賀川豊彦の畏友・村島帰之(163)−村島「本邦労働運動と基督教」(2)

  「雲の柱」昭和14年2月号(第18巻第2号)への寄稿分です。

      大正労働運動と基督教(2)
      特に賀川豊彦氏の及ぼしたる影響
                          村島帰之

   日本工業界の黄金時代
 日本の工業は、日清戦争直後において産業上の革命を経験し、日露及欧洲大戦役を転機にして一大飛躍を遂げた。(明治廿七年頃の工業会社の数は、僅か干に足りたかったが、五年役の三十二年には三千二百に増加したといふ。)殊に欧州戦乱は日本の工業を極度に押し上げて了った。職工五人以上を使円する工場についての農商務省の調査によれば、明治四十二年から欧州戦乱までの日本の工業は約三万の工場と約八、九十萬の職工を擁してゐたのであったが、欧州戦乱一度勃発するや、その余波を受けて未曾有の活況を来たし、大正八年には、工場数は一躍四萬三千に(五年前に比し四割増)職工数は百六十一萬入(五年前に比し八割増)に激増して、わが工業界は正しく黄金時代に逢着したものの如く思はれた。今、暦年の工場、職工数及び大正三年を基準とする指数を記すと次の如くである。

 即ち工場数及び職工数ともに大正八年以降において著しく増加し、五年前に比し指数は工場数において三十九乃至五十六、職工数において六十四乃至八十六の増加を示してゐる。換言すれば、欧洲戦乱を転機として、わが工場五割内外、職工数は七割内外の膨脹を来したのであって、これが、労働運動の著しき発達を促成したことは言を俟たない。

    工場の規模が小さい

 然し此處で問題とすべき事は、右の膨脹が、日本の工業近代化と如何なる交渉を有するかといふ一点である。まづ大小工場の大正年間における増加を見やう。

 大正十二年末にむける工場数四萬七千、その中の三萬九千即ち全工場の八割二分までは職工五人以上三十人以下を使用する小工場で、百人以上五百人以下の職工を使用する中工場は漸く千八百、即ち全工場の三分にしか当らない。更らに五百人、千人といふ職工を抱擁する大工場は僅か四百九十、即ち全工場数の一分にしか当らないのである。此一事のみを以てする時は、日本の工業がこの期問に於て既に産業革命を経過し、工場組織が近代化しかなどといふ事は当ってゐないやうにしか考へられない。即ち近代工業の根抵なほ浅く、資本主義は未だ工業全体の上に及んでゐなかったものといはねばならない。
 然うだ。わが工業は未だ産業革命も十分に徹底せす、旧来の家内工業若くはそれに近い小規模工業が巌存してゐる事は疑ふべからざる事実である。この事は、わが労働運動が余り廣く行はれず、京、阪、神の如き大工場の存在する都市の一部に局限せられる結果を招来したのだ。

   小工場は逐年減少

 然し一歩退いて、これをそれより遡って十年前、十五年前と比較するとき、われ等は徐々であるが、日本工業の漸次近代化しつつあった事実を認めずには居られない。
 明治四十二年末における職工五人以上使用工場は全工場の八割五分七厘を占めてゐたが、大正三年には八割二分六厘に減じ、八年には八割一分に減じてゐる。その後工業界の好況で小工場の簇生を見たが、それでも八割三分台を破る事なく、十二年には再び八割二分に減じてゐる。即ち小規模の工場は、大体において逐年減少して行ってゐるのである。之に反し千人以上の大工場は明治四十二年末には干に二つしかなかったのが、大正三年には干に三つとなり、十二年には五つに増してゐるのである。
 五百人以上の工場も略ぼ同様の増加である。これを実数について説明すれば、五百人以上の大工場は明治四十二年末現在で百四十工場を数へてゐたのが、大正三年には二百九 工場に増加し、更らに十二年末に至っては四百九十工場に殖えて行ってゐるのである。即ち職工五百人以上を使用する大工場の数は十五年間に三倍半に増加したのである。
 要するにわが工業が、漸次規模小なるものより大なるものへ移って行ってゐる事は掩ふべからざる事実である。之をしも工業の近代化といはずして、はたまた何といはう。そしてこの事によって始めてわが労働運動の著しき発達をを見るに至ったのである。

