賀川豊彦の畏友・村島帰之(158)−村島「アメリカ巡礼」

   「雲の柱」昭和8年7月号(第12巻第7号)への寄稿分です。

          アメリカ巡礼          アメリカよサヨナラ
                         村島帰之

   十月廿七日

 小川ホテルのパーラーで知合ひになった清水さんが、自分の自動車で桑港市中を案内してやらうといはれる。清水さんは自分のオフィスに勤めて居られる青年で、テニスの名手として知られてゐる人だ――と秋谷兄が紹介してくれた。

 そこで、早速出かけることとなった。秋谷兄の父君(小川ホテル経営者)および令妹百合子さんも同行される。

 桑港の街を出て、半時あまり坦々たるハイウェイを走ると、あたり一面、砂漠のやうな廣野に出た。聞けばそこは塩田であった。やがてベルモントといふところに出た。そこに住む福島県人森藤右衛門氏といふ邦人が大規模に日本の菊の栽培をしてゐるのを親察しやうといふのである。

 菊は白布を以て天幕のやうに天井と周囲をかこった中で、箱入娘のやうに育てられてゐた。花は大人の頭位もあらうといふ大きさで、その茎も五尺以上に達しやうといふノッポである。内地と違って狂咲きなどを珍重するのでもなく、華麗な花の大きさと、それに葉や茎の美しさをも併せて観賞しやうといふのだから、勢ひかうした栽培法をとるのだと説明された。

 この附近だけに三十軒の同業者があって、ニューヨークやシカゴ方面へ切花として送り出してゐるのだといふ。色は白と黄色の二種。

 菊畠を去って私達は再び桑港へ帰ることになったが、今度は遠く迂回してオークランドの方へ出た。リンドバークが練習したといふ飛行場の前を過ぎて、世界一を誇るオークランドとアラメダをつなぐ蜿蜒十数哩に達する自動車専用の橋を渡ってオークランドに入った。

 オークランドに入ると、街角に遊んでゐた一人の日本の娘が私達の自動車を見て、頓狂な声でユリーと呼んだ。同車してゐる秋谷氏の令妹百合子さんを呼んでゐるのだ。秋谷氏一家は元この附近に棲ってゐたので古馴染の百合さんの友達が百合さんの姿を見て呼びかけた。だが「ユリ」と呼び捨てにするのが我々には異様に耳に響いた。

 途中飛行場の、とある道角に大きな魚の捨てられてあるのが目についたが、きけばこの洲の法律で、魚を釣るのにも、その数やサイズに制限があって違反者は處罰されることになってゐる為め、みすみす此處へ捨てて行ったのだらうとのことである。

 「でも魚釣法違反の罪人なんか、暇令ヂェールに入れられても外出も自由で、活動寫真さへ見に行くことが出来るんですから、呑気なものです」
と、清水さんが説明した。清水さんも制限よりも少し余計に魚を釣って、やられたことがあるさうだ。貝も幾個以上拾ふと同様處罰されるといふ。

 夜は清水さん達とホテルのパーラーで歓談に時を過したが、髪が伸びたのを思ひ出して清水さんに連れられて近所の日本人の散髪屋へ行った。

   二十八日

 朝、内地から来朝した尺八の名手吉田晴風氏夫妻と一緒に買物に行く。夫人はゾロリとした日本服にフェルトの草履といふいでたちだから到る處で白人の注目の的になった。

 途中から吉田氏夫妻に別れて移民官詰所へ出かける。明日に迫った出発に先立ってアメリカを去る手続きをする為である。手続きは到って簡単で、移民官は直ぐオーライと言った。で、「サンキュー」と答へると、彼は愛相よく大きな手を出して、私の手を固く握ってくれた。
「これでいよいよアメリカを去るんだなあ」といふ気がして、何となしに名残惜しい感じが込み上げてくる。

 十一時から前日同様、清水さんの自動車で市中見物に出かける。前日同様百合さんも同行する。先づ金門公園の方へ出かけることとなって、途中、奮博覧會場跡のヨツト碇泊場を見る。

 数百艘のヨットが、内地の海濱の貸ボートのやうに並んでゐる。しかも、その何れもが、数千金数萬金を投じたでもらう豪奢なものだ。これを借切ってサンデーを遠くまで快走に出かける米國人の金持ぶりが偲ばれる。

