新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第17回)





         爽やかな風


      −宗教・人権・部落問題ー


             第17回


    第5章 回想―杉之原寿一の人と業績



 本章では、部落問題研究における第一人者として知られる杉之原寿一氏(神戸大学名誉教授)の人と業績を回想した一文を収めます。戦後早くから部落問題の実証研究を積み重ね、精力的に部落解放理論を展開しながら行政・教育・運動など幅広い問題提起をしてきた先達のひとりです。
 とりわけ、わたしたちの神戸におけるお働きは際立っております。雑誌『人権と部落問題』の2010年2月特別号において追悼特集が組まれ、それに寄稿したものをここに公開いたします。


       はじめに
 

 昨年(2009年)7月15日朝4時ごろ、容態の異常に気付かれた奥様がすぐに医師を迎えられたが、先生は5時5分ご家族の見守られるなか、静かに息を引きとり、その生涯を終えられた。長く住み慣れた先生のお宅は、京都は修学院の閑静な住宅街の一角にある。


 先生は、数年前から急速に視力を失われ、読書も執筆も困難となっていた。特別の用事もないのに時たまお電話をすると、奥様がいつもご親切に、二階の先生の書斎に電話をつないでくださり、神戸の近況を報告したり、取り留めのない話をして、元気なお声を確かめていた。


 愛煙家の先生は、近所の煙草屋までの散歩をされていたようであるが、先生との信交の深かった部落問題研究所の木全久子さんのお話では、京都の研究所へは2007年12月末にお顔を出されたのを最後に、定期の資料収集もストップして、以後お目にかかることがなかったと言われる。


 視力を失われて以後、奥様の転倒事故などあって、ご夫妻とも入退院を繰り返しておられたが、ご子息の献身的なサポートで、一階に部屋を増築し、落ち着いたご養生を始められた矢先のことであった。


    1  膨大な先生の蔵書・資料のこと
 

 ところで、視力の衰えが進みその回復が難しいことを自覚された先生は、自宅の書斎のほかに二階の二つの部屋と一階に増設された書庫、さらに加えて離れにも大きなプレハブを建てて、整然と保存・整理されてきた膨大な蔵書・資料の、後世への移管先を探しておられた。


 もとより先生にとって、失明のことは想定外であり、生きているうちにこれら蔵書・資料を手離す事など考えられもしなかった事態であった。しかし先生は、奥様ともご相談の上、すべての蔵書・資料を一括して、兵庫県人権啓発協会に寄贈する決断をされ、協会との交渉を私に依頼された。そのお電話をいただいたのは2008年12月4日のことである。


 すぐに協会へ打診を計ったところ、かつて兵庫人権問題研究所が神戸市中央区元町7丁目に三階建ての所屋を活動拠点にしていた場所を離れる直前(2001年1月)、大切にしてきた研究所の所蔵図書・資料の殆どすべてを啓発協会へ寄贈・移管したときお世話になった川渕管理部長(当時)が在職中という幸運にも恵まれ、所蔵図書・資料の一括移管の御意向が、協会に受け容れられることになった。研究所の蔵書・資料を移管するおりに、当時の協会責任者の方から「研究所のものも有難いが、将来是非杉之原先生の蔵書・資料も当協会へ寄贈して貰えば、なお一層有難い」との意向が出されていた経緯もあったのであるが、双方の合意が整うことになった。


 分量があまりに大量のため協会の受け容れ準備に少し時間を要したが、2009年3月10日にはその作業がすべて完了した。運送時の見積もりではダンボール500箱ということであったが、実際は400箱あまりとなったものの、研究所の移管作業のときと同じく、協会の方ですべての作業手続きを進めていただき、大変有難いことであった。


 これらの蔵書・資料を手離される先生のご心境のほどは計り知れないが、今回の件では、先生亡き後も奥様やご家族の方から、先生が安堵の思いを洩らしておられたことを御伝えいただき、大げさかも知れないが、気になっていたことだけに一仕事できたという特別の感慨がある。


