賀川豊彦の畏友・村島帰之(8)ー『賀川豊彦病中闘史』(7)

 村島帰之・しづゑ共著『愛と死の別れ―野の花にかよう夫婦の手紙』において、しづゑさんの絵と共に彼への手紙のなかに「うた」がいくつも収められています。

 今回もその「絵」(きんぎょ草)と「うた」を少し収めさせていただいてから、今日の本題に進みます。


     茅ヶ崎に夫が寝ねますわれはここに
       健やけき日のはるかなるかも

     かかる日を恐れ来にけり健康の
       衰え果ててせんすべ知らず

     朝に夕に祈りてあれば君が身は
       遠くありとも近きがごとし


     ♯        ♯       ♯


      賀川豊彦病中闘史(第7回)

二 悲しみの子

        病気も忘れて六十年

 賀川が始めて肺尖カタルの診断をうけたのは、十四歳・・・徳島中学の二年生の時のことだというから、彼の結核は今日までに五十年の星霜を経ていることにたる。

 賀川は明治二十一年七月十二日の生れで、還暦の祝も昭和二十三年春にすませた。

 世間の人々は彼がいろいろの病気をもちながら今日まで生きながらえ、還暦を終えた身で、全く寸暇もない生活をつづけているのをふしぎだというが、彼はこれに對していう。

 「人には、どんなに小さくとも、それぞれの使命が負わされている。その使命を果たすまでは、神は必ずその人を守って、生かせて下さる。わたしはそう確信して働いているので、いつしか、病気も忘れて六十年を生きて来た」

 こうして病を怖れず、病んでも悲します、また病気を忘れて、今日まで戦いつづけて来た賀川であるが、これからも、神が召して呼吸が喉を通らなくたる瞬間まで、彼は使命のために勇敢に戦うことであろう。

 賀川豊彦闘病五十年を語るに先立ち、ます彼の生立ちを一瞥して見よう。そうすることが、彼の病気の進行の経路を明瞭にすると思うから――。

      賀川豊彦の生い立ち
            

 賀川の家は元締頃からの四国阿波藍の製造元で、藩主は、藍を保護する意味から賀川家を代々十九箇村の庄屋とし、名字帯刀を許した。賀川の父純一は嘉永二年三月、徳島県板野郡大幸村磯部柳五郎の三男として生れ、同郡堀江村賀川盛平の養嗣子となり、家附の娘みちを妻とした。年若くして自由民権運動に加わり、政治結社自助社を創設し、また屡々上京して板垣退助の許にも出入した。元老院の創設された頃、一時、同院の役人になっても見たが、藩閥の天下であって見れば驥足を伸ばすによしなく、前途を見限って郷里に帰り、地方官となった。そして名東県高松支廳長、高知県徳島支廳長を勤めたが、やはり小役人生活にはあきたらす、一思いに実業界へ転身した。ここらにも、勇猛果敢の賀川豊彦の血の流れがうかがわれる。

父純一は当時の政治家たちが、当然のことの如くにしていた妾を蓄えていた。美しい芸妓であった。そして本妻は徳島県板野郡の実家に、妾は神戸市兵庫島上町にその頃開店した回漕店に置いたが、本妻との間に生れた二児は共に夭折し、妾腹に三男一女が生れた。その二男が、すなわち、わが賀川豊彦で、明治二十一年七月十二日、前記神戸の妾宅で弧々の声をあげた。

 父は英志を抱きながら明治二十五年十一月、惜しくも四十四歳で早世し、母里栄も良人の死に遅るるわすか二ヵ月で亡くたった。時に三十三、賀川の家に残る母の写真を見ると、母は円らな眼、上品な鼻、つつましやかな口、花柳界の出とは思えない淑やかな婦人である。

 こうして賀川はほとんど一時に両親を喪ったが、その時漸く五歳、従って両親の顔も定かには覚えていない。

 両親に先立たれた天涯の孤児は、神戸の生家を去って、徳島県板野郡馬詰村の賀川家に引取られることとなった。そこには祖母と義母とがいたが、全くの他人ではあり、特に義母にとっては、良人の寵を奪った妾の子であって見れば、愛情をもたぬのが当然で、賀川はそこで、さびしい少年の日を送らねばならなかった。

 賀川は六七歳の頃から浄瑠璃の稽古をさせられた。それほど遊芸が盛んだった。祖母は巌格な人で、賀川少年を叱ることを仕事のようにしていた。彼は九つの時から近くの禅寺へ通って大学、中庸、論語孟子素読を習わされた。賀川の家は、どっちかというと、孔孟の教えからは可なり隔っていて、部屋にも、倉にも、黄表紙の好色本が満ちていた。親類へ行っても同じだった。

賀川は満四歳何ヵ月かで堀江小学校に入学し、十一歳の春には高等科三年生になっていたので、七月生の戸籍を二月生に直し、他の少年より一歳早く県立徳島中学校に進学、寄宿舎にはいったが「稚児」の悪風があったりして好ましい場所ではなかった。
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 家督を相続した兄端一は才気縦横の青年だったが、家をそとに、芸者狂いをしていた。弟としてはさびしかった。彼は思った。うっかりすると、自分も放蕩に身をもちくずすようにならぬとも限らない・・・と。

      (つづく)