賀川豊彦の畏友・村島帰之(157)−村島「アメリカ巡礼」(3)

  「雲の柱」昭和8年6月号(第12巻第6号)への寄稿分です。

        アメリカ巡礼(3)
        サンクインテン監獄を見る
                         村島帰之

   (前承)
    食堂
 食堂へ這入る。恰度正午近くで、食堂一ぱいに御馳走が並べられてあった。
 「これで何人分ですか」ときくと、驚くではないか「三千人分」だといふ。しかし、四千五百の囚人を全部食べさせ切るには、この大食堂も不足で、二度に分けて食事をさせる勘定なのである。

 此處で看守は、自分たち白人の為に弁護の言葉をさしはさんだ。
 「在監者四千五百といっても、その中二千人まではメキシコ人です。又約五百人がインデアンです。その他、南欧の移民なども多いのです。この監獄は、だから、いはば外國人のために作ってあるやうなものですよ」
 確かにさうだ。ただその外人の中に少数乍ら邦人のゐるのが悲しい。

 テーブルの上に載せられた食事を見ると、何れもアルミの皿に盛られてあって、クリーブランドの時に見た時のやうな御馳走はない。今日の献立はと見ると、傍の黒板に、次のやうに記されてゐた。
 朝 Hamburger bolls. Corn bread. Steamed potetes. Caff.
 昼 Boast beef. Brown gravy. Steamed potetes. Caff eith milk in Suger. Wheat bread

 食堂の正面には、ステーヂが造られて、そこにオーケストラが設備されてゐるのを見た。マイクロフォンもあった。贅沢なアメリカの囚人は、妙なる仲間のオーケストラバンドの奏でるメロデーをききながら食事をとるのである。仮令、食事は少しは粗悪でも、音楽を肴にすることによって、彼等はシャンデリア美しきホテルのホールで会食してゐるやうな気になるのかも知れない。

 食堂の外へ出ると、もう何百人かの囚人――その中には邦人もゐるらしい――が正しい列を造って食堂の開くのを待ってゐる。彼等は朗らかに口笛などを吹きながら、貧弱なる東洋からの観察者を眺めた。中には「グッドデー」など声を掛ける者さへあった。私達は、彼等が、すべて囚人であって、しかも何千人といふものが集團してゐるといふことをも忘れて、片手を高く挙げて挨拶をしながら、その前を過ぎて行った。それは全く親しみ其のものだった。

 日本の囚人は監獄に這入ると丸坊主にさせられるが、アメリカの監獄では髪を伸ばした儘だ。見るところ、彼等はすべて立派なゼントルマンだ。處が、中に間々、頭を丸坊主に刈ったものがある。きいて見ると、それは、独逸系の囚人であった。独逸では國難に處する為に丸坊主に成ってゐるといふことをYMCAの大會でも聞かれてゐた處だ。

 尤も、独逸人以外でも、刑期が長くて当分裟婆に出る見込みのないものは独逸流をとってゐるといふことだが――食堂の前には便所があった。そこには視界を遮る戸も何もなく、便所の公式を破って、全く野天に曝されてゐるのだ。それで用を足すべく、便器の上にある時、彼の姿は何處からでもその全貌が見られるといふ訳だ。便所の中で仲間が謀議したり、その他不正なことをするのをふせぐ為である。

    自由を我等に?

 食事の番の来ない者でもらう、道端でチェス(西洋将棋)を弄んでゐるものがあった。煙草を喫ってゐるものもあった。いやそれ丈けではない。キャンデーを頬張ってゐるものすらあった。友人から金の差入のあるものは、かうした嗜好物や間食をも、或る時間を限って摂ることを許されてゐるのだ。

 新聞も娑婆の新聞を見ることは許されないが、監獄で発行する新聞は配られる。一定の日を限ってラヂオも聞ける。映画も見られる。それに図書室もある。がそれだけではない。囚人のために野球を遊ぶことが許されてゐて、その為に、廣い野球グラウンドがつくられてあるとは!