 移管された蔵書・資料は今、この財団法人兵庫人権啓発協会において、丁寧に分類・整理されつつあり、すでに蔵書類のリストもできている。当協会には大量の文献・資料が収集され、県民に公開されているが、兵庫人権問題研究所の関係図書・資料とともに、このたびの「杉之原寿一所蔵図書・資料」が加わることによって、全国的規模の貴重な部落問題関係図書・資料の所在する場所の一つとして、今後広く活用されることになる。 


 先生の略歴や全業績などに関しては、1998年3月出版の『杉之原寿一部落問題著作集』第20巻「部落問題に関する理論研究」所収の「補論」として「杉之原寿一の人と業績」を収めることができたので、その時点までのことは、是非それをご一読いただくとして、ここでは、先生の幅広い研究業績の内の、特に「部落問題研究」分野の、分けても1974年4月創立の「神戸部落問題研究所」の設立準備の頃から、先生のもとで身近に接することを許された者のひとりとして、「先生との個人的な思い出」のようなことを書き記して、本誌「追悼特集」の寄稿依頼にお応えしたいとおもう。おぼつかなくも忘れかけた記憶を辿りながら記そうとするこの「回想」が、先生の打ち込まれた学問と実践的働きのいぶきを、いくらかでも未来に受け継ぐことに役立てば、と願っている。


      2 喫茶「琥珀」での大事な打合せ


 周知のとおり先生は、戦時下(1943年)京都帝国大学文学部哲学科で学ばれすぐ学徒動員で徴兵兵役、幸い国内にあって敗戦となる。戦後(1947年)哲学科を卒業後「京都帝国大学人文科学研究所」へ、そして1951年からは神戸大学文理学部講師に就かれて、わたしたちの神戸との関りを開始される。


 その頃、『テンニエス』『南太平洋』『現代批判の社会学』といった著・編著をはじめ翻訳でもルソーやマンハイムの著作、岩波文庫に収められ広く知られているテンニエスゲマインシャフトゲゼルシャフト』の名訳、さらにはフランス百科全書派研究などの多彩なお仕事の傍ら、先生は翌1952年末には、神戸市長田区の番町青年団などの協力を得て、「未解放部落」(学術用語として用いられてきた用語であるが、当時の厳しい差別の現実そのものを表現する言葉として違和感がなかった)番町の実態調査を試みられた。先生はまだこの時30歳前である。


 これを皮切りに部落問題研究、特に現状調査の科学的研究に打ち込まれ、次々と開拓的な独自の調査方法を確立しながら研究成果を発表して行かれた。


 神戸でも1950年代後半から漸く部落問題解決の機運も高まり、60年代に入ると神戸の部落解放運動も組織的な展開を見せはじめる。周知のごとく1969年には「同和対策事業特別措置法」の施行もあり、住民の強い要求に応えて神戸市は、1971年7月に初めて本格的な市内同和地区の全世帯調査を実施した。


 この調査は後の神戸市の同和行政の起点ともなった歴史的な調査であったが、この調査に当たって調査項目や実施方法などの実質的な重要な打合せのできたことは、わたしたちにとって最も大きな出来事であった。先生は調査の実施に当たっても、連夜地元説明会などにも顔を出して、大変なご苦労をされた。当然の事ながら調査結果の分析にも、先生は中心的な役割を担われたのである。


 1972年には神戸市同和対策協議会が設置され、ほぼ一年間にわたる「長期計画」の策定作業をつみかさね、1973年8月にはそれを仕上げるのであるが、この策定作業でも、同協議会「会長代理」の座を担っての献身的な貢献ぶりは真に大きく、先生の政策立案者としてのずば抜けた能力もまたこのとき存分に発揮された。


 すでに当時、同和対策の法的措置の実施にともなう全国的規模での運動・行政・教育全般にわたる不正・不法による混乱状態が表面化していたが、その中にあって神戸では、適切な手続きをふんだ科学的な総合調査をふまえて、既述のような綿密な「長期計画」が策定できたことは、特筆すべきことであった。それは、市内全地区の個別的な年次計画をふくむ、環境整備・福祉増進・生活向上・教育人権等の総合的な「神戸市同和対策事業長期計画」であって、いま見直しても画期的なものである。


