賀川豊彦の畏友・村島帰之(162)−村島「本邦労働運動と基督教」(1)

   「雲の柱」昭和14年1月号(第18巻第1号)への寄稿分です。

       本邦労働運動と基督教(1)
       特に関西の組合運動に及ぼせる賀川氏の影響
                            村島帰之

    はしがき
 極めて大雑把に、今日までのわが国における無産運動の地方色を概見することが許されるなら、私は斯う言ひたい。関東の無産運動はより理想的で、関西の無産運動はより現実主義的である――と。若しこの概言が誤謬でないとしたら、そして労働運動の正道が抽象的な理論闘争にないとしたら、現実的な経済行動を主として動いてゐる関西の労働運動を、正統な労働運動といっても敢て過言ではないであらう。

 これは私一箇の感じではなく、関東の労働運動者が常に関西の労働運動を評して、「関西には理諭がない」といひ、又関西の労働運動者が関東の運動を評して「彼等の足は地についてゐない」といってゐるのでも判明するのであって、労働運動のローカル・カラーとでもいふべきものである。

 現実的な傾向を特色とする関西の労働運動の由来するところ如何。その土地柄によること勿論である。が、しかし、只だそれたけだらうか。素より土地柄にもよるだらうが、また同時にその指導者の人柄にもよるのではないたらうか。

 関西の労働運動の現実主義的傾向を招来した一つの原因として、私は「賀川豊彦」といふ指導者の存在を挙げる。これは果して間違ひであらうか。

 賀川氏が労働運動の指導者として存在したのは、既に二十年に近い過去の昔語りにならうとしてゐるが、その流れは今も連綿として続いてゐる筈である。今やわが国の労働運動の最も振はざるの時において、二昔前の事どもを回顧して見るのは、必ずしも徒爾ではなからうと思ふ。

     関西地方と労働問題
 関西は労働者の淵叢である。労働運動尚ほ旺んなりし今より十年前――仮に昭和二年頃の統計を見ると、大阪の労働者数は約五十二萬人、東京はそれより十萬下って約四十二萬人、第三位は福岡、第四位は愛知と兵庫が相伯仲の有様である。尤も、この中、組織労働者は、大阪は女工の多い繊維工業を主とする関係上、東京に一籌を輸してゐるが、その代り、隣県の兵庫が東京を凌駕して全國第一位を占めてゐる。組合の数は、さすがに東京が第一位を占め、二位は大阪、三位は兵庫、そして四位を神奈川が占めてゐる。

 さらに労働争議について見ると、関西は圧倒的に多い。時局のため争議の終熄を見てゐる今日は姑く論外として、争議なお頻りなりし十一二年前を見ると左の如くである。

       大正14年          大正15年
順位    件数   府県      件数    府県
 1     220   大阪      290     大阪
 2     193   東京      259     東京
 3     83    兵庫      125     兵庫
 4     43    愛知      63     京都
 5     40   神奈川      50     広島
 6     34    広島      45    神奈川
 7     30    京都      32     愛知
 8     17   北海道      31     福岡
 9     16    愛媛      30     長野
10     16    長野      21     埼玉

 即ち最も多く労働争議の頻発を見たのは、両年度共に大阪が第一で、東京之に次ぎ、兵庫が第三位、京都、神奈川、廣島、愛知の順である。換言すれば現実的な労働運動――経済行動を採る点においては阪神地方が全國に冠絶してゐるのを見るのである。

 以上の量的考察に見ても関西は労働運動の中心をなすことは明であるが、質的方面においても亦た然るを見るのである。否その方こそ重要な点である。

     関西の労働者の目覚め
 関西を中心とする労働運動の質的考察をなすに先立って、その労働組合発達の経路を一瞥する必要がある。

 関西において最も古い歴史を有する労働團体は大阪石工平和会で、その淵源は遠く天保年間に発するといふ。これは石工職人間における相互の親睦を旨とした太子講で、明治廿七年に至り、講が消滅し、その後浪花組、浪花会又は石工平和會としで組織する事三回に及んだが、いづれも中途解散し、大正五年八月、現存のものが復興したといふが、同會の綱領に「同業者の幸福を増進し誠実を以て需用の便益を圖り斯業の発展を期するを以て目的とす」とあるのに見ても、純粋の労働組合でない事は明瞭である。かうした同業組合に似たものを除外すると、その発達は大分遅れてゐる。

