賀川豊彦の畏友・村島帰之(156)−村島「アメリカ巡礼」(2)

  「雲の柱」昭和8年6月号(第12巻第6号)への寄稿分です。

        アメリカ巡礼(2)
        サンクインテン監獄を見る
                          村島帰之

   (前承)
    鉄砲持った看守
 いよいよ中に這入る。と、構内は廣々としてゐて、海沿ひに花園さへ作られてある。石で畳んだ鋪道を進むと、正面は城のやうな獄舎が海に臨んで建ってゐる。

 獄舎の反對側の小高い丘の上には、高い望楼か建ってゐて、その上に鉄砲を横抱きに抱いた看守が立ってゐる。物々しいこの武装した看守の存在を見て、私は始めて牢獄に来たんだナといふ思ひがして来た。

 受附で、重ねて来意を告げると、
「あなたは學校で何を教へてゐますか」
「犯罪社會學」
 私の答へをきいた受附子は、アヽ、仲間だなといふ風な親しみのある微笑を見せて、一人の監守が直ぐ様案内をしてくれることになった。

 いよいよ獄舎の前に立った。徳川時代の、大名屋敷の門のやうに頑丈な扉が閉ってゐて、二三人の看守が物々しく警戒してゐる。私達が行くと.一人の看守が、
 「武器や新聞は勿論持っていらっしゃいますまいね」
 と丁寧に訊す。

 私の飯の種の新聞が、武器と同一に取扱はれたるなんぞはこれが始めてだ。
 そこで門の大扉の一部を匹切って作られたくぐり戸の大きな錠前が看守の手で外されると、大砲でも打抜けないやうな部の厚いくぐり戸がギイーと開いて、私達は呑まれるやうにその中に這入って行った。

 内部は廣々とした庭で、巌めしい幾棟かの獄舎。廣場の一部に美しい花園のあるのも獄舎の気分を和げる。

 私達は最初に指紋室に案内された。これが入獄の際の順序なのである。
千八百九十二年、この監獄の設立されて以来、此處に収容された囚人の指紋が全部ある訳だ。現在の在監者四千五百人も亦此處で指紋をとられたのだ。指紋のとり方は日本と変わりがない。謄寫板のルーラーのやうなもののつかはれることも日本と同じだ。

 正面には、此處に収容されて死刑を執行された者の寫真が貼られてあるが、日本人のやうな顔があるので、或は同胞でないかと思って近づいて行ってその名を見ると、大概は支那人であった。

 「あなたのお國の人は犯罪率が低いです。此処で死刑になる東洋人は九割九分まで支那人です。たった一人新野とかいふ日本人が死刑になったのが唯一の日本人であったと思ひます」
 かうほめられると満更悪い気持もしない。

    千人を容るる監房
 指紋室を去っていよいよ監房へ這人る。例によって大きな錠前を開けてくれるのだが、今度はどうも看守ではなさ相なので、同行の看守にきいて見ると、
「看守ではありません。囚人です。行状のよい囚人には、かうして看守の代りの仕事もさせてゐるのです」

 アメリカでは曾て獄内で大暴動が起った実例がある。
さうした場合、この看守役の囚人がどういふ態度に出るか、恐らく本職の看守以上に囚人に對して弾圧を加へるんではなからうか――そんなことを考へながら中に這入る。

 監房は、群集心理の醸成を慮って、幾つかの匹劃に分けてあることは、これも日本の監獄と変りがない。只おどろかされたのは、大監房だ。大造船所あたりでなければ見られないやうな周囲及び天井を、すべて鋼鉄で造られた廣さ数千坪、高さ数十丈の大ホールの下、中央部を限って、何百本、何千本の鋼鉄の格子の分列式だ。

 動物園の猛獣の檻のやうなものが平面に幾百となく立並ぶと共に、立体的にもそれが五階になって重ってゐるのだ。それでこの一監房の中丈けで、優に千人に近い囚人を収容することか出来るらしい。

 私達は暴動が起った時にはどうするだらうといふ疑問が胸に湧かざるを得なかった。然しその檻から目を離して周囲を見ると、其處には檻と並行して、幾段にも軍艦のブリッヂのやうな歩行道が造られてゐる。

 いふまでもなく、其處を武器を持った看守の幾人かが巡回して、不穏な挙動でもあったら、直ぐズドンと一発お見舞申すのだ。――と知ると、さっきの疑問も直ぐ吹き飛んで了った。

 監房の一つ一つに近づいて行って見ると、一つの檻の中には、二人の囚人が住むやうになってゐる。恰度、寝台車のやうに、ベッドに段に成ってゐて、二人一緒に鍵をかけられて寝るしかけである。

 よく見ると、中には、母親らしい女の寫真を飾ったり。花を飾ってあるベットもあった。ベッドの下に楽器のあるのは、この監獄のオーケストラ(無論囚人によつで組織せられる)の一メンバーであると教へられた。

 昼間は作業があるので、囚人の姿は一人も見えない。夕方作業が終ヘて、此処に帰って来る時のその光景を偲びながら外へ出た。

    武装した作業場
 次は作業場だ。人口の塀の上には、武装した看守が立ってゐる。
中へ這入ると、監房におけると同じやうに、作業場の上部に梁のやうなものがあって、その上を鉄砲を持った看守が絶えず廻って、上から囚人の作業振りを監視してゐる。柢房よりは、ここの方がより暴動化し易いためであらう。主たる仕事は麻袋の製造だ。

 次の部屋へ行くと家具の製造だ。又次へ行くと、印刷屋、靴屋など等々。
 其處で私は、
 「一体どの位の時間働いて、どの位賃銀が貰へるのですか」と看守にきいて見た。

 看守は「賃銀?」と問返した。
 「朝七時半から午後六時まで働くが(九時間半、食事時間一時間として八時間半)賃銀なんて払ひませんよ。労働がつまり懲罰なんてすからね」と答える。

 私は、日本の監獄の話をして、金持の國のアメリカとしては、無報酬はあまりひどすぎはしないだらうかと反問して見た。

 「賃銀はやりませんが、出獄した場合、国へ帰るのに、旅費も要るでせうし、雑費も要るでせうから、總ての出獄者に一律に十五弗の金を与へてゐますから、それでいい訳ぢやありませんか」
 といふ答へであった。

 加州ではかうであるが、前にオハヨウ州のグリーブランドのワーカースハウスを見た時には、毎月十五弗づつの賃金を払ってゐたのと思ひ比べて、アメリカの監獄の取扱いといふものが各州によって、非常な差のあることを教へられた。

     (つづく)