 私達はその野球場へ行って見た。内地の中學校でも、これだけのダラウンドはないであらうと思はれるやうな設備だ。
 「日曜には、此処で囚人達が野球のマッチをしますが、時には、對外試合をも行って、トロフイの争奪戦をやります。党監獄のチームは中々強いので、トロフイもかなり沢山持つてゐます。何しろ囚人の中には、職業選手に近いものもゐるんですからね」
と看守が説明してくれた。

 これではチヤップリンが紐育州のシンシン監獄へ出かけて行って、芝居をして見せたといふこともアメリカとしてはさう大して珍らしいことでもないのだと驚かせられた。

 然し、獄内は矢っ張り獄内である。ルネ・クレールの「自由を我等に」の映画ではないが、全き自由が彼等に許されてゐる訳ではない。巌格なる規律と、監硯の下に、僅かに人間として当然与ヘられ得る最少限度の自由が許されてゐる許りだ。

 その証拠に、もし彼等が監獄の規律を破るやうなことがあれば、直ぐ牢獄にぶちこまれる。笑ってはゐけない。今度の牢獄は、前の牢獄と違って、光明を与へられない徳川時代の日本の牢獄その儘の暗室なのである。

 ゴリキイの夜の宿の歌に「牢屋は暗い」といふのがあるが「暗い」といふことが牢屋を表明してゐる言葉だとすれば、この牢獄内の牢獄のみが牢獄であって、それを除いた他の部分は總て牢獄ではない訳である。
 牢獄にも黎明が訪れたのだ。太陽を見る自由だけは彼等に与へられてゐるのだ。

    死刑執行場
 私達は、囚人がやってゐる理髪場を見、アジサイの花咲く病室を外から覗いて、最後に死刑執行場に這入って行った。危なっかしい鉄のブリッヂを、何段か上り尽くすと、早くも陰惨な気が漂ふてゐるのを感する。

 一番奥の一部屋は死刑執行前の幾分かを留置してをく部屋で、室内には飾り一つなく、だだっ廣い一部屋のその叉中に、一部屋を造ってある。死刑囚はこの「部屋の中の部屋」に入れられて最後の時を過ごすのだ。見廻すと、窓から射す陽も思ひなしか暗い気がする。また毎日、この部屋が使はれるといふのでもないので、部屋全体がかび臭い感じがする。私達はまるで其處に死刑囚がゐでもするやうに、靴音をしのばせて次の部屋に這入った。この部屋こそ死刑執行室なのである。

 サンクインテンでまだ電気式を探用してゐないで、内地でなら盆踊りのやぐらとでも形容したいやうな高い台が部屋の中央にこしらへられてゐる。それが死刑台――絞首台――である。

 台の上部にはブランコの上の上木のやうなものがあって、そこから無気昧な輪形をした首をしめる紐がブラ下ってゐる。その紐の先は側面にある鉄の鎖に続いて、鉄の鎖の先には、四百パウンドの四角な鉄のオモリが下がってゐる。又、絞首台上の中央、恰度、首をしめる紐のぶら下ってゐる下あたりに、四角に仕切った所があって、その四角な板は、囚人を其處に載せた儘、下へ落ちる仕掛けになってゐる。つまり、死刑囚がその四角形の上に立つとその首に輪がかり、板が下に抜けると同時に、全身を宙にぶら下げることになるのである。彼自身の体重と四百パウンドのおもりが左右に引合って首をしめるのだから、数秒を出ですして絶命して了ふのである。

 幸田牧師と私は看守のうしろから死刑囚のやうな足どりで絞首台の上に上って見た。上りながら階段を数へて見ると、まさに十三段、西洋人のきらひな十三である。

 「あなたがこの四角形の上に立ったと仮想して今、死刑を執行します」
 さう言ひながら看守がスイッチをひれると、私か立ってゐる筈の四方形がガバッと大きな口を開けた。其處に立ってゐたであらう私は?

 死刑終わって、下りて見ると、絞首台の下に、死刑見届のお役人達が座る椅子が置いてあったが、それは何れも前後に動く遊動椅子であった。察するところ、死刑立会人も血の通ふ人間である。死刑囚の断末魔を正視するに偲びずして、身内に感ずる戦きを、その動く椅子に托して前後に大きく動かしながら、悲しき幾分かを過ごすのであらう。

 私はその椅子に死刑執行官の心理作用を見た気がした。が、それにも増して死刑囚の心地はどうだらう。私は死刑の不当を泌々考へさせられた。部屋の隅には、一死刑囚のはいてゐたといふ、無闇にでっかい靴や着衣が無気味に置かれてあった。隣室には、今日までに使ったといふ十幾つかの鉄のおもりが、楽屋裏の区割を支へるおもりのやうにおかれてあった。ああ、この鉄のおもりが、今までに何百人といふ人の命を奪って来たのだ。おもりは多くの悲劇を目のあたり見て来てゐるのだ。

