短いコメントを添えました。

 賀川豊彦の「序詞」 この「序詞」は、「賀川原稿用紙」に記された賀川豊彦自身の署名入りの筆字のもので、全文はつぎのとおりです。


 「私は、不思議な運命の子として、神聖な世界へ目覚めることを許された。そして、人間の世界の神聖な姿と自然の姿に隠れた神聖な実在を刻々に味わうことが私の生活の凡てになってしまった。二十二の時に貧民窟に引き摺られたのもこの神聖な姿が私をそこへひこずって行ったのだった。そして私の芸術も この美を越えた聖、生命の中核をなす聖なるものを除いて何ものでもない。 賀川豊彦


 この短い自筆文章に、賀川の「志の出処」が刻み込まれているように思えたからです。賀川を「そこにひこずっていった」「神聖な姿」「生命の中核をなす聖なるもの」「神聖な実在」に、賀川ははっきりと「目覚めることが許された」ことを、ここに書き記しているのです。


 この「神聖な世界」が、賀川の全生涯を導いた「雲の柱・火の柱」であり、賀川はこの「実在」に「ひこずられて」、忠実にあゆみつづけた波乱万丈の生涯だったことを示していると考えました。


 賀川における「神聖な世界」の目覚めと「神聖な実在を刻々に味わう」全生涯は、賀川個人の「人としての新生」であるばかりでなく、「世界・宇宙を新しく変革・創造する」大きな力として受け止められていたことがわかります。この点、学会当日の鵜沼裕子氏による賀川豊彦の「生命宗教」を論じたご報告は、わたしにとってたいへん喜ばしいものでした。(22)


 賀川の「新川入り」に関する村島帰之の証言 ところで、上記の論点とは位相を異にするものですが、賀川の「新川入り」をめぐる諸契機について、改めてここで「村島帰之の証言」を取り上げておきたいと思います。


 この「証言」については、これまで何度か目をとおしていたものですが、今回、雨宮氏の新著に接して抱いた「新たなひとつの問い」に関連して注目させられたものです。ここではできるだけ簡潔に、村島の「証言」を紹介するだけにとどめておきます。


 わたしはまだ、村島帰之の『ドン底生活』も『善き隣人』も読んでいませんが、村島の「労働運動昔はなし5・神戸新川における賀川豊彦」(労働研究141号)によれば、彼は「大正六年七月に始めて洋行戻りの瀟酒な賀川氏に」出合って以来ずっと、二人は「生涯の友」でした。


 村島帰之は、そこで「貧しき人々と共に」という小見出しの後に、つぎのように書いています。


 「賀川氏がスラムに住み込もうと考え出したのは、氏がまだ徳島中学校の生徒の頃のことだった。庶子に生まれ、幼くして実父母を失った氏をわが子のようにしていつくしみ、勉学の道を開いてくれたのはマヤス博士兄弟であるが、徳島中学在学中、その博士邸の書斎である日何気なく読んだ原書の中に、キャノン・バーネットがオックスフォード大学の学生と一緒に東ロンドンのスラムに居住し、貧しい人々の善き隣人となって働いた記録を発見し、自分も生涯をこの方法で献身しようと考えた。」


 そして、村島の『賀川豊彦病中闘記』(昭和26年、ともしび社)には、その経緯を更にくわしく記しています。


 賀川は、徳島中学時代に宿った「貧民窟奉仕を志す」(30頁小見出し)夢を抱いて、明治学院高等部へ進学し、「貧民窟を慕うて神戸へ」(46頁小見出し)、そしてついに「憧れの貧民窟へ」(57頁第七章タイトル)、「死んでもいい、貧民窟へ」(63頁小見出し)と導かれていったことを、見事な筆致で説得的に証言しています。


