賀川豊彦の畏友・村島帰之(161)−村島「回顧二十年―あの頃の神戸新川」

 「雲の柱」昭和11年8月号(第15巻第8号)への寄稿文です。

       回顧二十年 あの頃の神戸新川
                           村島帰之

  高山兄

 賀川先生を尊敬する二十若い人々から決まったやうに私の受ける質問は、先生が新川の貧民窟の路次に住んで居られた頃の状景です。

 そうでせう。先生の御提唱を端緒に、神戸市が新川の不良住宅改善を断行した結果、曾て先生が高張提灯を持って路傍説教をなさったあたりに十四間道路が通り、二畳敷長屋の跡に鉄筋コンクリートのアパートが聳えてゐます。これでは年若い方々が今日、新川を訪れて見ても「死線を越えて」の跡――やがて神戸の一史蹟ともなるでせう――の見当がつかぬといふのに何の不思議もない訳です。

 後で書くつもりですが、私が賀川先生を知ったのは大正五年ですから、もう二十年以上になります。その頃の神戸新川の状態及びそこを根城として勇敢に働いて居られた先生の横顔を此處に書いて見るのも、若い方々への回答ともなることで、強がち無用ではあるまいと思ひます。

 私の手許に、二十年前最初に先生を新川にお訪ねした日の光景をスケッチ風に書いたものが残ってゐます。今、その手記を基礎にして、二昔前を偲ばうと思ひます。(敬称を略します)

   日本一の密集地帯
 木綿も色の醒せた羽織の前を、コヨリの紐でくくって、未だ三十歳にもならぬ書生ッポ姿の賀川氏が案内に立ってくれました。市中の方から新生田川(今は川に蓋をして瀟洒な散歩道路になってゐます)の橋を東へ渡ると、其處には前に海をひかへ、背後に再度山を負ふた、所謂「葺合新川」の一画が、私達の前に展開されました。善くもこうまで揃ったものだと思はれる程に、小さい平家建の長屋が縦横に建て連らなって居るのです。

 「此處は初めっからこんな大聚落があった訳ではないのですが、永年の間に集まって了ったのです。」と氏は、説明してくれました。往来に佇んでゐた縮れっ毛の女の児が、氏の方を見てぺコンと御辞儀をしました。「賀川先生……」と、いたづらッ児らしいのが、真黒な顔の中に、ニッと白い歯を出して笑顔を見せました。もう此処らからが氏の勢力範囲と見えます。

 私たちは、南本町四、五、六丁目、北本町二、四、六丁目、吾妻通り五、六丁目、日暮通り三、六丁目と順次に見て行きました。

 賀川氏の説明によると、約四五丁四方のこの界隈だけで、約二千戸、約八千人が住ってゐるさうです。東京の下谷区萬年、入谷、龍泉寺、金杉、山伏各町は、以前、貧民窟として日本屈指のものでありましたが、五ヶ町を合せて貧家の世帯約二千八百戸、人口約一萬人であったといひますから、これと彼れとを比べて見ますと、地域の狭い割合に、神戸の新川の貪民窟は、人口の密度の甚だしいことに気がつくのです。

 叉これを大阪に比べますと、大阪で最も貧困者の多いと称せられる難波署(今では三つ四つの署に分れてゐます)部内丈けでも、あの廣大な地域を以てして、僅か九百戸、約二千人の貧困者がゐる丈けです。

 尤も三市の貧困者調査をなすに当って定めた貧困者の標準は、三者必すしも同一とは申せますまい。だから此の戸数や人員だけで比較するのは早計ですが、大体において大阪、東京の貧民窟は比較的散在してゐるのに反し、神戸新川の貧民窟は密集してゐることだけは間違ひありません。

 かうした貧困者の密集居住は、一種の群集心理を醸成して、種々の忌はしい事を産み出だします。私が氏の後から尾いて、狭い路次のドブ板の上を歩いてゐる内に――それは、約一二時間の短い間であったのにも拘らず――六七ヶ所で十数人(中には数十人のものもあった)の男女が賭博をやってゐたのを見たほどです。

 私は、何時も貧民窟を廻る時にするやうに、巡査の案内を頼まなかったことを幸福に思ひました。賀川氏の案内なればこそ、こうして裏面、裏面といふよりも実情――を見る事が出来たのでした。

