賀川豊彦の畏友・村島帰之(5)−『賀川豊彦病中闘史』(4)


前回は冒頭に、村島帰之・しづゑ共著『愛と死の別れー野の花にかよう夫婦の手紙』(光文社、昭和39年)の表紙カバーを収めました。

本日は表紙裏の村島夫妻の御長女真理子さんと寫した写真と御長男村島健一さんの「親爺とお袋」の文章の入った個所をUPいたします。


     賀川豊彦病中闘史』(第5回)
  

   一 闘病の行者賀川豊彦

  (前承)

      結核休火山

 外国人は前記のように、屡々「光は東方より来る」の對句として「カガワかガンヂ−か」というが、この東方の光が、二人ともに、奮来の偉人の型を破って、少しもエネルギッシュなところもなく、寒々とした貧しき肉体の持主であるのも一奇だ。

 賀川は、十二三才の少年時代から、幾度か結核のため「死線」を彷徨し、その都度ふしぎに癒やされた。否、癒やされた、と過去のものにしてしまってはならたい。彼は還暦を過ぎた今日でも、ひどい無理をすれば、病気の再燃を見るのだから、過去完了の「死火山」ではなく、また進行形の「活火山」でもなく、いわば、いつ爆発しないとも限らぬ「休火山」である。

 発病以来今日まで五十年、ふしぎにささえられて来たのは何によるのか。今日のように結核医学も発達していなかったのだから、治療法がよかったとは、嘘にもいえない。では病のたちがよかったのだろうか。環境がよかったのだろうか。それもある。また彼が貧民窟で行った自然療法は確かに結核治癒に役立ったに違いない。だが、それだけでは決してなかった。

 わたしは敢ていう。賀川が「死線」を越えたのは、彼の逞しい精紳力の賜物であった。彼の信仰が彼の結核を征服したのだ。

 或人はいう。『賀川さんのような人は特別だ。例外だ。賀川さんの病気の癒やされたのは、あの異常な信仰があったからのことだ』と。確かにその通りである。仮に賀川の足跡を慕うて貧民窟に植民する結核青年があったとしても、その病気が賀川と同じように貧民窟で軽快するものとはきまっていない。彼の過去五十年探り来った闘病法そのものは、だから誰もがそのまま踏襲してそれで効果があるというものではない。ただ、彼の強き精神力と信仰とが、医薬だけでは癒やし難かった彼の固疾を癒したという活きた事実を、賀川豊彦・闘病五十年の足跡から学びとり、聖書の「汝の信仰、汝を癒やせり」という言葉の真実なことを悟り、各自の闘病の心構えとして身につくべきである。

    (つづく)