 この「長期計画」の策定過程のなかで、関係者のなかから求められたのは行政・運動・教育などから独立した民間の部落問題研究機関の必要性であった。


 先生は、実態調査の実施時とおなじく、民間研究機関設立へのわたしたちの提起に対して意欲的に対応され、神戸市からの研究受託の見通しも整い、1974年4月の「神戸部落問題研究所」創立のときを迎えたのである。もちろん理事長の重責を担われたのは杉之原寿一先生であった。


 本格的な神戸市の実態調査から研究所設立までの、先生を囲むいくたびかの重要な打ち合わせ場所は、三宮駅山側角にあった先生お気に入りの喫茶「琥珀」であった。惜しいことに大震災によりあの懐かしい「琥珀」も今はない。


      3 研究所創立時の研究者の方々


 「理事長に神戸大学教授・杉之原寿一氏の就任」という幸いな船出となった「神戸部落問題研究所」は、創立時から有力な研究者の方々が手弁当で熱心に参集された。


 因みにここに順不同で、肩書きや敬称も略してあげてみると、杉之原寿一・斉藤浩志・杉尾敏明・小林末夫・阿部眞琴・落合重信・前圭一・長谷川善計・大塚秀之・水野武・内田将志・出口俊一・馬原鉄男・鈴木良・塚田孝・布川弘・津高正文・井上英之・村上博光・足立雅子・寺田政幸・徳永高志など数多くの方々のお名前がすぐに浮かんでくる。すでに地道な調査・研究活動に打ち込んでおられたお歴々の方々であるが、それぞれ専門部会を設けて、研究課題に共同して取り組まれた。


 ところが設立された年の秋、あろうことか地元兵庫県下の但馬地方においてあの「八鹿・朝来集団暴力事件」という未曾有の大事件を経験した。この事態を受けて研究所は、地元神戸の行政・運動・教育の基本方向−問題解決に関る各分野の固有の領域の区別と関係などの明確化―を明晰判明にする視点を新しく提示するとともに、事件そのものの真実と真相を全国的に発信し、独立した民間研究機関としての使命を発揮しながら、次々と積極的な問題提起を総力挙げて展開していった。


 創立して間もない「神戸部落問題研究所」の、このときの自由かつ新鮮・大胆な働きが、全国からの注目と大きな期待を集めることになるのである。創立当初は季刊雑誌であった「神戸の部落問題」もすぐ「月刊部落問題」に改め、会員・読者も急速に全国に広がっていった。


 創立後すぐ斬新で分かり易い学習資料「市民学習シリーズ」の刊行も始まり、第1巻となった先生の『新しい部落問題』(後に英訳版刊行)を皮切りに、数多くのヒット作品が登場した。このシリーズは広く読者を獲得し、次々と積み重ねて結局20数巻にまでにもなった。とりわけこの第1巻は1980年に「新版」、1989年に「改訂版」、そして1994年に「改訂新版」を刊行し、毎年1万部を超える読者を獲得した(改訂新版の英訳版は部落問題研究所で刊行)。また「市民学習シリーズ」とは別に「ヒューマン・ブックレット」の新シリーズも企画し、これも多彩な企画内容で30巻ほど刊行され、人々に幅広く愛読された。


 国際都市として世界に開かれた「神戸」を冠した「神戸部落問題研究所」の名称は惜しまれつつも、社団法人の認可の関係で「兵庫部落問題研究所」と改称し、歴史の進展に伴いさらに「兵庫人権問題研究所」へと名前を代えて現在に至っている。


 以下、さらに断章風に先生の労作を纏めた大作『杉之原寿一部落問題著作集』全20巻の刊行経過を柱に、先生の足跡などを回想してみたい。


     4 「部落問題著作集」第1期全8巻の刊行


 いま本誌読者がすぐに思いこされるのは、部落問題研究所で1983年に刊行された550頁の上製本『現代部落差別の研究』であろう。冒頭に収められた「部落差別論」は神戸の研究所創立後すぐ書き始められた記念碑的労作であるが、1970年代から80年代初めの部落問題をめぐるあの激動のなかでの、先生ならではの学術的論文集であった。


