賀川豊彦の畏友・村島帰之(3)−『賀川豊彦病中闘史』(2)

賀川豊彦の序)

 本書の冒頭には、冒頭に収めた賀川豊彦の自筆原稿が、「賀川原稿用紙」に書かれて、「賀川氏序文原稿の一部」と記される一ページが収められている。「序」の末尾部分である。

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     序

 一生病気で苦しんだ私は、六十才を越えて、腎臓炎と心臓病に困難している。幼い頃阿波の田舎でマラリア赤痢に毎年苦しめられた私は、十二才の時、中学校の校医が、肺炎カタルと肋膜がわるいから、休学するようにすすめてくれたが、卒業するまで押通した。だが、十七才の時、東京の学校で血啖をはくようにたり、肋膜炎が悪化した。十九才の時は、三河豊橋の東八丁のキリスト教会で夏期傅道を手傅っていた時、遂に血と啖が気管支につまり、死の宣告を受けた。だが、不思議に、天父の癒しによって、その時は救われ、神戸の神学校に入学した。しかし、すぐ、少量ながら喀血するようになり、紳戸衛生病院に入院し、すぐそこから更に、明石の湊病院に、秋から冬まで約四ヵ月入院した。入院料がつづかないので、三河の国蒲郡府相村の漁夫の家を月一円で借りて自炊を始めた。そして「死線を越えて」を書き始めた。

 三河蒲郡府相村では約十ヵ月位もいたかと思う。少し快方に赴いたのでまた神戸神学校の一年生から始めた。今度は結核痔瘻に苦しみ、京都大学猪子博士の手術を受け括約筋を一部切断した。之が一生、腸液の漏出となり、年を取ると共にいつも苦しんでいる。今度はまた鼻の蓄膿症の手術を兵庫県立病院で受け、これまた、大手術後血がとまらす、「死」の宣告を二度目に受けた。然し不思議に、最後の祈祷会を開いてくれた後に復活する元気をとりもどした。

 天に見放され無いことを知った私は、せめて、二十六、七才まで生きると有難いと思っていた。そして死ぬ前に神への御報謝として、貧しき者に仕えたいと、一九〇九年十二月二十四日、タリスマスの前夜、神戸葺合区新川の貧民窟に這入った。たえず午後になると三十八度近くの熱が出た。そして血粒もよく喉から出た。然しうち通した。そして、精紳療法で決方に向った。その当事、九年十ヵ月菜食主義を守り、腸は一回も悪くした事はなかった。喀血していた間、牛乳と卵はとったが、肉も魚も食わなかった。蛋白質は主として豆腐と「油揚げ」でとった。

 二十六才の時、貧民窟で結婚し、大正三年(一九一四年)七月末、神戸を出航、アメリカに留学した。プリンストン大学在学中、菜食主義が持続出来ないので、やむを得す肉食に変った。そして二年後シカゴ市に来て、また血痰が出だした。それで慌しく、日本へ帰る決意をしたが、旅費がない。ユタの沙漠で半年旅費を稼ぎ、日本に帰ったのは一九一七年四月であった。すぐまた貧民窟生活をはじめたが、不思議に、健康がよくなり、労働運動や農民運動をつづけた。

 だが、大正九年〜十年の労働運動の盛んな時には、無理をしたために、痩せてしまい、また血痰も出たし、血の汗が出たこともあった。そしてトラホームが悪化し、失明の恐怖が加わった。

 大正十二年九月一日、関東震災後は無理ばかりするために、それから二十八年、健康の善いという日は一日も無かった。震災救護に来て「土べた」の上に長く寝たことの冷え込みと、毎夜百七十四日間一日も休むことなしに、東京地方の精神運動に、奔走したため、慢性腎臓炎と眼病が悪化した。遂に医者の注意で、本所の細民街から、武蔵野の松沢村に引越した。そのときオートバイが転覆し、一生脊椎病にかかることとなった。そして右眼は、角膜離腕になった。それが不思議に平癒し、見えていた左眼の黒玉を電気で手術し  た所が傷になって、左眼の視力を失ってしまった。丹後の震災には、中耳炎に苦しみ、右耳が遠くなった。

 一九三二年アメリカのキリスト教連盟の招待で渡米したが、大統領の個人保証で、トラホームで送還される代りに、医者と看護婦をつけて、アメリカの巡回講演を始めた。その時、腎臓が悪化し平田博士は私の血尿を見て驚き「壽命はもう五年しか持たぬ」と宣告した。しかしそれからもう二十年働いている。その後神の国運動の時一年間に九回も血痰を吐いたが、四年半の運動を継続した。戦時中に、栄養失調に苦しみ、桑の葉を食っていたが、長期にわたる下痢に苦しんだ。だが、不思議に戦後三年間、混乱に耐えつつ働いた。そして一九五〇年、まる一年間欧米で送ったが、あまり病気も重くならす、弱化する視力を気にしつつ戦った。合衆国七十万人に一日平均二〜三回話をさせられた。日本に帰ると、すぐ、汽車にスチームが通っていないためにまた血尿が出るようになり、狭心症で四回倒れた。で、冬の間は、懐炉を脊に二つ腹に二つ入れて、全国の宗教運動にかけ廻った。夜は数回便所に行く。安眠の出来ない腎臓炎には、肺病以上に苦しむ。

 だが「我弱き時に、最も強し」と聖書に書いてある通り、私は自分を頼まないで、キリストの父に凡てまかせている。凡ては感謝である。生きていることも感謝、天父にありて生を後にして天国に行くことも感謝である。私は病気に對して不平は言わない。神よりの鞭として、感謝して之を受ける。「病中闘記」は私の感謝である。

 友人村島帰之氏も、病中闘記の人である。彼の雄渾な筆を以て、私の闘病記を綴られたこともまた感謝である。闘病の同志に精紳治療の一助とならば、村島氏に感謝すべきだと思う。

  一九五一・七・二      賀 川 豊 彦
                ―眠らざる東北の旅より帰りて―