    工場資金の集中

 然らば、工場の規模の大小は、業態と如何なる関係があるであらうか。これについては大正年間における業態別による工場数及職工数を併せ記す必要がある。下に大正十二年末農商務省調査の規模の大小に依る工場の種類を掲げる。

 工場総数四萬七千、その中、各業態を通じ、最も工場数の多いのは何といっても染織工場でその数一萬八千全数の(三割七分)と註せられ、之に次ぐものは飲食物工場、雑工場(印刷製本業、紙製品業、大竹蔓莖製品業、皮革、羽毛製品業等)機械及器具工場、化學工場、特別工場(電気、瓦斯、金属精煉業)の順序である。そして千人以上の大工場二百二十六中、六割五分といふのは染織工場が占めてゐるのである。染織工場、殊に紡績工場における資本の集中は実に顕著たるもので、小規模の紡績工場は続々として大工場に兼併されて行ってゐるのである。機械工場は工場数においては第四位であるが、大工場を多く有する点において染織工場に次でゐる.即ち千人以上の工場の一割七分を占めてゐるのである。

    近代的工場組織へ

 斯うした事実は、工場種類別職工数を一瞥する事によって、一層明瞭となる。大正十二年末農商務省調査のそれを左に掲げる。

 即ち職工總数百七十五萬人、各業態を通じ最も職工数の多いのは染織の九十三萬人(全数の五割三分)で、以下機械器具の三十一萬人(全数の一割七分)、化學の十七萬人(全数の九分)、飲食物の十六萬人(九分)、雑工場の十五萬人(八分)、特別工場の一萬四千人(八厘)の順序である。そして千人以上使用の大工場にある職工總数五十萬人の中二十八萬人即ち五割七分までは染職工場職工である。叉これを染織職工のみについて見ると、その三割までは千人以上使用工場に働いてゐるのを発見する。これ等の大工場では、所謂温情主義の下に職工を庇護して、熟練工の分散を防ぎ、職工募集上の便宜に資してゐる上に、染職工業の特徴として、大部分女工手を雇傭するところから、幾多の労働問題が存するに拘らす、労働運動は容易に起らないのだ。労働組合はこの牙城を抜くことが出来ず、その機會を狙ってゐるに過ぎなかった。
 これに反し、機械工業はその大工場数の実数においては染織工場に及ばざること遠いが(千人以上使用工場職工の三割を占めてゐる)それでも機械工場内部における大工場の比率は却って多く、その四割九分は千人以上の大工場に働くもので、勿論こうした近代的大工場組織の下に立つ労資の間には、昔の温情関係は見るに由なく、純粋の雇用契約の上に立って階級的に対立をつづけるのである。
 しかも、機械工業の大工場は全工業を通じ、最も知識の高い優秀な熟練男工を多数にその傘下に集中せしめるところから、階級意識の発生、労働組合の組織も他の工場よりも一歩先んずるのを免れない。わが労働組合運動は此處から発達を見たのである。

