新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第18回)





         爽やかな風


     −宗教・人権・部落問題ー


               第18回



  第6章 朝日新聞連載「差別を越えて」を読む



 朝日新聞の夕刊「ニッポン人脈記」の連載「差別を越えて」(2010年1月19日〜29日まで10回)がありました。わたしにとっては初体験ですが、この連載の執筆者である臼井敏男さん宛に、個人的な感想を幾度かにわたってメール便としてお送りしておりました。感想はメールで送るようにメールアドレスが記されていましたので、思いつくままに書き送りましたが、連載期間中筆者からの応答はありませんでした。連載本文がなければ、わたしのメール便だけでは面白みが出ませんが、問題の所在と批判的論点は理解いただけると思います。

 
2010年1月19日 


 昨日の夕刊「差別を越えて」第1回を読みました。「紙ふうせん」と地元の方とのかかわりや地元の女性たちのいまがよくわかりました。「被差別部落はどう変わり、部落の人たちはどんな思いを抱いているのか。各地をあるいた」とされる今回の記事も、大変興味をもって読み始めています。


 ただひとつ基本的なことで気になりますのは、最初のところにお書きの「京都市被差別部落に住む・・」という書き方についてです。地元の方の中でも、今回取り上げておられるのが「部落解放同盟女性部」ということですから、現在もご自分の街を「部落」「被差別部落」として捉えて、記事の中にある「在所の浴場」のことも語られていることは、それとして理解できるとしましても、朝日新聞のこの記事の中で「京都市被差別部落に住む・・」という書き方は、どうなのでしょうか。長期にわたる同和対策事業がすでに完了して8年ほどにもなって、いまでは「被差別部落」を言う場合、少なくとも「かつて被差別部落とよばれた」とか、「同和地区」という場合も「旧同和地区」とか、表現は工夫のいるときを迎えていると思われます。今回、どのような場所を取材されたのか存じませんが、「差別を越えて」というタイトルであるだけに、旧来とはちがう踏み込んだ新しい工夫がいるように思いましたので、感想をお送りしてみました。 続きを楽しみにしております。


1月20日 


 第1回に続いて第2回を読みました。46歳の角岡さんの著作は読んでいますが、27歳の川崎さんと31歳の川口さんのことは、この記事ではじめて知りました。


 第1回の感想として「被差別部落」という属地の位相のことにふれましたが、今回は3人の「部落出身」という属人の位相のことを、どう見るかを考えさせられました。角岡さんは関西学院で学生時代の「部落解放研究会」の経験があったと思いますが、山崎さんは大阪市立大での講義で、川口さんは桃山学院大学の「部落解放研究会」での経験が大きいようで、21世紀を10年経過した今も「部落出身」という属人の位相での問題を引きずっているわけですね。こういう記事を読みますと、20年近くも前、1992年8月に中上健次さんがお亡くなりになったときに、吉本隆明さんが新聞に寄稿されていた短い追悼文を思い起こします。こんな文章でした。


 「彼の生前には照れくさくていえなかったこと」として、「・・島崎藤村が「破戒」で瀬川丑松を借りて、くちごもり、ためらい、おおげさに決心して告白する場面としてしか描けなかった被差別部落出身の問題を、ごく自然な、差別も被差別もコンプレックスにはなりえない課題として解体してしまった・・中上健次の文学が独力でためらいも力みもなくやり遂げてしまったことで、その思想的な力量はくらべるものがない。なぜかといえば、いまでもわたしの思想的な常識では被差別部落の問題は、外部からするひいきのひきたおし的な同情か、内部からするいきすぎた反発によって、差別の壁を高くすることもあったからだ。中上健次の文学は始めて、ベルリンの壁のようなこの差別・被差別の壁を解体して、地域の自然な景観の問題にかえした・・」


 1960年代の一部の人々の「部落民宣言」の頃を思い起こしますが、「差別を越える」越え方は、記事のようなあり方もあれば、あの当時からすでに、吉本氏の指摘されたようなものも珍しくありませんでした。私自身は1960年代から、いわば吉本風でしたから、あれから半世紀をへてもなお、今回のような記事が登場したりしていることに、あらためていま残された「部落問題」を考えさせられてしまいます。以上、取り留めのない感想でした。


1月21日 


 今回の「木偶」「太鼓」に関わる伝統芸、興味深く拝見しました。昔、1960年代から70年代、山口県光市の「周防猿回しの復活運動」に没頭された村崎義正さんや丸岡忠雄さんたちの活動と重ねて読みました。当時、出稼ぎの「猿回し」の歴史を調べ歩き、聞き取りを重ねて、新しい復活運動に意欲を燃やしておられました。そして単に「部落」のというのではなく、広く日本の伝統芸能の継承と復活にむけた交流運動を重ねておられました。永六輔さんや小沢昭一さん、宮本常一さんなどとご一緒に、大変興味深いお働きでした。村崎さんも丸岡さんも、すでにあの時代にあって「差別・被差別」「部落・非部落」といった思考枠を越えて、この取り組みをされていて、ごく自然にそうした広い交流が広がっていました。
今回最初にご紹介の「箱回しの復活」は、そういう面白さなのかもしれませんね。その意味では、記事の中にわざわざ「中内と南は部落の出身ではない」などというコメントをいれられるのも無意味なものですし、「地元で生まれた辻本・・」ということも、今日無用のことだと思いますね。