 このころ先生は神戸大学在任中で、当時大学院生の学生たち(現在は著名な教授職の方々であるが)と共に兵庫県下はもとより県外の実態調査に出向き、地元の人々や行政関係者と討論を重ねながら調査内容を練り上げ、当時はまだ一部手集計の手間のかかるものもあって、先生は度々大学の社会調査室で寝袋に包まって、泊り込みの作業をしておられた。


 こうした部落差別に関わる実態や意識の実証的研究に裏打ちされた先生の「現状研究」「解放理論」「同和行政論」は、「同和対策事業特別措置法」から「地域改善対策事業特別措置法」へと新しい展開を見せる1980年代初頭の重要な時期と重なり、現場で模索する人々の確かな方向性を示す重要な指針となり、多くの人々の関心の的となった。


 ちょうど先生の還暦の時であるが、この労作は翌年(1984年)、野呂栄太郎没後50周年の「第9回野呂栄太郎賞」を受賞することになり、大きく話題を呼ぶことになるのである。


 ほぼ時を同じくして、先生の長年の開拓的な学術的労作を、纏まった著作集のかたちとして刊行する企画がにつまり、『杉之原寿一部落問題著作集』第Ⅰ期分全8巻の刊行が開始されていく。


 第Ⅰ期の刊行案内には、黒田了一・磯村英一・岡映・鈴木二郎・北川隆吉・藤谷俊雄の各氏の顔写真と友情あふれる推薦の言葉を収めることができた。どの方々もいまは懐かしい方々である。


 第Ⅰ期全8巻の最初の第1巻『部落問題の理論研究』は、先の『現代部落差別の研究』を内容的に補充するものであったが、およそ3年間(1985年まで)を掛けて第8巻『戦後同和行政の研究』までのすべてを完成させることができた。先生が神戸大学を定年退官されるのは完成の翌年(1986年)のことである。


 この受賞のときは、社団法人兵庫部落問題研究所の創立10周年(1984年)と重なり、創立5周年の祝賀のときに倍して、全国から関係者が多く神戸に駆けつけていただいた。 


      5 「部落問題著作集」第Ⅱ期(全5巻)


 あらためて確認するまでもないことであるが、1980年代半ばからは、同和対策事業の大胆な「見直し」と「完了・終結」に向けた方向性を明示する、重要な諸課題に直面していた。先生のこの当時の多くの論稿は、専らそれに応える「新しい冒険的な試論」ばかりであった。


 特に、神戸における「公営住宅の家賃適正化の取り組み」などの具体的な検討吟味の作業は刺激的なもので、「労働者協同組合」「教育文化協同組合」など新たな実験が開始されていくときでもあったが、先生の著作や講演は、運動・行政・教育それぞれの現場の人々にとってのみでなく、国の基本的な方向性を決定する上でも、重要な貢献を果たすものであった。


 先生は神戸大学退官(1986年)のあと、翌年に鹿児島大学法文学部の非常勤講師を受けられた以外は大学関係のお仕事につかれることはなく、1989年に部落問題研究所の理事長を兼務しながら、一層精力的に部落問題研究と講演活動に打ち込まれた。


 それらの成果は、退官後1991年までの5年間だけみても、例えば『部落問題用語解説(新版)』『部落問題学習資料(上中下)』『新しい部落問題(改定版)』『図説・部落問題をめぐる意識の実態』『部落差別はいま』『同和行政はいま』『国民融合への道』『現代部落解放運動の理論』『部落問題の解決』『部落問題学習資料』など、矢継ぎ早に新著を量産された。


 そうした中での『著作集』第Ⅱ期分の刊行であったが、第9巻から第13巻まで全5巻(『現代同和行政の研究』『意識と啓発の実証研究』(正続)『部落の現状調査研究』(正続)は、1990年からほぼ2年掛けて完成した。  