     労働運動創生記
 勿論、労働運動は、右にあげたやうな近代的大工場の発達する以前、古き明治年間から発達してゐる。例へば明治十六年、東京に馬車鉄道の敷設さるるや、これにより失業の憂き目を見た人力車夫が、自由党の党員奥宮健之氏等を中心にして馬車鉄道廃止を目的に、都下の人力車夫を糾合して起った「車界党」の如きがあるが、これは政治的色彩濃厚なもので、未だ労働団体とはいひ難い。
 経済的労働運動の濫觴としては、明治十七年、東京印刷会社の池田氏によって企てられた印刷工組合を挙げたいが、これは一般職工が団結の必要を痛感せぬのみか、却ってこれを怖しがり、且つは利己のために謀ることは男子の恥だとするが如き、封建時代の迷夢尚ほ醒め切らぬ者が多く、惜しい哉夭折して了った。
 これに次で鉄工仲間に團結が企てられた。即ち明治二十年、小澤辨蔵及國太郎の兄弟によって組織されやうとしたが、未だ職工の自覚が不十分だったため、愚かしい事から、発會間際に破船して了った。愚かしい事といふのは、ざっと次の如くで、その当時の職工の組合に對する熱意のなほ甚だ足りなかったことを物語るものである。
 それは明治二十年二月二十四日の事であった。小澤兄弟の鉄工組合組織計画は幸ひ同志の賛同を得て進捗し、その創立準備のため両國の井生村楼に懇親會を催した。会は型の如く開会の辞に始まって、新聞記者などの演説に移った。會衆はさすがに初めのうちは神妙にそれを聞いてゐたが、半頃にはそれにも倦いて、うしろでは博突が始って、演説などは聞こうともしない。しかし、これまでなら無事であったのだ。ところが、いよいよ散会ともなって帰途に就き出すと、誰いふとなしに「吉原へ行うう」「吉原へ、吉原へ」の声が起り、つひに集まった會衆が連れ立って吉原遊郭へ繰り込んで了った。その後、幹部は第二回の懇親会を開こうと通知を発したが、殆んど集りがない。調べて見ると、どの家でも妻君の反対があって、出席が不可能と判った。労働回結の準備行動が、不品行の集會となっだからである。
 これを今の労働運動と對照する時、全く隔世の感がある。その後、同盟進工組その他一二の労働固結がなされたが、時期末だ熟せず、大成を見なかったのは是非もない。
鉄工組合の流産のあった明治二十一年には、九州の高島炭鉱の坑夫の虐殺事件なるものがあり、労働問題は漸く世間の注目を惹いて来た。しかし、日清戦争の終る頃までのわが國の労働運動は一部小数の先駆の序曲的行動に止って、労働大衆はこれに尾いては来なかった。先駆者笛吹けども、大衆踊らずといふ状態だった。
 然るに、日清戦争が終局を告げ、戦後の経済界は蘧かに活気を呈し、明治年間から遅々として進展しつつあった資本主義の一大飛躍となり、會社工場の簇生となり、同時に賃銀労働者の激増となって、わが國の資本主義と共に、労働運動も茲に一進境を見るに至ったのである。

     職工義勇會の誕生
 即ちまづ明治廿九年、米國で働いてゐた高野房太郎、城常太郎、深田半之助の諸氏が帰朝して、東京に「職工義勇會」を組織した。(高野氏は高野岩三郎博士の令兄である)では、この団体は如何なる傾向のものであったか、同會が東京の各工場に配布した「職工諸君に寄す」と題する一文は実に我労働運動の最初の印刷物であったが、それを見ると、まづ「来る明治三十二年は実に我日本内地開放の時なり、外國の資本家が低廉なる我が賃銀と怜俐なる我が労働者とを利用して、巨万の利を博せんとて我が内地に入り来るの時なり」といふ国民主義的な言葉で始まり、産業革命の労働者に及ぼす悲惨なる影響を述べ、「返す返すも諸君は人の生命をを絶つ物は唯々殺人犯罪の凶器のみにあらざるを思はざるべからず」と論じ、次いで貧富平均の言ふべくして行はるべからざるを述べ、革命を断然誹斥し「革命により全然改良の実を挙ぐるを得ば結構の次第なれども世問の事は論者の思ふ如く左程単純の者に非ず」とし「元来貧富平均の事たる人に賢愚の別ある以上は其財産に不平均あるは誠に止むを得ざる」事であるからとて「尺を得ずして尋を求むるの愚」として急進的態度を否認してゐる。
 斯うした態度は、高野氏等の穏健なる思想を反映してゐるもので、高野氏らに共鳴して同志となった人々の中に、片山潜氏を始め、基督教信者の少くなかったのも故なしとしない。これ等の人々の一團は、社會主義者ではあったが、穏健なる労働運動者であったのである。現に「職工諸君に寄す」の結語として「我輩の諸君に忠告する所は、同業相集り同気相求むてふ人間至情の上に基礎を置ける同業組合を起して、全國聯合共同一致以て事を為すにあり」といってゐるのである。