 おかしいことは、巡査の調査した新川部落改善着手当時と、現時(大正四年)の悪漢者對照表(警察らしい名称ではありませんか)なるものに、賭博常習者として、明治四十六年三十人、大正四年十人と挙げてあることです。

 私が一瞥した丈けでも、六七組の賭博があったのではありませんか。それがその日に限った事ではないと賀川氏の説明があったのから解すれば、賭博常習者は如何に少数に見積っても、百人以下といふことはあり得ないのです。

 路次の中を行く

 私は、賀川氏の背後からトボㇳボと歩いて行きました。海が近いせいか、ここの空気は、他の貧民街の夫れのやうに、ムッとして息の詰るやうな事がありません。でも、長屋の奥に行くに従って、その海の匂も鼻に届かなくなるのでした。

 近道を知ってゐるか賀川氏はずんずんと先になって、ここの露地、彼處の横町と私を引張って行きます。私はどこへ連れて行かれても、この場合否む訳には行かなかったのです。なぜなら、氏を見失ったが最後、私は路次の中で迷児となるからです。

 行くに従って氏の勢力範囲は、その濃厚の度を増して来ました。納屋のやうな家から、垢ににぢんだ女などがトラホームの眼を睜って挨拶をします。此處は新川部落の中央で半間にも足らぬ道幅ですから、手を延ばせば向ひ同志で握手も出末やうといふのです。その道を隔てて十五軒位づつの長屋が規則正しく平行して並んでゐます。

 規則正しくといふ形容詞は、貧民窟では、恐らくはこれ以外に必要はないでせう。半間幅の道幅! それは必ずしも狭いとは言へないかも知れません。車が来るでもなし、況んやガソリンの尼をひって行く自動車も通らないのですから、寧ろ、廣いと言ってよいのかも知れません。

 しかし、その道の両側の溝には、何十日放擲してあるのか知れぬ不潔物が腐れの中に淀んでゐることを思はねばなりません。又屋根と屋根との距離が狭いために、太陽の余波も茲許りは薄くて、地面は常にジメジメとしめり、凹地には年中庭潦(にわたずみ)のやうに、水が溜まってゐることを忍ばねばなりません。そこへ持って来て、両側の家は家とは名のみで、其處にあるのは、垢によごれた人と、鼻持のならぬ襤褸とだけであります。何のことはない貧民窟全体が一つの大きな芥溜です。

 便所の不潔なことはいふまでもありません。賀川氏に聞くと、便所は六十戸に三つ位しかない相です。尾篭な話ですが、不浄は壷に余って、不二山形に堆積してゐるのです。それもそうでせう、一つの便所に、約二十戸の割り当てだそうですから、少くとも八九十人の人がそこで用を足すのでせうし、殊に貧民窟へは肥汲みも、市中ほどには頗々と来ませんからたまるのも道理と申すものです。

 便所の戸は素より、吸い取り口の蓋も、どの便所といはず悉く皆一様に盗まれてゐて、その影さへ見えません。不浄は誰も遠慮会釈もなく暴け出て、臭気紛々我等の鼻を圧するばかりです。

 斯かる非衛生と臭気の中に、明け暮れ住まってゐるドン底社會の人々は、平気でゐます。彼等はそうした臭気を臭気と感するには余りに感覚が麻痺してゐるのです。賀川氏は「あの人たちは善く屁、屁といって笑ひますが、本統の屁の匂ひを知っては居ますまいよ」といって笑ひました。斯うした悪臭の中を進んで行く私の、珍な姿を想像し下さい。併し私は決してハンカチを出して、鼻を蔽ふやうな事をしなかった事だけは承知してゐて下さい。

 軈て、賀川氏は私を拉して、有名な「二畳敷長屋」へ連れて行ってくれました。二畳敷長屋とは、名の如く、一戸二畳しかない長屋です。マッチ箱のやうな、一坪半位の家が蜂の巣かなんぞのやうに並んでゐるのです。タッタ二畳の家でも彼等にとっては最も温かい寝床であるのです。聞けば、この二畳敷には少くも四五人の家族が棲まってゐて、中には九人も住んでゐるのがあるといひます。世間の人々が、彼等仲間に、貞操観念のないといふのは、ないといふよりも、あり得ようがないのです。

 二畳敷に独り住ってゐた或女は、三日目か四日目には屹度手籠めに會ったと言ひます。彼女たちに、よし貞操を守らうとしても、守るべき道がないのです。で、彼女たちの或る者は、守ることの困難な貞操を守らうよりは、寧ろこれをパンに代へる方が利益だとするに至るのです。彼女らがパンの為に男を次から次へと代へて行く事もむしろ自然なのかも知れないのです。浅間しいといふよりは、何と気の毒な彼等の身の上ではないでせうか。

