賀川豊彦の畏友・村島帰之(1)「略年譜(準備稿)」

はじめに

ただ今同時進行のブログ「賀川豊彦の魅力」http://keiyousan.blog.fc2.com/ において「賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より」の長期連載を進めています(本日第22回)。「賀川豊彦の畏友」と呼びうる人々の数多いなか、すでにその一人として「吉田源治郎」については「武内勝」とともに「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」のおいていちど長期連載を試みたことがあり、それが現在も http://K100.yorozubp.com/ でUPいただいています。「吉田源治郎」は「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」、「武内勝」は「賀川豊彦のお宝発見」のタイトルです。

今回取り上げようとする「村島帰之」に関しては、木村知世著『路地裏の社会史―大阪毎日新聞記者・村島帰之の軌跡』(平成19年、昭和堂)をはじめ、『村島帰之著作選集』全5巻(柏書房)なども刊行されており、その足跡はすでに人々の目に留まっています。

私の場合は、これまで賀川豊彦の作品を読みながら、あの激動の時代を共に歩んだ人々をたどる中から、上記の方々の歩みにも心惹かれて、関係者のもとに残された諸資料をひも解きながら、資料整理のようなことを愉しんでまいりました。

それでここではその延長として、標記のように「賀川豊彦の畏友・村島帰之」と題して、まず村島の多くの著作の中から私がいまも一番気に入って読み返している『賀川豊彦病中闘史』(昭和26年、ともしび社)を少しずつテキスト化して読んでみたいと思っています。

御存じのようにこの作品は、今吹出版社より賀川豊彦と共著のかたちで新しく『吾が闘病』として「復刻改訂版」が2006年に刊行されています。読みやすく仕上げられていますが、まことに残念なことにそこでは「貧民窟」が「低所得者居住地域」に、「ゴロツキ」が「暴力団や「無頼漢」に書き換えられたりしてしまい、折角の「復刻」が「復刻」ではなくなっています。

やはり歴史的な著作を復刻する場合、現代仮名遣いにすることはよいとしても、行き過ぎた自己規制による書き換えや改竄はいけません。

そこでまずここでは本書の原書をテキスト化しながら、ゆっくりと読み進んでみたいと思います。そしてこの作業が済みましたら、まだまだ隠れている「村島帰之」の諸資料を、少しでも多く紹介してみたいと思います。

私はこれまでに「村島帰之」の作品のうちふたつーー一つは「預言詩人・賀川豊彦」、もうひとつは「労働運動昔ばなし」−−を纏めて一本にしたものを、神戸の賀川記念館のHPにUPしていただいています。http://www.core100.net/ の「研究所」(「鳥飼の部屋」)です。

さて、最初の今回は「村島帰之略年譜」(準備稿)をつくってみましたので、それを収めて置きます。不十分で間違いもあるでしょうが「試作品」です。

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   村島帰之の略年譜 (準備稿)

明治24年 10月20日 滝口帰一の三男として奈良県に生れる
     早稲田大学卒業時に母方の姓を継ぎ村島姓になる
大正4年 大阪毎日新聞入社 売春・風俗・労働問題に関心を持つ
大正6年 夏 賀川豊彦と出会う
     12月〜「ドン底通信」連載(大阪毎日新聞
大正7年 出世作『ドン底生活』(文雅堂)出版(賀川を紹介)
大正8年 友愛会関西同盟発足(理事長・賀川、理事・村島)
     村島が賀川の小説「死線を越えて」を雑誌「改造」への
     寄稿斡旋
     大阪毎日新聞社神戸支局へ転勤
     『生活不安』刊行
大正9年 1月〜5月「改造」連載の後、10月『死線を越えて
     改造社出版
     大阪本社社会部へ転勤
     『サボタージュ川崎造船所怠業の真相』(梅津書店)刊行
大正10年夏 「川崎三菱大争議」(村島は肋膜炎で入院・休職中)
     『吾輩はプロレタリアである』刊行
大正11年 日本農民組合 (杉山らと共に理事)
     村島復職 イエス団の日曜礼拝出席 そこで宮沢しづえと会う
     『わが新開地』(文化書院)刊行
大正12年 賀川のイエス団における説教を村島筆記して『イエスの日常
     生活』(警醒社書店)刊行
     8月 「第1回イエスの友修養会」(6日間・御殿場)参加
     9月 関東大震災
     12月 賀川夫妻の媒酌で宮沢しづえと神戸で結婚 
     新婚旅行は東京本所で被災者支援 
     「東京日日新聞」社会部へ転勤
大正13年 2月前年8月の賀川の御殿場ヨブ記講演を筆記し『苦難に対
     する態度』(警醒社書店)刊行
     6月 賀川『愛の科学』(文化生活研究会)の編集刊行
     7月 賀川より御殿場の東山湖で洗礼
     9月 毎日新聞大阪本社に復帰。西宮に住む。
大正14年 四貫島セツルメント理事。
     8月 賀川の祈祷を筆記して『神との対座』(警醒社書店)刊行
     『歓楽の墓』『労働争議の実際知識』刊行
大正15年 大阪労働学校
     『ドン底の闇から』(サンデー・ニュース社)刊行
昭和2年  農民福音学校
昭和4年 『善き隣人―方面委員の足跡』『歓楽の王宮カフエー』刊行
 関西学院文学部の講師(犯罪社会学・ジャーナリズム)
昭和6年 7月〜11月 賀川豊彦・小川清澄と共に米国へ
(村島「アメリカ巡礼」)
昭和9年 大喀血重態 休職
昭和12年 健康回復して社団法人白十字会(東京)総主事
 千葉県市川市に住み、13年には横浜へ。
昭和13年 「本邦労働運動と基督教」を「雲の柱」13回連載
(昭和15年 賀川豊彦杉山平助共著『吾が闘病』横山隆一絵)
昭和16年 賀川の闘病書『病床を道場として』(白十字会)刊行 
     この間に結核関係の本を多数刊行
昭和21年 平和女学校を開校
昭和23年 『愛の小説・美しき献身』(清文堂)刊行
昭和24年 平和学園創立 学園長就任(賀川・理事長) 
クヌーテン『解放の預言者』の翻訳(小川清澄と共訳)刊行
昭和25年 「預言詩人・賀川豊彦」(「火の柱」20回連載)
早稲田の講師辞する
昭和26年 村島、賀川の『少年平和読本』(養徳社)を連名で刊行
賀川豊彦病中闘記』(ともしび社)刊行
昭和27年 世界連邦アジア会議(議長・賀川)協議員として参加し講演
昭和34年 賀川『病床を道場として』(福書房)より再版 村島の新たな
解説入る)
     5月「労働運動昔ばなし」(兵庫県労働研究所「労働研究」
     14回連載)
昭和36年 村島『潮騒はささやく―学園と共に15年』(平和文庫)
昭和38年 村島『松風のひとりごと―潮騒はささやく続編』(平和文庫)
     村島しづえ召天
昭和39年 村島帰之・しづえ『愛と死の別れ 野と花にかよう夫婦の
     手紙』(光文社)刊行 
昭和40年 1月13日 村島帰之召天(73歳)