賀川豊彦の畏友・村島帰之(7)−『賀川豊彦病中闘史』(6)

上に掲げる絵は、村島帰之・しづゑ共著『愛と死の別れ―野の花にかよう夫婦の手紙』の「一 愛の賛歌」13頁に収められている作品「どくだみ」です。

今回も本題に入る前に、村島帰之の言葉を本書18〜19頁から取り出して置きます。

 妻の手記

 思えば、妻には生涯苦労のかけどおしであった。二十二歳の春、早稲田大学卒業を前にして、わたしはとつぜん喀血していらい五十年、ほとんど十年目ごとに大病をくりかえしてきた。大学卒業後、はじめ二十年間は関西で新聞記者というはげしい仕事にたずさわるかためら、賀川豊彦先生らといっしょに労働運動・農民運動に挺身。あとの三十年間は東京地方で母校の大学で講義をしたり、私立学校を経営する一方、虚弱児童や同患の結核病者のための社会福祉事業にも力をいれてきた。そしてこれらの仕事が、すべてあすの命もわからぬ病躯のもとで行なわれ、またそのためいくどか死線をさまよう目にあいながら、ともかく今日まで生きのびてこられたのは、ひとえに、妻しづゑの献身的な看病によるものであった。
 昭和二十八年、友人の大宅壮一氏のすすめにより、「キング」(八月号)に、妻は「起死回生の妻の手」という手記をのせた。
『……わたしは、嫁いだ日から、夫自身のことばをがりて申せば、『ひびわれ茶わん』の妻として、このひびわれを大きくしないよう、後生大事とかしずかねばならなかったのです。……たとえにも『かゆいところに手が届くように』と申しますが、これは『かゆい』と言われて手をもっていくようでは不十分で、言われぬ先に、それと察して手がそのかゆいところへいくようでなければなりません。……『そうだ。わたしの任務は夫のために、もっともよく行届く手になることだ。夫の手になりきることが、神から負わされた使命なのだ。この人が生きていてくれることは世の中のためになるのだから、わたしは自分の命にかえても、この人の病いを治さねばならない。』わたしはそう決心し、全力をつくし、全霊を傾けて看護に当たりました。


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      賀川豊彦病中闘史(第6回)


    一 闘病の行者賀川豊彦

     (前承)

       「私は病気の問屋です」

 賀川の肉体には、結核ばかりでなく、いろいろの病気が巣くっていて、彼は自ら「わたしは病気の問屋です」といっている。

 上の方から順に彼の病気をかぞえて見ると、ます、長年月にわたる貧民窟生活の結晶ともいうべきトラホームは、最早病膏盲に入って、アメリカ上陸の時はいつも検閲官によってこの「トラ」が問題にされる。昭和十年の第四回目の渡米の際には、ついにエンゼル島抑留ということとなり、アメリカで彼を待っている内外人を驚かせたが、ルーズベルト大統領の保証によって漸く上陸が許されたという曰くつきの「世界的眼疾」である。そして周期的にはパンヌスが激しくなって、自分の指が何本あるかさえハッキリしなくたることもある。大正十五年五月には両眼が四十四日間、全く視力を失って、一時、失明をさえ伝えられた。

 眼疾から来た腎臓炎は二十年来の固疾となって、肉体を酷使すると血便が出る。その血便をくりかえしていれば、いつかは中風のような状態になる惧れがあるといって、春子夫人の令妹芝八重子女医が、いつも心配している。彼が一見、肥えていて、健康そうに見えるのも、実は腎臓炎から来たむくみであるということを知らぬ人が多い。最近は心臓も冒されたらしく、講演中、心臓が痛むこともあるという。

 また前記の四十日の失明直後、東京郊外の宮の阪で、自動車事故のため脊椎を負傷して以来は、疲れた時、どうかすると背骨の一部の関節がはすれる。そんな折は背中をうしろにそらすと、ポキリと無気味な音がして関節は正しい位置に帰る。彼は椅子につかまりながら、越後獅子のように、うしろにそりかえって、その矯正術をわたしに実演して見せてくれたこともあった。

 歯は歯槽膿漏で、ほとんど半分以上、役に立たないばかりか、貧民窟で暴漢のため上下の前歯四本を折られたので、今もって発言に不自由をかこっている。彼が演説の時、ボールドや紙を使用するのは、この発音障害を緩和するためであるということを、聴衆の大部分は知らすに居る。昭和二十二年二月七日、両陛下の御前で、社会事業について御進講申上げた時も、黒板を使わせていたゞいた。
                                 
 そのぼか、耳は大正十三年、奥丹後震災の救援に出かけた時、中耳炎を患ったことがあり、その後もたびたび再発した。鼻は蓄膿症で、十九才の時、手術をうけた。痔も十七才の時、痔瘻が出、十九才の春、京大の猪子博士の手術をうけた。

こうした「病気の問屋」でありながら、六十才の今日まで、世界を舞台として八面六臂の超人的活動を実践して来た。これから先も、なおこれをつづけるのであろう。この事実は、まさに世紀の奇蹟の一つともいうべきであろう。

 この活きた奇蹟を、交友三十五年の間にわたしの親しく見聞したまま、書きつらねて病友の枕頭に送り「結核などの諸病怖るるに足らす、闘病の行者・賀川豊彦を見よ!」と告げ知らせたいのである。

              (つづく)