 私はこの事実を更に裏書する為めに、賀川氏の日記から、氏の向隣りの乞食に関する一節を摘記して見やうと思ひます。

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 △九月二十五日 徳といふ男が、大師(賀川氏の向隣の盲乞食)の処へ移住して来た。その晩彼らは主として二週間前に死んだ「いざり乞食」の妻のお玉の事を話してゐた。そして、徳は三円八十銭の持合せがあるから、お玉は必ず自分のものになると力んでゐる。どうも、大師は、徳にお玉の事を話してわぎわざ連れて来たのらしい。
 △十月九日 大師宅へお玉がやって来た。そして徳に二円五十銭だけ貸してくれと頼んだ。お王のいふのでは、死んだ亭主の三十五日をするのに、その金が是非要るといふのだ。大師は「まあ一晩でも一緒になれ、一円位はすぐ出させる」とお玉を説いてゐる。
 △十月十四日 この日お玉の死んだ亭主の三十五日が済んだ。そうして、その晩直ぐお玉と徳とは結婚したのである。お玉は三十五日間兎に角、表面だけでも貞操を以て通した。この日雨だったが、徳は新川の乞食の知人を招いて大いに飲んだ。
 △十月十五日 徳夫婦の姿はもう長屋から消え失せてしまった。もう永遠に帰っては来ないのであらう。

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 寡婦人の貞節三十五日! これ貧民窟内にあってはむしろ貞婦といはねばならぬのです。貧民窟では「寝たものもの夫婦」といふ言葉かあるぼどですから。
 いや、それどころか、亭主が妻に淫賣して来いと命じて、自らはその張番をして居るものさへ少くないのです。叉妻が他所の男と密通(この言葉は一寸貧民窟に用ふには不適当かも知れません)しても、姦夫の方が妻を盗まれた男よりも強ければ、ヘイヘイといって泣寝入りするより外はないのです。・・・賀川氏は語って暗然とされるのでした。

   天幕張の賭博場

 氏は勝手知った石路次のドブ板の上をサッサと歩いて行きます。私はそこ後を追ふて行くのです。私はその日は友愛會(今日の全日本労働總同盟)の演説會へ講演に行った帰りだったので、紋付の羽織袴でゐました。それで、両側の長屋の人達は、耶蘇教の先生(貧民窟の人々は賀川氏をそう呼んでいます)の尻からついて来る礼装の私を見て、冴かしそうな眼をして「御医者さんやろ」などと囁き合ってゐるのを聞きました。

 私達は幾つかの石路次を歩いて行く内に、屡々アッと驚かせらるる場景を見ました。それは貧困者が私達を脅迫しに来たのでもなければ、殴りに来たのでもありません。路地と路地との間の空き地に天幕を張り渡して、賭博を開帳してゐるのでした。数十人の人たちが眼を異様に光らて輸贏を争ふてゐるのです。

 「叉賭博かね、しようがないね」と賀川氏がいふと「しようがあるがな」と反抗的に答弁するものもあれば、「ヱヘヘ」と苦笑するものもありました。或長屋の一隅では女許りで輸贏を争ってゐるのがありました。

 「茲は女ばかりだね」と謀り賀川氏がいふと、「ヘエ、女島(女護島)だんね」と答へる。「仕方がない」ねと言へば「鳥渡、無蓋をして貰てまんね」と、平然と答へるのでした。

 酒と、女と、そして賭博、この三つは彼等の娯楽の全部なのです。彼等は儲かったからとて賭博をやり、雨が降ったからといって花合せをやります。殊に当時は彼等社會にも欧洲戦争の齎した景気風から収入が多いので、二三日働いては休んで金のなくなるまで賭博を打ち、財布の底が空になって、又働きに出て、賭博の料を作って来るのです。賭博の数は、例年よりも多いといふ事でした。

 「賭博はとても絶滅は期し難いでせう」と賀川氏も嘆息しました。紳士仲間は愚か、國際間にすら賭博的行為がなされてゐる世の中です。彼等に賭博の習癖のあるのも、已むを得ないのかも知れません。しかし賭博そのものは已むを得ぬにしても、これに関連して惹起る幾多の悲劇を思へば、決して看過すべきものではありません。況んや、道徳的悪なるに於てをやです。