 加えて村島帰之は、賀川が没する一年前に出版した賀川豊彦の好著『病床を道場として―私の体験した精神療法』の新版(福書房、1959年)の巻末に、14頁にわたって「解説―賀川豊彦氏について」(208〜221頁)を収録し、上記の見方を証言しています。この「解説」を含め、村島帰之の筆になる『賀川豊彦病中闘記』は、21世紀に読み継がれなければならない「賀川豊彦入門書」になるのではないかと、わたしには思えます。


 『吾が闘病・復刻改定版』について そのように思い巡らしていたところに、この『賀川豊彦病中闘記』は、賀川が生前(昭和15年)に杉山平助と共著で出版した『吾が闘病』(三省堂横山隆一装丁)所収の論稿と併せて、新しく『吾が闘病・復刻改訂版』(今吹出版社、2006年)が刊行されました。


 賀川豊彦の闘病に関する大切な作品はほかにも何編かありますが、わたしはとくにこの新著がいま刊行されることに、特別の期待を抱いていました。とりわけ、今吹柳乃助氏の「賀川豊彦への熱い思い」のこめられた本書の完成を待ちました。


 しかし、購入して村島帰之の「賀川豊彦病中闘記」の「目次」を目にして驚きました。原文の「貧民窟」が「低所得者居住地域」に、「ゴロツキ」が「暴力団」などへ「言い換え」されているのです。こうしたことは、本章でもふれてきた今日の出版界の現況を露見したものですが、「復刻改訂版」としないで「改訂版」とすべきであったでしょう。


 これと全く同じことは、日本キリスト教団出版局発行の「日本の説教Ⅱ」の2『賀川豊彦』(解説・雨宮栄一、2006年)においてもみられます。


 「現代の視点からすれば、問題とされ得る差別表現、不快表現と思われるものもあるが、歴史的な文書であることを考え、そのままにしているところが多い」(六頁)とされながら、実際に原本と照合して読みすすめるとき、余りに多い「書き換え」のあることにびっくりいたします。これでは、単に特定の言葉の「言い換え」をもこえて、新たに書き直した「改訂新版」になっています。 


 「新漢字、現代仮名遣いに書き改めた」ことはよいとして、このような出版界の「常識」はいつまでつづくのでしょうか。出版・編集者の見識が問われていると思います。


 「貧民窟一〇年の経験」に記す賀川豊彦の祈り 最後に、「貧民窟一〇年の経験」(『人間苦と人間建築』所収)の末尾(402頁〜403頁)に記された「賀川豊彦の祈り」を記して終りにいたします。


 ここにも、賀川の心根が正直に述べられ、賀川の深い「経験」と「自覚」がわたしたちに伝わってくるように思われます。


 「私自身の理想としては、貧民窟の撤去にあるけれども、今直に貧民窟が無くならないとすれば、貧しい人々と一緒に面白く慰め合って行きたいと思ふのである。之は必しも慈善では無い。之は『善き隣人』運動の小さい糸口である。必しも大きな事業では無い。人格と人格との接触をより多く増す運動である。で、之は金でも出来ないし、会館でも出来ない。志と真実とで出来るのである。即ち貧民窟に住むと云ふことそのことだけが、その使命であるのだ。それで私は、過去満十年間に貧民窟で大きな仕事をしたとは思はぬ。ただ、貧民窟で可愛がられるものとなったと自覚して喜んで居る。また貧しき人々も、私の処へ来れば、慈善家から受くる親切と違った、友人として相談が出来ると云ふことをよく知ってくれた。そして凡て相談を持って来てくれる。それは記録にもなにも上すことの来ない友人としての相互扶助である。この後も、私は貧しき人々の愛の中に生きたいと祈って居る。」

                     
                

21  賀川が活動した時代は「新川」という呼称が一般的であった。「新川」はいま殆ど歴史的用語となっているが、決していわゆる「差別的呼称」ではない。わたしたちの「番町」という呼称とおなじである。
22  賀川豊彦学会第18回研究大会での鵜沼裕子氏の報告「賀川豊彦における『悪』の問題」は、2005年12月刊行の『賀川豊彦学会論叢』第14号に収められた。