東京では幸徳、安部、片山、西川、木下等の社會主義者によって、明治三十二年頃から印刷工や鉄道従業員の組合が、たとへ短い期間ではあったが、兎に角、組織されたが、関西には斯うした有力な指導者が存しなかったため、労働組合の組織がなく、空しく十余年を経過した。で、最も早く関西に生れた労働組合は友愛會(今日の全日本労働總同盟)の支部と職工組合期成同志会とである。まづ友愛會から述べる。

 友愛會が始めて関西に手を伸べたのは、同會が鈴木文治氏により、惟一館のミッションの一事業として東京で創立された翌年――大正二年、北区新川埼町の三菱製煉工場の職工が同会の機関紙「産業及び労働」の配付を受けしに始まると云はれる。それから続いて大阪電気分銅工場の職工中にも、同誌を購読するものがあったが、未だ會員といふまでには行ってゐなかった。

然るに翌大正三年二月に至り、東京の江東支部の 深川堅鉄製作所職工河野吉太郎氏が来阪し、木津川秋田製造所職工として就職して以来、三菱製煉及電気分銅両工場の職工を勧誘し、三十名の會員を得て始めで支部らしいものが出来、翌々五年には會員四百名に激増し、五月には住友仲銅、汽車會社職工を中心に大阪第一支部を組織し、十一月、日本兵機の職工によって関西支部が設立された。

 これは凡て大阪での運動であるが、川崎、三菱の両大造船所を有する神戸ではどうであったか。これは賀川氏の出現と深い関係を有するので、少しく詳記する必要がある。

     神戸と労働問題

 明治二十三年頃は工産物總額僅か百萬圓に過ぎぬ神戸市であったが、日清、日露の両役を経過しさらに、欧洲戦乱の影響を受けて急激に発展し、川崎、三菱両造船所及神戸製銅所等の大工場の続出によって、それから三十年後の大正七八年頃には、工産物總額は実に二億四十萬圓に達した。三十年間に約二百倍の激増を来したのである。之れ蓋し神戸の地形が海陸交通に便で、原料の聚集に容易であるのと、今一つは資本労力を豊富に有するために外ならない。

 現に工場及び職工の数の如き、明治二十九年には僅か三百十三箇所の工場と二萬千人の職工を有するに過ぎなかったものが、大正八年には工場数約一千五百、職工数約六萬五千を数へた。即ち工場数において約五倍、職工数においては約三倍の増加である。

 併し此處に注意を要する事は職工数の付加率が、工場数の増加率に遥か及ばぬ事である。之は何が故であるか。言ふまでもなく増設せられた工場が概ね家内工業的小工場に限られた為めである。小工場の斯く簇生せる理由は? それは大工場の仕事の増加に伴ひ、下請負の所謂町工場の新設を見た結果に外ならない。即ち川崎造船所、三菱造船所其の他大工場が仕事の輻轃のために一部の生産を「町工場」と呼れる小工場に下請せしめた為めである。これ等の小工場は、労働者に對する待遇も悪く、多くの労働問題を包蔵してゐるのであったが、その小工場の労働者が概ね時代に目醒むること遅く、その不良な労働條件に甘んじてゐるために、工場数の驚くべき増加があったのにも拘らす、永く労働者の組織化が実現されすに来たのであった。

 一方、大工場も、その工場数こそ増やさないが、職工数は驚くべき増加を見た。欧洲戦乱勃発前、即ち大正三四年頃には僅か職工七八千人を有するに過きなかった川崎造船所の如き、大正八年には一躍倍加して一萬六千人の菜ッ葉を着た労働者が工場の門を潜る盛況を見るに至った。三菱造船所も同様で、欧洲戦乱勃発前までは五干人しかゐなかった労働者が、大正八年には一萬人を算して、これ亦倍額の増加である。

 この大工場には優秀な労働者が集まった。彼等の時代の目覚めもおのづから他の小工場の労働者よりも早かった。労働組合の運動は大正三年の暮れあたりから徐々に進められてゐた。

     山縣憲一氏と高山豊三氏
 友愛会創立五周年史(大正六年三月友愛會発行)によると、大正三年、桂謙吉氏等によって神戸分會が組織され、これが後に神戸葺合支部となったのだと記されてゐるが、神戸分会の直系は葺合支部だとしても、神戸に支部の出来たのは、神戸支部の方が早かったのだと私は記憶する。