 善く感化院で聞く話ですが、感化院へ来る不良少年−−多くは貧民窟から来る――に賭博の習癖のあるものが少くないといふ事。これなどは、明らかに父兄のするのを見て、知らず知らずに趣味を涵養されたものと見えます。実に憂慮すべき事柄ではありませんか。

  スラム内の賀川氏の住ひ

 斯うしたいろいろの驚くべきことどもを見聞して驚異の眼を睜ってゐる内に、私達は、つひに賀川氏の住宅に辿りつきました。

 賀川氏の住宅! 知らない人たちはどういふ風に想像されてゐるでせう。門は破れ――いいえ、門などは影すらも見えません。そんなら、格子戸でもはまってゐて、―−滅相もない。そんなものは皆目ありません。私どもの宅の裏木戸にあるやうな戸が一枚あって、それを開けば賀川家の全部が、眼前に展開されるのです。

 賀川家の全部といっても、それは三畳敷が三間、これは三軒の家をぶちぬいて一軒の家にしたのですが、屡々農家の裏手に見受ける物置と何等変わったところがありません。天井は低く垂れ下って、天井板は隙間だらけです。南側は古色蒼然たる形ばかりの格子ですが、触れたら手にトゲが立ちそうです。戸締りなどは全くありません。昼夜共、開っ放しです。これでは氏の家財が特出されても判りません。

 「洗面器など、けさ僕が使ったのに見えないと思って捜すと隣家で洗濯に用いてゐるといふ始末です」と氏は笑って話した。三部屋の内、奥の一室は、氏が初めて此處に住まれた時の家です。何でもその当時、人殺しがあった家で、幽霊が出るといって、誰も借手がなかったのを氏が借りたのだと言ひます。今日では、その部屋は説教所になってゐて、黒板の上には、聖書から抜いた聖句が書かれてあるのを見ました。

 中の部屋には椅子、テーブルが置かれてあります。このテーブルの上で、氏の大著「貧民心理の研究」が書かれたのだと言ひます。三個の部屋ともに何一つ装ひらしいものもなく、飽くまで貧民窟の傅道所らしいのです。氏は此の家に自ら住むのみならす多くの寄るべなき人々を寄食させて来られたのでした。乞食、ゴロツキ、半身不隨の女、淫賣婦、狂人、嬰児……同居者の種類は雑多です。

 この中へ、春子夫人も住れて夫君を扶けて、これ等の人々の母となってやられたのです。そんな事を考へ乍らキョトキョトと、周囲を見まはしてゐると一人の少年が「先生」といって這入って来ました。見れば左腕に繃帯をして、首から釣ってゐるのでした。

 「この児はころんで怪我をしたのですよ」と氏は私に説明して、子供に、
 「どうだねもう痛まないかい」
 「ウン、もう何ともないよ」
 「そいぢや上へ手が上るかい」
 「ウン、上るよ」子供は自慢さうに手を高く差上げました。氏はニコニコと、
 「よくなったよくなった、それでいい、いい。」と子供の頭を撫でてやりました。何といふ美しい光景でせう。

 多くの救療事業救貧事業もありますが救護されるものと、救護しやうとするものとが、ここまで接近してゐるのは、他に一寸類がないと思ひます。
 生みの親は、親自身の安全と利盆のために、時に子供を犠牲にすることがありますが、耶蘇教の先生と呼ばれた善き隣人は、反對にこれ等の子供のために献身し、犠牲となることを少しも惜しまないです。

 私は稿を急ぐために、省略して来ましたが、至る所の長屋で、賀川氏はトラホームの歓迎を受け、低能児の笑顔を見ました。こうしたたびに、
「どうだね、お父さんの病気は」とか、「もう薬がなくなったらう、取りにおいで、上げるから」とか言ってゐるのをききました。

 賀川氏の仕事は修道が中心ですが、救貧事業の凡てをやってゐられるやうなものです。

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 二十年前の私の手記はこれで終ってるます。当時、まだ基督教信者になってゐなかった私は、先生の伝道について少しも触れてゐるところがないのみか、先生の涙ぐましい事業についても筆を及ばしてゐません。只だ、当時の「神戸新川」がホンの一端ではあるが、朧ろげに窺ふことが出来るといふだけです。血涙のにじむ聖戦については別に書かねばなりません。

   (この号はこれで終わります)