 この「復活運動」は、「部落」云々ではなく伝統芸能郷土芸能の貴重なひとつとして継承されていると見てよいのではと思います。それはまた、沖縄の若者やカナダや韓国の人々との交流の中から育っているという大阪浪速の太鼓集団「怒」も、部落差別の残されていた20世紀の長い闘いをへて、21世紀という新しい時代の中で、ますます「太鼓打ち」の腕を磨き、「部落」の枠を越えた仲間たちと共に、広い「共働共創社会」(この言葉は近年、延原時行が著作の中で、このごろ流行の「共生」概念を哲学的に批判して用いるもの)の形成に主体的に参画していくのでありましょう。それにはやはり、「太鼓打ち」や「太鼓職人」自らが、「差別・被差別」「部落・非部落」という位相を根底から抜け出ているのでなければ、単なる「怒」からはうまくはいかないことははっきりしています。  さて、次回第4回はどんな「人脈」がでてきますでしょうか。


1月22日 


 今回の見出しにされた「夢は屠場のマイスター」ということば、いいですね! かつて「屠場」という言葉さえもが忌避され「差別語」扱いされてきたあの頃とは大きな変化ですね。しかし21世紀に入ってからも食肉業界をめぐる牛肉産地偽装事件など明るみに出、5・6年前であったか京都や大阪、奈良などで公務員で現業部門の不正常な実態が次々クローズアップされ、遅まきながら関係する自治体や組合が是正に乗り出したことも忘れることはできませんが、今回取り上げられたお二人の仕事ぶりは、なかなか前向きで頼もしい側面が見られますね。この分野の変わり行く実像は、あまり正しく伝わりませんが、労働組合の経験と共に作業員でもあるお二人の言葉は、時代の大きな変化を写すものとして、注目させられました。


 52歳の岩本さんが語られるように「屠場は部落産業としての成り立ちがある」が、今はかつての「部落」の枠を越えて、安定した公務員労働者として働いておられますし、同い年の栃木さんも「ぼくらの仕事はほめられるものでも、けなされるものでもない。普通の仕事なんです」と語られ、岩本さんも「30歳の時、屠場に就職・・普通の仕事と思っていたし、その考えは今も変わらない。」と語られています。


 しかし今回の記事の中で、「屠場で働けば、部落出身者であろうとなかろうと、部落出身者と見られ、差別を受ける。屠場への差別の表れ方は職業差別だが、根っこにはケガレ観と部落差別がある」と栃木さんは語られ、岩本さんも「大阪では部落差別イコール屠場差別なんです」「地区外の人とどこが違うねんと思って」自分が「部落出身であることを隠さない」とも記されています。やはりご両人ともなお「部落出身」や「部落差別」ということに、無用のこだわりを残しておられることには、偽りのない言葉であるだけに、いっそう違和感を残しました。それは恐らく、記事をお書きの方ご自身の「部落問題理解の問題」でもあるでしょうけれども。ともあれ、再度申しますが、残された「差別」を足元から吹っ飛ばすような今回の見出し「夢は屠場のマイスター」! これはいいですね!  さて次回はどんな人脈なのでしょう?


1月28日 


 この度の「人脈記」の連載「差別を越えて」を第1回目から読みはじめ、そのつど短い読後感を第4回目まで、メール便として送りました。こういう経験は、私にとって初めてのことです。「被差別部落はどう変わり、部落の人たちはどんな思いを抱いているのか。各地をあるいた」とされる今回の「人脈記」に興味と期待をもって読み始めたからです。期待通りこの連載は、丁寧に「被差別部落」に足を運ばれ、ひとに出会い、さらに問題解決に関わってきた関係者たちを広く訪ねて聞き取り、こんにちの一断面を映し出されていました。その意味では、毎回の連載は興味深いものがありました。ところであの後、仕事関係や体調を崩したりして連載記事を読めませんでしたが、ただ今、第5回目から昨夕の第8回目まで4回分をまとめて読みました。


 この連載にはいずれ「猿回しの村崎太郎」も登場するなと思っていましたら、7回目でしたかに取り上げられておりました。彼の高校時代、もう今から40年以上も昔のことですが、大学進学を断念し、父親や丸岡忠雄さんなどの熱い期待に応えて、自ら「猿回し復活」に打ち込む決断をした丁度あのとき、自宅で一度彼に会ったこともあるものですから、村崎夫妻の書き上げた近著2冊も読んだりしておりました。そのことに関する直接の感想は今申しませんが、この4回分を含めた、今回の「差別を越えて」を主題とする連載に対する率直な感想を、ここで短く記しておきます。


 私の疑念はふたつあります。ひとつは、全体を貫いて「被差別部落」「部落出身」という事柄にいま、なぜかくもこだわり続けるのか、その認識の基礎に見逃すことの出来ない欠陥がありはしないのか、という根本的な疑念、それが第一です。そして第二の疑念は、「朝日新聞:ニッポン人脈記」という紙面において、「被差別部落」を特定し、「部落出身」であるなしを区別して記述する手法自体の問題性です。