    基督教を奉づる一団

 此の職工義勇団から明治三十年七月に「労働組合期成會」が生れた。発起者は前記の城、高野氏の外に新に松村介石、佐久問貞一、島田三郎、片山潜の諸氏が加はったが、いづれも敬虔なる基督教信者であった。そして、この組合は着々成果を収めて、同年々末には既に千二百名の會員を有し、期成會の後援の下に設立せられた労働組合の中には、三十年十月の鉄工組合、三十一年四月の日本鉄道矯正會、三十二年十一月三日の活版工組合等があった。
 右の中、鉄工組合の如きは、三十三年には會員五千四百を超えたが、一度、日鉄大宮工場の争議に敗北を喫するや、會費の滞納者三千五百といふ惨めさを現出し、つひに解散して了った。そして、大正元年、友愛會の起るまで、労働運動は殆んど発展を見ることなく、冬眠を続けてゐたのである。
 右に略述した如く、我國労働組合運動の黎明期は明治十七年東京印刷局の池田課長が印刷工組合の創立を計画してから、三十年労働組合期成會が成立し三十三年に至って衰運に傾くまでの約十五年間で、此間に成立し若くは成立せんとして中途崩壊したものは左の十五団体を数へる。

  印刷工組合
 明治十七年 東京印刷局池田氏の計画 (不成立)
 同二十二年 同秀英舎跡部氏の計画
 同二十三年 印刷工同志會
 同三十一年 深川活版工同志懇話會
 同三十二年 活版工組合
  (後年の信友會は活版工組合より出づ)

 同二十年 鉄工組合 (不成立)
 同二十二年 同盟進工組
 (三十年 労働組合期成會)後述
 同三十年 鉄工組合

  雑
 同二十九年 東京船大工組合
 同三十年  人力車夫信用組合
 同三十二年 料理人組合
 同三十二年 東京馬車鉄道馭者車掌同盟期成會
 同三十二年 日鉄矯正會

  總括的組合
 同三十二年 大日本労働協會
 同三十年  労働組合期成會

 右の中活版工組合は二千名、鉄工組合は千二百名、同鉄矯正会は千名(積立金一萬圓)労働組合期成會は五千名の會員を有してゐたが、未だ機の熟せざりし為めに多くは存立する事一年足らずで(中には三年以上存続したものもあったが)解散して了った。
 然らば当時の労働組合は如何たる目的を持ってゐたものだらうか。中には職工間の弊風を矯正するを目的としたものがあった。又発明を奨励する向もあった。
 
    弊風の矯正
 本組合は工芸技術の改良進歩を図るは勿論職工間の弊風を矯正し大に美風を養成し其位置を高むるものとす。(活版工)

    発明奨励
 尚組合員に於て社會公益となるべき機械を発明せしときは当工場に於て之を製造し発明者の名義を以て弘く発売すべし、 但その利盆は発明者の所有たるべし。(同盟進工組)

 しかしこれ等は仮令目的の一つでも重要目的ではなかった。然らば重要目的は何であったか。言ふまでもなく労資協調がそれであった。今、活版印刷工組合の會則を見るに、先づ資本家組合との提携を明かに規定して居る。これは團体交渉権を行使しやうとの下心があったのかも知れないが組合が身請保証をし、不穏の挙動ありし場合の処罰を約束し剰へ最後に於て「雇主に對し粗暴の挙ある者は二ヶ月以内の資格停止を命づ」とあるに至ってはこれが労働者の自動團盟の規則とも、叉集合契約の為めに團体交渉権を行使するものとも思はれない。
 要するに当時の労働組合は未だはっきりとした階級意識の上に立たぎりし為めに斯くの如き労資協調的の規定を置いたものと思はれるが、それと同時にこれを指導する人々の中に、基督者の多かったことが、矯激になり易き初期の運動を斯くも稔健に発足せしめたのではあるまいかとも考へられるのである。

    (この号はこれで終わり)