賀川豊彦の畏友・村島帰之(4)−『賀川豊彦病中闘史』(3)

わたしの好きな著作『賀川豊彦病中闘史』を、ここで少しずつテキスト化していきますが、ゆっくりと楽しみたいこともあって、近くの古本屋さんでみつけた冒頭にあげたKAPPA BOOKS『愛と死の別れー野の花にかよう夫婦の手記』(光文社、昭和39年4月1日)から、村島夫人の「村島しづゑ」さんの挿絵など、ここに添えさせていただきながらUPしていくことにいたします。

       ♯         ♯

賀川豊彦病中闘史』(3)

    目 次

一 闘病の行者賀川豊彦
   基督に近き人−−結核休火山――病苦をひっさげての超人的活
動――「私は病気の問屋です」
二 悲しみの子
   病気も忘れて六十年――賀川豊彦の生い立ち――キリストの弟子
となるまで
三 発病・献身
   七才から数度の赤痢――十六才、初めての喀血――貧民窟奉仕を
志す
四 菜食主義の神學生
   貧しい給費生々活――トルストイの菜食主義にならう――保養か
たがたの夏季傅道
五 死線を越ゆ
   路傍説教四旬の後たおる――法悦の凝覗――再生力を信じ、おそ
れるな
六 療 養 生 活
   貧民窟を慕うて神戸へ――蒲郡の療養生活――自然療法の実践
――療養生活九ヵ月――鼻と痔ろうの手術
七 憧れの貧民窟へ
   神戸のイースト・エンド――元町の路傍にたおる――死んでも
いい、貧民窟へ
八 貧民窟の生活
   貧民窟の第一夜――ゴロツキの脅迫――貰い子殺しの児を養う
――売られて行く娘――病気と不潔の中はあって――貧民窟の
自然療法
九 残された刺
   アメリカ留學――いつしか越えた結核峠――尊き犠牲、夫人
失明す
一〇 つきまとう酒乱の暴漢
   組織化された防貧事業――ゴロツキの「押しかけ婿」――暴漢
春子夫人を傷つく
一一 大争議のあと
   争議の心配から血の汗――助膜炎の再発――一種のあん法療法
一二 小説「死線を越えて
   「死線をこえて」の出るまで――大正時代のベストセラー――
印税全部を社会運動に――「不如帰」から「死線を越えて
――病者への希望の書――過労から来た眼疾
一三 灰燼の東京へ
   震災救護に、焦土の東京へ――失明状態の一週間――
一寸違えば轢死
一四 決死の傅道行脚
   空気の甘い阪神沿線へ――病を冒して奥丹後の震災地へ――
血をはきつつ傅道行――日本のアンナ夫人
一五 世界を家として
   世界の人カガワ――世界的トラホーム――「余命五年を出でず」
と宣言さる
一六 たましいの凱歌
   的中しなかった預言――三ベン主義
あとがき



         賀川豊彦病中闘史


      一枚の最後に残ったこの衣
      神のためには猶脱がんとぞ思う
                  トヨヒコ


  一 闘病の行者賀川豊彦

     基督に近き人

 一九三一年八月、カナダのトロント市に開かれた基督教青年会全国大会の晴れの開会式の式場で、六尺豊かな議長ジョン・R・モット博士は、一人の丈の低い東洋人を壇上に紹介してこう叫んだ。世界の四十数ヵ国の代表を前にしてである。

 『現代の世界において、キリストに最も近い人を求めよといわれるなら、わたしはこの人を推奨するであろう。日本代表・賀川豊彦博士!』

 世界には無数の指導者が存在する。しかし、その多くは、自身が象牙の塔に居り、もしくは、安金地帯を一歩も出ないでいて、巷の民衆を筆先と口先とで指導しようとする。こうした中に、すぐれた理論を持ち、同時に逞しき実践性を備え、挺身、街頭に立って大衆を率いる指導者賀川博士の存在は、世界の基督者の誇りである。賀川博士こそは、キリストを受肉して現代に実践する贖罪愛の行者というべきである。――モット博士の言葉は、そういった意味に聞かれて、式場の一隅に、小さくかたまつていた私たち、賀川の国・日本の代表は、急に、肩身の廣くなったような思いがしたことを覚えている。

 賀川の十数年にわたる貧民窟での働き、資本家および極右、極左労働者を向うにまわしての社会運動、震災その他の非常時における臨機の救急救護事業、軍閥弾圧下の平和運動、ぞして年久しきにわたって続けられて来た精神運動と社会事業と教育事業等、等、等。それらはみな不断の十字架の道であった。この十字架の実践があったればこそ、民族的優越感を持つ外人さえもが、「現代における最も基督に近き人」として、この一小島国の指導者を、世界の代表者の前に推奨して敢えて憚らたかったのである。

 ただに、モット博士だけではない。世界至るところ、賀川礼賛の声が聞える。これは内地の人々の予想以上のものがある。特にアメリカではそれが甚しく、彼を迎えて新聞は「光、東方より来る!」と大標題をかかげ、「ガンヂーかカガワか」を論じる。筆者の誇張という人もあろう。だが事実はあくまで事実である。

 アメリカのハイスクールのテキストには「カガワ・イン・スラム」の一章がのって居り、ロサンゼルスの山手には「カガワ・ストリート」と呼ぶ街さえあるのを、筆者は実地に見て来た。今日、アメリカでのカガワの声価は、往年のトーゴー、ハヤカワ、ノグチの比ではない。

 わたしは一九三一年夏、大阪毎日新聞特派員として、賀川に同道、アメリカ各地を歩いた。彼は来る日も、来る日も壇上に立ったが、一日に四回、五回の講演が普通になっていた。しかも、毎回立錐の余地なき盛会であった。

 「カガワというのは、一体どんな男だろう?」そう思って、アメリカの老若男女は、彼の出演する講演会場や教会へ自動車でかけつける。やがて壇上にあらわれたカガワを見ると、五尺二三寸の倭躯――これは日本人である限り当然だとしても、顔の色も青白く、トラホームの眼をまぶしげにまたたいて、くたびれた流行遅れの服を身にまとう貧しげな肉体の持主、これが世界に喧伝せられるカガワなのか?と、彼等は小首をかしげる。だが、それは一瞬間で、やがて賀川がおもむろに口を開き、ロごもりつつも語り進むうち、カガワの倭躯はいつか巨人の姿と変り、聴衆は恍惚として彼の言葉の虜となる。そしてカガワが語りおわった時、聴衆はホッとして異口同音に叫ぶ。「オー、ワンダフル!」

   (つづく)