    無期刑の邦人に會ふ

 私達は死刑執行室を出てホッとした。そして獄内の視察をこれで終わって、元来た道を逆戻りに獄外へ出た。この時、幸田牧師はロサンゼルスに捷た田中といふ青年が、メキシコ人を殺害したといふ廉で、死刑の宣告を受けてゐたのだが、州知事親日政策から、牧師團の陳情を容れ、特に刑一等を減じて、無期に處せられ、現に此処に居る筈だといふので「一寸會って見ます」と言って、事務所に、面会の手続きをとられた。私達はそれで面会所へ行くことになった。

 広い、よく陽の当る部屋に、恰で銀行のそれのやうに、高い一聯のテーブルを中にして、幾組かの囚人と面会人とが話し合ってゐる。日本の監獄のやうに、さして両者に距離をおいてゐない。悪意があれば、物や手紙をそっと届ける事も出来る。映画に見るやうな、網を距てての面會でもない。看守も遠くから大勢を一緒に監視してゐるに過ぎない。

 やがて田中が看守によって導かれて来た。そして幸田牧師だ相對して話し出した。
 私は縁もゆかりもないものが面會に来るといふことが、彼の気持ちを損ふであらうと思ってわざと片隅に避けてゐた。彼は幸田牧師等の親切を心から感謝し、自分の殺人が、全く冤罪であるこを述べてゐるらしかった。

 私達は、面会所を去って、第一門に来た。すると、看守は這入る時に私達がサインをしたブックを取出して、さっきのサインの側へ、再びサインをするやうにと命じた。つまり、さっき這入った參観者が、今、たしかに出門するのだといふことをそのサインによって証明させやうといふのだ。言ひ換へれば、これによって、囚人でないものが入場し、その代り、一人の囚人を獄内に出すといふ替玉が出来ないやうにするのである。

 私達は牢獄を釈放されて、再び娑婆に戻った。
 「どうです、監獄の感じは?」
 「自由だと思ひましたね、看守が武器を持って立ってゐることを除いては――」
 「さうですね、この監獄に居るものは、あんまり出獄を喜こばない相です。本当の自由があって、それでゐて、パンの喰外れは絶對にないのですからね。で、行状のいいものを、早く出獄させやうとすると「もっとおいてくれ」と頼むさうです」
 と、幸田牧師は笑ひながら話した。

 「現に、某といふ日本人は、行状がいいので、若し日本へ帰るなら、刑期を短くして、明日にでも釈放してやらうと言はれましたが、日本へ帰ったって、生活のめどがあるぢやなし、幸ひ長年この監獄にゐて、かなり顔も利くので、結局此処にゐるに越したことはないといふので、刑期の短縮を、こっちから御断りを言ったさうです」

 かうきいて行くと、牢獄は何の為にあるのかといふ疑問さへ起るのだった。アメリカの牢獄は、囚人の性慾の自由を奪ふ以外、多くの労働者が現に受けてゐる自由の、それよりももっと豊かな自由を確保されてゐるのだ。自由を我等に、といふ叫びは、監獄よりもむしろ巷の労働者から叫ばれる言葉のやうに思はれた。

 裟婆の労働者は、囚人の得てゐる程の自由をも得てゐない。少くとも、経済的に言って、監獄は生活が保証される明るい社會であって、巷は、反對に飢餓と、窮乏の暗き牢獄である。
 社会は勤勉な外の社會の労働者を遇する道をもっと考へ直す必要がある。
 と同時に、犯罪に對する刑罰といふものも、もうそろそろ考へ方を変へねばならぬ。犯罪者は病人なんだ。社会の欠陥と、個人の悪質とが生んだ病人なのだ。この社會の病人を収容する為には、病院が唯一の場所である。そして牢獄はやがて解消する日が来なければならぬ――私はそんなドグマを言ひながら、幸田牧師と共にホテルヘ戻って来た。

 本常に今日はいい見學をした。活動寫真に行かないで、夜の幾時間かホテルのパーラーで和やかな気分で秋谷一家と話し合った。

    (この号は、これで終わり)