      6 『部落問題著作集』第Ⅲ期(全7巻)の刊行


 神戸においても「21世紀に部落差別を持ち越さない」という合言葉が現実のこととして確認されるなか、研究所では1989年5月、先生を団長とする「アイヌ民族伝統文化調査団」を組織し、道内各地のアイヌの人々との交流を深める得難い経験をした。そしてその翌年の正月にも、今度は南の「沖縄平和の旅」を企画実施し、そのときも先生が団長を担われた。


 第Ⅱ期の刊行を終えた2年後(1994年)には、研究所「創立20周年記念」の年を迎え、研究所近くの「ホテル・シェレナ」において盛大な祝宴を開いた。これにも全国から各方面の関係者が参会され、創立5周年や10周年の祝賀のときとは違う、さらに大きな盛り上がりを見せた。あのとき先生は「こうした祝い事はこれが最後だね」と笑みをたたえて語られたことを、いま思い起こす。


 祝賀を終えて間もない1995年の正月、休日を利用して恒例の「新年特別研究会」を開催した。研究会を終え、長田にある北京料理店「八仙閣」で新年の懇親を済ませた翌朝、あの「阪神淡路大震災」を経験することになったのである。「八仙閣」は全壊となり、私たちがこの店の最後の客となった。先の「ホテル・シェレナ」も全壊・廃業となった。


 幸いにもわたしたちの研究所の所屋は全壊を免れ、多くの方々の温かい支援を受けて研究活動を継続することができたので、続く第Ⅲ期『著作集』(第14巻から第20巻までの全7巻)の刊行も、予定通り1997年5月には刊行を開始できた。


 この第Ⅲ期の作品は、まさに「最終段階を迎えた部落問題」を説得的に浮き彫りにして、神戸市の最後の調査「1991年調査」及び総務庁の最後の調査「1993年調査」の分析の上に、「同和対策事業」や「部落解放理論」の歴史的総括が試みられ、1998年3月には最終巻「部落問題の理論的研究」を仕上げることができた。こうして『杉之原寿一部落問題著作集』全20巻という画期的な労作の完成を見たのである。


 全巻平均500頁という大部な箱入り上製本で、本体価格が15万円近くにもなったが、すべてが完成したとき、喜びのあまり全巻を所屋の屋上にずらりと並べて、印刷所の方たちと記念の写真を撮ったりしたものである。先生にとっては、これは全著作の中の部落問題研究関係の、しかもそこから精選した「選集」であるとはいえ、わたしたちにとってこれの完成は、まさに感動ものであった。


 地元「神戸新聞」なども「全20巻の労作完結」と大きく先生のお仕事を写真入で取り上げ、このときも多くの関係者が、三宮の馴染みの四川料理店「マンダリンパレス」に集って、その喜びを分かち合うことができた。


       7  歴史的使命を果たして


 先生は『著作集』第Ⅲ期刊行の途中、体調を崩された。日ごろ健康そのものであった先生が、時折検査入院を必要とする難しいご病気であった。「できれば21世紀まで生きてみたい」などと弱気なことを、先生は密かに洩らされることもあった。


 このとき部落問題解決のための特別措置は1997年3月末をもって終了することを予想し、神戸市もそれに歩調を合わせて「同和行政の終結」へと進んでいた。結果的には法的措置は更に5年継続され2002年3月末までとなったのであるが。


 こうした歴史的経過をふまえ、研究所は2001年2月末には、長く住み慣れた神戸市中央区の三階建ての所屋を閉じる決断を行い、長田区の兵庫人権交流センターに移ったのである。本稿の冒頭にもふれたように、創立以来収集してきた大切な図書・資料をすべて、兵庫県人権啓発協会へ寄贈移管したのは、2001年1月のことである。


 人権交流センターに移転した4月の通常総会では、定款変更を行って名称を「兵庫人権問題研究所」に改め、機関誌「月刊部落問題」も翌2002年1月号から装いも新に「月刊人権問題」に改題した。


 またご記憶の方もあると思われるが、2002年4月に京都の部落問題研究所の理事長を退任された折に、「杉之原寿一先生の労に謝する会」が「からすま京都ホテル」で持たれ、杉之原先生ご夫妻をお迎えしての盛大な集いがあった。このとき先生は80歳をお迎えの頃である。


