賀川豊彦の畏友・村島帰之(160)−村島「風水害地の人間愛」(2)

  「雲の柱」昭和9年11月号(第13巻第11号)への寄稿分です。

        風水害地の人間愛(2)
                          村島帰之

  (前承)
    
 母に比べると父は劣ります。私も父ですが――或る處では一家族がみな電桂によぢ上りました。一番先に上ったのは父親で、その次が娘さん、そして一番下が母親でした。處が潮が段々に満ちて来て、一番下の方にすがりついてゐた母親がまづ波に浚はれました。続いて娘さんが浚はれました。そして只一人、てっぺんにゐた父親が辛うじて生き残ったといひます。これは偶然の話だといって了へるかどうか――大いに考へさせられる巌粛な事実ではないでせうか。私は今更の如く「母」に對して頭が下るのを覚えます。

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 お母さん以外の婦人、例へは職業をもった婦人の方々の水害地においてなされた人間愛的行為は隨分多かったやうです。
 第一は小學校の先生――女教員の方々です。例へば芝居にまでなった吉岡先生も女教員です。吉岡先生は豊中の豊津小學校の先生で、御承知の如く五人の生徒をわが身一つでかばって殉職されたのでした。ほかに豊津小學では横山先生といふ女の先生も同じやうに生徒をかばって自分は犠牲となり、生徒をその翼の下に無事に守られたのだといひます。
先生の人間愛美談は隨分新聞に出ましたからここでは省きます。

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 先生以外の婦人では看護婦さんを挙げていゝでせう。
私の最も善く知ってゐるのでは外島保養院の看護婦長が殉職しました。外島保養院といふのは西淀川区大和田の南方小一里の處にある癩病患者の療養所です。癩病は遺傅ではなく傅染病であります。ですから、患者を隔離して置けば傅染する事がなくなって、やがては欧米諸國のやうに殆ど癩患者のゐなくなる日が来るといふので、患者さん達を隔離収容してゐる處なのです。

 外島には六百名近くの患者がゐました。この中百七十一人といふ多数の患者が死んだのです。その病院の看護婦長として本年四月高知から赴任した許りの中野しかのさんは、五十人の重病患者を看護していらっしゃいましたが、高潮が来て堤防が決壊し(外島へは一丈の高潮が来たと後で患者さんが私に話してゐましたが――)物凄い勢ひで水が押寄せて来るので立騒ぐ患者−‐殊に重症で立居不自由な患者さんを、中野さんは背負ったり、抱へたりして順次に安全な處へ運び出してゐられましたが、何度目かに、二人の患者を抱へて戸口まで出られた瞬間、大波のために浚はれて到頭、中野さんは殉職して了はれたのでした。
 私は外島へは翌日御見舞に參りましたが、まだ死屍壘々たる中で、中野さんの殉職の話を聞いて感激させられたのです。

 なほ外島で聞いた話の中で附加へて申して置きたいのは、軽症の患者達の勇敢なる行為です。重症の人は身動きも出来ませぬが、軽い人は日頃は野球などもやって居られます。今年の春も、私は患者さん達の野球試合に、はなむけするため、毎日新聞の優勝旗を持って行って贈呈式を行ひましたが、その元気な青年達は、水の押寄せる中にあって職員達に力を併せて重症患者たちの救ひ出しに努力せられたのでした。

 面白いことには、看護婦さん達が、却ってこの軽い青年患者に助けられたといふのです。間違ってはいけません。看護婦が青年患者を助けたのではない。患者である青年が看護婦を助けたのです。

 外島の患者には自治制度が布かれてゐて、患者さん達は日頃から助け合ひの訓練が出来てゐたのです。あの日における重病者の救出に、叉水害後の死体捜索や重病者の避難移転、配給品の分配などにも、この患者たちが大きな力を致しました。しかし海風の寒い外島でのテント生活ではからだによくないといふので、生残った四百二十四名の患者は、北は青森、南は九州全國各地の療養所ヘ一時、移されました。今頃は方々であの日の事を思ひ出してゐる事でせう。

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 次には産婆さんのお話をいたしませう。お産をしやうにも産婆さんを頼む資力のない貧困な妊産婦のため、大阪毎日新聞社會事業部では「無料助産」といふのをやってゐます。新聞社が僅かな報酬で篤志な産婆さんを嘱託しお産のお世話をして貰ふのです。

 四貰島の方に武内ジョウといふ嘱託産婆さんがおりますが、あの朝、水のついてゐる中をお産を頼みに武内さんの處へ来た人がありました。西九條小學校へ避難してゐるカード階級の妊婦が、水害で衝撃を受けて遽かに産気づいたといふのです。この産婦は方面委員の世話になってゐる貧しい人で、無料助産の取扱ひをしてゐる人でした。普通なら、どうせお礼もその人からは貰へないのだし、それにその辺一帯は海のやうに浸水し、自分の家も浸水をしてゐるのだから、直ぐには出かける気にはならぬ處でしたが、武内さんはわが家でなら兎も角、小學校へ避難して産気づいてゐる人を見拾てておくわけには行かぬといって、色気なしの話ですが、お尻からげをして、お産の道具を頭の上にのせながら、濁流の中を泳ぐやうにして小學校へ出かけて行って、五六時間もかかってすっかりお産をすませました。そして帰りには水かさが更に増してゐるので、此度は人家の家根を傅ったりなんかしてわが家へ帰って見たら、わが家は床の上を四五尺も浸水してメチャメチャになってゐたといふ話でした。

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 私は婦人の事を主にして話しましたが、勿論水害地の男だって人間愛を発揮した人が沢山にあります。學校と安全地帯を八往復もして學童百五十名と、女教師二名を救ひ、最後に溺死された堺市三宝小學校の栗山訓導の如きは代表的なものでせう。栗山訓導の死体は両腕を曲げた儘、つまり、コドモを両腕にかゝへた姿勢の儘だったといひます。その他勇敢な先生、機敏な級長、小使さん、職務の前には私情を忘れて働いてくれられた察官等々、隨分沢山の人間愛美談が、泥土の上に歿されてゐますが、此處では申上げる余白がありません。

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 兎に角、人間性の二つの相反する半面、闘争で互助の二つのある中に、この美しい互助の精神がこの水害の中に、発揮されて多くの人間美談を傅へた事は嬉しい限りであります。

 互助的精神は人間だけにあるのではありません。廣く動物社會には、この相互扶助の美風があります。馬は敵に襲はれて逃げる時、大勢が圓を描いて逃げるさうです。つまり追って来る敵の目前でクルクル廻るので敵の目がくらむからです。水害や火事や地震で避難する時、人を押しのけても自分丈け一人早く逃げやうとする人は馬に劣るといはねばなりません。

 猿は仲間に病気して毛の抜けたものがあると、毛の房々とある仲間がこれを抱いてやって、寒い夜など温めてやるさうです。避難民が凍えても構はぬ、自分さへ温まればいゝとする人は、猿に笑はれるでせう。

 カニは年頃になると甲羅が生え代ります。そのとき、外敵から襲はれると、負傷して死ぬ事が多いので、甲羅の堅いカニがその上をかばって歩いてやるさうです。幼き者、弱き者をいたはらぬ人間はカニに頭が上らないでせう。

 水害地に咲いた人間愛あるが故、人間は始めて萬物の霊長として誇り得るのです。互助愛なく、只利己心と闘争的精神のみに支配されてゐるなら、人間よ、呪はれてあれ……です。
 私たちは猿やカ二や馬に笑はれぬために、隣人を愛する心を失はぬやうにしたいものです。

     (この号はこれで終わりです)