賀川豊彦の畏友・村島帰之(6)−『賀川豊彦病中闘史』(5)

ただいま村島帰之の名著『賀川豊彦病中闘史』を少しずつテキストにしてUPしていますが、これまで2回、冒頭に村島帰之・しづえ夫妻の著作『愛と死の別れー野の花にかよう夫婦の手紙』の表紙カバーを掲げてきました。

今回はこの本の村島帰之による「はしがき」と「目次」の頁に収められている村島しづゑの絵「ゆり」を収めてから、進めてみます。

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 まえがき

 妻の親友が語られるところでは、妻は「わたしはやはり他のだれよりも村島の妻となるのが一番のしあわせだったのです。」ともらしたという。また未婚の大学生と古典文学や仏教美術などを討論して、「わたしは村島へとついできて、いろいろと教養を身につけました。信頼のできる人を夫にもつことが、なにより妻のしあわせですわ。」と訓戒したこともあるという。
 結婚四十年、かんしゃくもたてたし、どなりもしたが、妻は内心わたしをこよなく愛していたのだと思う。ちょうど、わたしが内心妻なくしては片時も居れない存在だったように−−。
 妻が癌となって、わたしのかんしゃくもやまって、内側の愛情があらわに出て、毎日手紙を書かずにおれなくなった。妻も同じだった。この書は、妻か癌で病院にいるあいだ、二人が相手の面影をしのびつつ、毎日心たのしく書いた九ヵ月にわたる約五百通のラブレターの定期便の中から編集者が抜粋したものである。もちろんラブレターの模範にはならぬにしても、いつわらぬ夫婦愛の流露として読み流していただけたら、いささかの恥じらいをもって本書を刊行した著者も赤面せずにすむ。
 この本が世に出るにあたっては、光文社の出版局のかたがたにお世話になったことを感謝します。

  一九六四年二月一日
                   茅ヶ崎の病床にて
                       村 島 帰 之 


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      賀川豊彦病中闘史(第5回)


    一 闘病の行者賀川豊彦

     (前承)

       病躯をひっさげての超人的活動

 それにしても、賀川の過去および現在における活動は、まことに驚くに足るものがある。
 血を吐きつづけながら、明治四十二年以来、九年八ヵ月の長きにわたって、神戸葺合新川の密集地区のまっただ中に住み、幾度かゴロツキの白刄の下にも立ち、全身不隨の女や、狂人や、不良少年や、淫売婦を世話したり、貰い子殺しの手から救い出して来た嬰児を養ったりして、病躯をひっさげて、つぶさに人間苦と社会苦の実相を極めた。

 また無産階級解放の理想をもって、大正六年以来、労働運動に関与し、友愛会(今の労働總同盟)の関西同盟理事長として極左、極右の勢力に對抗、穏健着実な理論の下に、全労働階級を指導し大正十年夏の神戸の大労働争議の際、四万二千の労働者の陣頭に立って指揮に任じ、ついに投獄せらるるに至った当時の体重わすかに十一貫、痩躯鶴の如くであった。それでもふしぎに支えられて、争議が一段落すると、農民のために立って日本農民組合を創立し、また労働者教育のために大阪に労働学校を開校して、労働者解放運動の手を少しもゆるめようとはしなかった。わたしは労働同盟会および農民組合では彼を助けて一理事として共に働き、労働学校では、彼の校長を代行していたから、彼が如何に勇敢に、熱心に活動したかを、誰よりもよく熟知している。彼は全く超人的活動をしていたのである。

 大正十二年九月、関東震災の報、神戸に達するや、賀川は彼の影響下にある各團体に呼びかけ、蒲團その他の物資を集め、自らリュック・サックを背に、逸早く、海路を焦土の東京に急行し、彼の率いるイエスの友の年若き同志と協力して本所の焼跡にテントを張り、日に夜をついで罹災者の物的救護と精紳的復興に努め、そのため、腎臓炎を発病し、また過労から、失明一歩前のところまで行ったが、彼は毫も屈するところがなかった。

 その後、アメリカの招聘に応じて渡米すること数回、いつも一日六回七回の講演をつづけたが、或時(一九三一年)などは、あまりの過労のために腎臓から出血を見たことさえあって、その時、彼を診察したロサンゼルスの平田篤次博士は、
「もし、この強行軍をつゞけなさるたら、先生のいのちは、あと五年とは持ちません」
と預言し、切にその自重を要望した。けれども、彼は「使命のためにたおれるなら、むしろ本望です」  
 といって、その後もピッチをゆるめようとはせず、毎日毎夜、千人二千人、甚しきは七千人の聴衆を前に獅子吼を試み、予定通りのプログラム全部を強行した。
 濠洲、新西蘭、印度および数次の支那旅行の際も、これと大同小異の強行軍を敢てした。

 最近……一九五〇年には英国の招聘により渡英し一ヶ年にわたり三十五万人の英国人に福音を説き、帰途アメリカに飛んで三十八州百六十四都市、二十七大学を訪い、四百回の講演で同じく三十五万人に語った。

 また内地にある時はそれこそ一年三百六十五日、ほとんど席あたたまる暇もなく、キリスト傅道に社会問題講演に、労働組合や農民組合の演説会に、労働学校や農民福音学校の講義に、協同組合の宣傅に、と各地を転戦し、いささかの時間の余裕があれば、自身が主宰する「キリスト新聞」「世界国家」「火の柱」を始め一般新聞雑誌社の依頓に応じて筆を執り、小説をさえ書く。

 戦時中は著しく活動を制限された上に、昭和十五年八月には、反戦論のかどで憲兵隊に拉致され、次で巣鴨拘置所に収容された。また終戦直後には、東久邇宮内閲の参与となり、貴族院議員に勅選されたことなど世人のなお記憶に新たなところである。

 以上の如く、賀川は文宇通りの超人的努力を以て終始して来た。それも臂力秀でた健康者なら知らぬこと、後段述べるような多くの病気を体内にもっている彼である。よくも今日までつづいたものだと思う。これは彼自身の信仰の賜物、というよりほかに説明のしようはない。

 もちろん、賀川のからだとて不死身ではない。強行軍の途中でたおれたことも屡々有った。或時などは教会で説教中、にわかに喀血したこともあったが、それでも聴衆にわからぬように始末して、説教を終了した。また或時は同じく説教中に目が見えなくなり、説教を終って手さぐりで壇を下りたため、始めてそれとわかったというようなことさえあった。しかし、そうしたことがあっても、賀川は長期臥床するということはめったになく、数日たつと元気を取戻し、また立ち上って予定の講演に出て行くのだった。

                  (つづく)