      8 最後の労作『神戸市における同和行政の歩みと同和地区の実態の変化』


 研究所創立以来、毎年神戸市から受託してきた調査研究活動も、2003年度をもって当初の研究計画をすべてやり終え、毎年夏期6週間、午前午後の12講座を開講してきた「部落問題研修講座」(2002年度から「人権問題研修講座」)もこの年度をもって終了させた。


 しかし先生には、どうしてもやり遂げて頂かねばならない大きなお仕事が残されていた。それは毎年積み重ねてきた「神戸市における同和行政の歩みと同和地区の実態の変化」に関する総括の仕事である。関連する研究成果物は膨大であり、地域の歴史をはじめ運動・行政・教育にわたる歴史資料も大量であるが、せめて先生の担当分野だけでも、著作として仕上げていただく必要があったのである。


 先生はしかし、わたしたちの期待をすでに先取りして着々と準備をしておられ、2003年4月には、B5版586頁の『神戸市における同和行政の歩みと同和地区の実態の変化』として見事に仕上げられた。この著作は、先生が長年ホームグラウンドとして調査研究されてこられた客観的な資料にもとづいて取りまとめられたもので、巻末の「資料編」には神戸市の「同和対策関係条例・規則等目録、同和地区関係文献資料目録、同和対策関係文献資料目録」と「神戸市同和行政史年表」も収められた大変便利なものである。


 わたしたちにとってこの1冊は、部落問題の解決に関った神戸の関係者すべてにとって、最後に残して下さった先生からの大きな贈り物である。
 本書は兵庫人権問題研究所刊として出版したが、経費のすべてを先生の持ち出しで完成された。しかもこの著作は、多くの関係者に著者からの贈呈本として届けられた。わたしたちはこのときも感謝をこめて、馴染みの「マンダリンパレス」において、完成のお祝いをすることができた。


      9 兵庫人権問題研究所理事長の退任(2005年3月末) 


 愈々先生の体調も勝れず、神戸まで足を運ばれるのも難しくなる。元町の事務所においても、神戸駅から事務所まで、そして事務所の玄関から2階にのぼる階段も一休みが必要であったが、人権交流センターに移ってからはいっそう苦しそうにしておられた。それでも医師の許可を得て、神戸まで足を運んでいただいていた。


 2004年6月、先生から「社団法人兵庫人権問題研究所の解散について」という提示を受ける時を迎えた。それはすでに2000年段階から、毎月の運営委員会や理事会などで、重ね重ね思案を重ねてきた事案であった。


 それは「2005年4月末を以って社団法人としての研究所を解散する。解散後は、兵庫人権交流センター内に「研究調査室」を設置し、研究所の残務処理並びに研究会は継続する。そして研究所の付属機関である「NPOまちづくり神戸」は独立して活動を継続する。「解散レセプション」は行わず、法人解散上の会計処理を行い『研究所の30年史』を纏める経費に当てる」という提案であった。そして全国の会員・読者に親しまれた『月刊人権問題』も、2005年3月号(通観339号)をもって終刊することを決断した。


 しかし2005年の通常総会を準備する直前の理事会における議決は、「研究所の解散」ではなく「新たな体制を整えて継続する」ことになった。


 先生は予定通り2005年4月末をもって、理事長の職務を退任され、裏方のわたしもこのとき先生とともに事務局長を退任した。すでに2000年度より嘱託、2004年度より自由の身であった。


 退任されたあと先生は、2006年1月4日、研究所恒例の新年研究会に出席されお話をされた。これが最後ではないかと予測して、密かにお声を録音していたが、話の内容は兵庫県における戦後の複雑な部落解放運動に関するもので、「金子念阿」のことなど取り上げて「運動と行政」の当時の奇妙な関係を解きほぐす興味深いお話であった。これが神戸の研究所の関係者にとって先生との最後の出合いとなった。


        10 尽きない思い出ばかり
 

 先生は、部落問題関連のお仕事の他に、日本社会学評議員常務理事や同評議員日本学術会議会員や文部省学術審議会専門委員、神戸大学文学部の部長や神戸大学評議員など、多くの役柄を担ってこられた。