 それから面積千五百エーカーのプレシデオ兵営の中を突抜け、砲口のあるあたりを通ったが、警戒は頗る緩やかで、警戒に立ってゐる兵隊さんも一向頓着してゐない様子だ。
この辺の隠蔽砲台はいふまでもなく日本を予想しての武裴だらうが、われわれ日本人が通っても、その自動車の内部をすら覗いて見様とはしない。私たちは寫真機や活動寫真機まで持ってゐたので、実はビクビク者でゐたのである。

 やがて金門湾頭にそそり立つスートロㇵイトの丘上に立った。太平洋が眼下に展けて、眺望絶景である。

 そこを下りて、オークションビーチの方へ行く途中に有名なタリフ・ハウスがあった。此處は太平洋の断崖絶壁の上に立てられた建物で、その下にはこれ亦名物になってゐるシールロックが横たはってゐる。そして其処には多数の海豹が岩の上に上ったり、海に飛込んだりしてゐる様が手に取るやうに見えた。

 其處から崖道を下れば一望何千町歩といふビーチである。渚には、なほ海水着を着た子供の姿などが見えて、まだ夏の全く去ってゐないことを語ってゐる。渚の上は美しい並木の間を縫ふて、廣いハイウエイが海岸線に副ふて、遠く遠くのびてゐる。

 そしてジョーイドライブの自動車の姿がここかしこに疾走してゐるのがながめられた。更にハイウエイの上には色々の娯楽場が立並んで、多くの客を集めてゐるが、それ等の店の上に一きは目立って空高く聳えてゐるものに、二つの水揚げ風車があった。ダッチビルと呼ばれてゐる如く、それはオランダ風の絵のやうな風車である。この風車とハイウエーの並木と、そして前に展けた海戸が一幅の油絵の絵面を作ってゐる。

 風車のそば近く行くと、それは案外に大きなものであることがわかった。私達はその風車の下まで行って振仰いだ。

 ダツチ・ビルの近くに、一隻の一本帆柱の船が地面の上に鉄柵をめぐらして置かれてあるのが目に這入った。近づいて説明書を見ると、これこそ一九〇九年六月、南極探検家アムンゼンが桑港市に寄附した「ヨウ」と呼ばれる帆船で、アムンゼンが最初の南極探検に使用した由緒深き船であった。その大きさは、−‐内地の淡路通ひの汽船にも及ばないやうなものである。これでよく南極まで行けたものだと感心させられた。探検の出来たのは「船」ではない「人」なのだ。

 オーションビーチを去って更にリンカーンパークの方へ行く。廣いプールを外から見て公園の池のほとりに出た。折からの快晴に子供を連れた母親の姿が池畔に見受けられた。池の中にはスワンやおしどりが平和さうに泳いでゐた。

 ホテルヘ帰って夕飯を済ました後、又もや清水兄に連れられて、日本人町へ行ってそば屋へ這入る。
食後附近に住む大毎通信員二宮屏巌氏を訪問。同氏が嘗て高松宮殿下の御案内をした話などをきいて帰って、十一時近く寝る。もうアメリカで寝るのも今夜限り、落着かない気がする。

   二十九日

 いよいよ今日は出発だ。朝、正金銀行へ行ってお金を引出す。守衛のヒンデンブルグ将軍が、「いよいよお帰りかね」と言って愛相よく話しかける。
 ホテルの仕彿ひなど済まして、正午少し前、埠頭へ出かける。秋谷兄妹、清水さんが送ってくれる。今井さんを送って山田さんが見える。

 船は浅間丸、二等――郵船支店長の好意で、四人一室の処を私一人が専有といふ優遇振りだ。同船の今井よね子さんも二人一室を一人で占領してゐる。デッキヘ行くと、橋戸頑鉄氏も同船だ。二宮屏巌氏も送りに来てくれてゐる。橋戸さんを送ってスタンホード大學の野球部監督も来てゐる。
正午、船は動き出した。秋谷兄達の振るハンカチが次第に遠くなって――。
 サンフランシスコよ! アメリカよ! サヨナラ!!!