 神戸支部は、川崎造船所の本工場の労働者の組織したもので、大正五年には既に発會式を挙げ、当時神戸高商の教授であった山懸憲一氏がその支部長に挙げられ、須々木純一氏等が有力なる組合員であった。

 山縣憲一氏は基督教信者で、人道主義的な情熱を以て深く労働運動に傾倒し、進んで支部長の椅子に就いてゐたのだった。氏は当時なほ學者間にも余り問題にされてゐなかった「職工問題」(当時労働問題とはいはたかった)に興味を持って、後には「職工組合論」といふ書物をさへ著した。若し同氏がなほ数年健在でゐたら、同じ人道主義的立場を採る賀川豊彦氏と手を握って、相共に十字架的精神を以て社會正義のために健闘しただらうが、惜しいことには、賀川氏の労働運動への進出を見る前に、即ち賀川氏の外遊中に、惜しく早世して了った。

 山縣氏の死去後、神戸は適当な指導者を持たなかったが、しかし、時勢は駸々乎として進んで、労働者の団結は、雪の上を転ばす雪達磨のやうに、次第にその塊りを大きくして行った。即ち、川崎造船所本工場を地盤とする神戸支部の外に、川崎三菱両造船所兵庫工場を中心として兵庫支部が生れ、川崎造船所葺合工場及神戸製銅所、ダンロップ護謨會社等の労働者によって葺合支部が組織された。そして大正六年二月にはこれ等の三支部によって友愛会神戸聯合会が組織され、その主務として、東京の本部から常務幹事高山豊三氏が派遣された。

 高山氏は基督教会の牧師であった人である。元来、友愛会は前述せる如く鈴本文治氏が宣教師マッコレー博士の秘書として、叉自由基督教を標榜した唯一館の幹事として、そのミッションの仕事の傍ら始めた労働運動であったため、多くの教役者が、その役員又は職員として初期の友愛会の運動の中心をなしてゐたのである。例へば役員としての安部磯雄氏、吉野作造氏、油谷治郎七氏、の如き、又職員として、高山氏の外に、後に記すところの加藤滋氏の如き皆これである。

 高山氏は温厚な紳士で、筆者も幾度か會って知ってゐるが、後年、友愛会を去っで再び牧師としてアメリカに使ひし、今は山口あたりに牧會して居られる筈だ。

 神戸が斯うして漸次組織化されて行ってゐる時、大阪でもこれに劣らすに著々として組織の拡大強化が行はれてゐた。即ち大正五年に大阪第一支部及関西支部が組織されたに続いて、大正六年六月、即ち神戸聯合會組織より遅るる僅か四ヶ月後には會員千四百名の多数を数へて大阪聯合會が組織され、その主務としては、北海道室蘭製鋼所の労働者として、有名な大正六年の室蘭の争議のリーダーを勤めた松岡駒吉氏(今の總同盟會長)が来任した。松岡氏は後年、マクドナルド女史の感化を受けて基督教に接近し、今日も典型的紳士として労使双方から崇敬を受けてゐることは世人の知るところである。

     新帰朝者賀川豊彦
 こうして大正六年の半頃から、関西の労働運動は俄然、活発なる進展を見せてゐたが、恰度この時、米国の留學を終へて、賀川豊彦氏が帰朝し、その儘葺合新川の貧民窟に這入った。

 賀川氏は貧民窟から手を伸ばして、神戸の新時代の幕を引かうとするこれ等の労働運動に力を貨した。高山主務は賀川氏の応援に心強さを感じたが、それにも増して、山縣憲一氏を喪って以来、指導者といふ者を持たずにゐた労働組合員は大に喜んだ。しかし、この賀川氏が、その後、関西の労働運動の指導者として至大至高の影響を与へるやうにならうとは、誰も当時、予期した者はなかった。なぜなら、その時の賀川氏はまだ全く無名で、矮躯痩身に、木綿の羽織を着た貧引な書生に過ぎなかったからだ。

 しかも、関西の労働運動は、此の一書生の出現によって、劃期的進展を遂ぐべき幸運に向って黙々として進みつつあるのだった。

    (この号はこれで終わる)