賀川豊彦の畏友・村島帰之(159)−村島「風水害地の人間愛」(1)

「雲の柱」昭和9年11月号(第13巻第11号)への寄稿分です。

        風水害地の人間愛(1)
                          村島帰之

 大阪毎日新聞社會事業部では、風水害直後の九月三十日から大阪の水害地に五箇所の托児所を開いてゐますが、その内の一つ、大阪の南端鶴町の托児所を篤志で助けて下さってゐる一人の保母さんが――故橋詰せみ郎氏令嬢葭子さん――が、百数十名のこどもを相手に遊戯をやってゐますと、急に雨が降って来ました。

 で、その保母さんが、こどもを引連れてテントの中へ避けやうとしますと、靴がないのです。どうしたのだらうと思って方々捜しますと、一人の男の子がしっかりとその靴を抱えてゐます。

 「私の靴をどうするの」と訊きますと、その答へがいぢらしいではありませんか。
 「雨が降って、先生の靴がぬれたらいかんよって僕、抱えてるのや」

 鶴町は一丈近くの浸水を見た場所です。にわかの雨降りにその児はあの恐ろしかった日の事を思ひ出して、先生の靴をぬらしては大変と、後生大事に胸に抱えてくれてゐたのです。

 この水害地托児所のこどもの行為に、私たちは災害当日に行はれた人間同志の助け合ひの続篇を読む思ひがするのです。

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 人間には、互に争ふ闘争性と、互に親和し助け合ひをしやうとする互助性との二つの半面があります。平常なら理性によって闘争性を押へ、たとヘ鍍金でも、人に親切にし、人を助けやうと努めますが、非常の場合には鍍金をしてゐる暇がないのです。

 それで、あるが儘に闘争性を発揮して了ふ場合が少くないと同時に、また一方美しい互助愛が或は犠牲愛が、たくまずに殆ど反射的に発揮される場合もまた多いのです。

 私は大毎救護班の一兵卒として馳け廻ってゐる間に、到る處でこの人間の争ひと、助け合ひの両半面の表はれを聞く機會を得ました。
 此處では醜い争ひの半面には触れません。

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 美しい人間愛――その代表的なものは母性愛でせう。春日出の或る工場の女工さんは工場で働いてゐましたが、高潮の襲来と見て、家に残した二人のわが児の身の上を案じ、人々が危いといって止めるのを聞かずに、工場の窓硝子を破って勇敢にも濁流の中に飛込み、潮や流木と戦ひ乍ら到頭、濁流を泳ぎ切ってわか家へ立返り、二人の愛児を救ひ出したといふ話があります。

 あの濁流の中を泳ぎ切って家へ帰るなどは男でも容易になし得ないところです。女は弱しされど母は強し、の感を深くさせられる事実ではありませんか。

 尤もあゝいふ風な突発的な出来事ですからみんなあはてゝ了って、折角美しい母性愛を出しながらとんだ失敗をやった方も少くありません。

 阪神地方の或る病院に入院してゐられたお子さんのお母さんは、高潮が押寄せると見て、急いでわが子を蒲團に包み、これを背負ふて一所懸命に走りました。もちろん、わが身よりも背のわが児を一刻も早く安全地帯へ移さうといふ一念で、潮に押されながら逃れたのです。

 そして漸くに安全地帯へ、来てやれ安心と胸を撫で下し、さて、背中からわが児を下して見ると、どうでせう、いつの間にか病児は蒲團の中からずり落ちて了って影も姿も見えず、ただ蒲圃だけが残ってゐました――勿論、お児さんは潮に落ちて死なれたのでせう。

 このお母さんの深き母性愛には欠くる處がなかったのですが、ただ、ああいふ火急の場合とで、わが児を落して了はれたのです。子に對する愛の深かっただけ、このお母さんの歎きは察するに余りあります。

 風水害の後ち三日目に、多くの悲しみをこめた野辺の送りが方々で行はれました。或る自動車の運転手が私に話した話に、阿倍野へお葬式のお客を送って行くのは耐らぬといふのです。

 どうしてかといふと、子供を失った母親が、自動車の中で泣いて泣いて泣き止まない、このお母さんはきっと気が狂ふだらうと思った事も一度や二度でなかったといってゐました。きっと、自分が子供の身代りになって死ねばよかったといって歎いてゐられたのでせう。

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 あの烈風の吹き荒む朝、お子さんが風を怖れて、妙に學校へ行きたがらないのを叱って學校へ行かせた。處が一時間とは経たぬ内にわが児は倒壊校舎の下敷となって死んで了った。もしあの時、行きたがらぬわが児を學校へ無理にやってゐなかったら、こんなことにはならなかったのにと、まるで自分でわが子を死なせにやったやうに思って痛心してゐられる母親もありました。

 かうしたお母さんはきっと気狂ひのやうになってゐられれに違ひないのです。どのお母さんだって、子のためには生命を捨てるだけの深い愛があるからです。ところが子のためにわが生命を捨てることが出来ず、子に生命を捨てさせてわが身が残るといふ結果になれば、歎きは一層に深い訳です。

 これと反對の話もあります。鶴橋のある小學校で、あの烈風の吹きしきる時、學校へ行ってゐたわが児の上を案じて出かけられたお母さんが、わが児をあっちこっちと探し求めてゐる内に、校舎が倒れてその下敷となって死なれ、御子さんの方は幸ひに避難してゐてわづかの怪我で済んだといふことでした。

 この場合は、お母さんが亡くなられて、子が助かったのです。私はどっちの場合の方がお母さんにとって望ましいか知りませんが、兎に角、子を喪はれた母親の傷心は察するに余りあります。

 水害地に見た母性愛については、これ以上多くいふ必要がない。怖らく水害地のどの家でも母と子のある處、皆この愛の発露を見たに違ひないからです。

     (つづく)