 そうした役柄を引き受けながら、神戸の小さな研究所に足を運び、取り留めのないわたしたちの問いかけにも興味を示し、研究会や会議の後の「別の会議」に付き合われ、遅い電車で京都・修学院の自宅まで帰っていかれた。


 全国から相次ぐ講演会や学習会の依頼にも、先生は貴重な時間をさいて、快く応じて、自由な意見交換を楽しまれた。そして地域から次々と難題が降りかかるなか、先生はいつもそれに熱心に耳を傾け、全身全霊でお応えになる応答者であられた。研究者である先生には、運動・行政・教育など幅広い分野に多くのフアンがついていた。


 研究所の苦しい財政運営にも、いつも慌てず「遠望楽観」、私たちは先生がおられるというだけで、安心しながら仕事ができた。先生の仕事ぶりも敬服するばかりであったが、そのお人柄と学問的な情熱の意気に感じて、先生のもとで仕事に打ち込めたことは、大満足である。「労働牧師」の実験をゴム工場ではじめながら、その途上でこういう人生が待っていたとは、予想もつかなかったことであったが、先生のもとで過ごせた日々は、何の悔いるところはない。


 先生のお誘いに乗って、あつかましくも修学院のお宅にまで伺い、奥様のあたたかいおもてなしを受け、度々泊めても頂いた。わたしが牧師であるからであろうか、聖書のことばに「貧しき者は幸いなり」とあるが、その意味合いが良く分からない、と真面目なお顔で尋ねられて、おかしなやりとりをしたり、わたしからはまた「先生の差別論は、さらに積極的な解放論を背景にした差別論を展開されれば、一層説得的ですね」などと、少し批判めいたこと申上げると、「それが自分にはいま難しいんだ」と、これもまた学問的誠実そのままに、真剣なお顔で語られたりしたことなど、先生のご自宅での深夜まで尽きる事のない雑談もまた、わたしの楽しみの一つであった。先生は、学者としての真理真実に開かれた頑固さを崩さず、厳密な批判的な論争を重ねられたが、いつも質問者に対して聞く耳を持つ「開かれた対話的関係」を大切にしてこられたお方であった。


 先生が大きなお仕事をなし終えてその生涯を閉じられた昨年の夏は、百歳近かったわたしの母も、時を同じくその歩みを終えていたが、ある夜夢のなかに、先生が穏やかなお顔で微笑み、小鳥と遊んでおられる、とても不思議な場面が登場した。母の夢ではなく、先生の夢を見るというのもまた面白いことであるが、杉之原寿一先生の「回想」は、いつまでも尽きる事はないようである。 


 付記 個人的な研究課題に関わることであるが、研究所の責任を解かれてから、専ら「賀川豊彦」関連の学びを楽しんでいる。先生の所蔵図書・資料のなかに、賀川の著書はもとより、彼の活動拠点であった神戸市内の特に私自身の生活の場ともなった「葺合新川」と「長田番町」に関連するものも多く、賀川豊彦関連の3冊目となった『賀川豊彦の贈りもの』を完成できたのもそれらのおかげである。生前この拙い著作を届けて、過分のお褒めをいただいたのも有難かった。


 神戸の新しい賀川記念館は昨年(2009年)12月に完成し、本年4月「賀川ミュージアム」もオープンするので、先生の蔵書・資料の一切が地元神戸にあることは、賀川関係者にとってもたいへん有難いことである。


 現在、研究所とは疎遠になっているが、神戸人権交流協議会の「安心・しあわせネットワーク」「NPOまちづくり神戸」や「高齢者生協」など昔ながらの交流をはじめ、神戸市外国語大学甲南女子大学での自由な講義や青春時代から毎月続く「神戸自立学校」での滝沢・延原両先生の著作を学ぶ読書会、そしてただ今賀川関係の学習など、相も変らぬモグラ暮らしを満喫している。先生との40年ほどの歩みがあって、いまがあることを、あらためて思い巡らしつつ、先生への深い謝意をこめて、近況報告を添えて付記とした。