 まず第一の問題性に関して、端的に記します。今回の連載に限らず一般に、「部落」か否か「出身」か否かを最初に考えて、その対立項からものを考える習癖があります。第2回目の感想でしたか、吉本隆明さんが新聞で、中上健次さんの追悼文に「(山上健次は)被差別部落出身の問題を、ごく自然な、差別も被差別もコンプレックスにはなりえない課題として解体した・・」というような文章を引用したかと思います。吉本さんの場合、確かに現れた「差別・被差別関係」の位相からだけ「現実」を見て、そこから認識と実践を云々しはじめてしまう落とし穴の問題性を痛切に自覚され、「差別・被差別関係」なるものを、木っ端微塵に解体してしまう、確かな土台が万人のもとにあることを、吉本さんなりに気づき、こんな文章も出てきているのだと思います。少なくともそうした基本感覚を大切にして歩んできた方ではないかと、私は思います。


 しかし普通、人権といっても、平等・自由といっても、それは単なる理想や観念でしかないとして、肝心な自由・平等の事実性に基づく基本感覚を欠いていて、歴史的・社会的に虚偽形態として作り出してきてしまった「部落」「出身」ということを、固定的・運命的に捉えてしまう見方から根本的に脱しえないでいると見るのですが、どうでしょうか。私はこの基本認識・基本感覚を息づかせ、取り戻せるかどうかは、これまでもそうでしたが、今後もとても大きいと思っています。これはなにも、部落問題の解決に関わってのことだけのことではないのでありますけれども。


 次に第二の疑念-今回の「ニッポン人脈記」で「被差別部落」を特定し、「部落出身」ということを記述されることについてです。「朝日新聞」という紙面において、このような「特定」は、21世紀の今、特に33年間もの長期に及んだ特別法のもとで、延々と同和施策が継続実施され、2002年春漸く完了終結し、さらに8年もの歳月を経過した今、私にはやはり、歴史の流れを無視した時代錯誤のおかしさを感じさせてしまいます。
朝日新聞」は昔1960年代の「部落問題」の取り上げ方に限ってみても、どこか時代を先導し、明日を先取りする「新しさ」を感じさせるものでした。私のいくらかの贔屓目かもしれませんが。しかし、特に70年代以降の、部落解放同盟によるマスコミ界への「確認糾弾」を契機に、特定の運動団体への安易な迎合記事が目立ち始め、同じ土俵に乗った固定した視点からのものから自由になれていないのでは、という感想を持ち続けてきました。今回の連載は、従来とは違う新しさが伝わって来ましたが、上記のような疑念は残ってしまいました。


1月30日 


 昨日の10回目をもって「差別越えて」の連載が終了したようです。「差別の越え方」は場所により、人によって、また時代によって様々であることが分かります。学生の頃から「出合いと対話」が基本語になって、狭い我が家を「出合いの家」と呼んで(「これは固有名詞ではなく普通名詞です」などと自認しながら)愉快にやってきましたが、そういえば昔、神戸でも「出身」云々を唯一の尺度でもあるかのようにして人を見る一部の教師の方たちがいて、無用の壁を新たに築いていたことを回想します。実際のこととしては、それでは本来の「まちづくり」も、対人関係の友情も、まして肝心要の一人の人間としての本来の自立も、おぼつかないことではあるのですけれども。当時はしかし、そういう過熱した熱気に人々は、適切な省察を加える余裕をもちませんでした。


 この連載とは関係ありませんが、これも昔1960年代、20歳の頃から「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「手紙」などで「フォークの神様」などと呼ばれて人気を博した岡林信康さんが、最近「レクイムー麦畑のひばり」の新作で話題を生んでいるようです。いまはむかし「ドキュメンタリー青春:やらなあかん・未解放部落番町からの出発」(朝日テレビ:1969年2月放映)の製作の折は、超多忙の中を、岡林さんはギターを持って上記のうたを吹き込むなどして貰ったことがあります。いまではこの白黒30分番組のフィルムは、岡林さんの青春の記録として大切なものになっています。また、部落問題をめぐる疾風怒涛の混乱した長い期間、それらのうたたちは「放送禁止リスト」の上位を占めてきたことは、記憶に新しいところです。しかし、時を重ねた21世紀の今、岡林さんもコンサートなどで、当時のうたを歌い始めています。来週あたりはNHKの「SONGS」に登場するとかの予告がありました。


 ともあれ、今回の連載を読んで、過去を回想しつつ、時代と社会は新しく一歩も二歩も、大きく踏み出していることを確かめる機会にもなりました。インターネットの時代、夕刊の紙面にはメールでの感想を求めておられたこともあり、取り留めのないコメントを送り続けてしまいました。礼を失したこともあるかも存じませんが、ご容赦いただきたく存じます。


益々のご活躍を!       
以上、取り急ぎこれで。  


            番町出合いの家牧師 鳥飼慶陽