賀川豊彦の畏友・村島帰之(155)−村島「アメリカ巡礼」(1)

  「雲の柱」昭和8年6月号(第12巻第6号)への寄稿分です。

        アメリカ巡礼(1)        サンクインテン監獄を見る
                          村島帰之

    桑港マーケット街
   十月二十五日
 いよいよアメリカを去る日が近づいて来た。殊に、同行の賀川、小川両先生に先へ行って了はれた後の淋しさは一入だ。ロサンゼルスと違って、桑港の十月末の気候は、もう涼しすぎて内地の程が偲ばれる。早く故國へ帰り度いといふ気持と、もう暫く居度い、二度とは一寸来られぬアメリカなのだからといふ二つの気持−−とこの二つが心の中で取組合ふ。

 兎も角、故國へ帰る日は近づいたのだ。何かしら買物でもしたい気持になって、ただ一人ポカリとホテルを出ると、足は自然にサンフランシスコを横断する大通り、マーケッㇳ街に出て了った。此處は桑港でも、目貫きの下町の大通りだが、内地の都會のやうに自動車がやけに警笛を鳴らさないのと、電車がチンチンとベルを鳴らさないのとで、案外の物静かさ。
  
 滞米四箇月、アメリカの摩天桜にも馴れて、建物の高さはもう少しも注意をひかなくなった。そして目は下に向いて、各戸のショーウインドウに注がれる。

 ビンク色に塗られた家は、拾銭均一店だ。中へ這入ると何でもある。凡そ我々の家に必要なもので此處にないものといへば、まあ、ファニチュア位なものだらう。私は此處で幾つかの品物を買ったが、つひ「安い」「拾銭」に釣られて、一軒のテンセン・ストアでの買物が一弗二弗になる。拾銭店の狙ひ處もそこにあるのだ。

 テンセン・ストアでの品物の物色に疲れたら、店の一隅には、これ心拾銭均一のいろんな軽い飲物が用意されてゐる。一体に、アメリカは空気の乾燥してゐるせいか、飲物の設備は他の何物にも勝って整へられてゐるやうだ。

 百貨店は概ね大摩天桜の一つを構成してゐるが、此處は叉拾銭均一店で買へない比較的高價品の一切を揃へてゐる。

 百貨店の賣子は女が多いが、男物の洋服附属品賣場などには男賣子も居て、僕等のやうな田舎者を見ると、つかつかと近づいて来て、これは如何で――などと奨めてかかった。

 百貨店の書籍部では、内地て同じやうな圓本の山! 試みにその中を漁って見ると、パスレーの「アール・カポネ」の赤本などが出て来るかと思ふと、ラッセルの「自由への道」なども顔を出した。普通の本では、伝記物の全盛を思はせて、曰く、リンカーン傅、曰くワシントン傅、曰くホイットマン研究等々――。

 大通りには映画館もちらほら見えた。人口を狭く取ってゐるのも地代の高いアメリカなら当然のことだらう。映画のスチールの看板が軒下の路上に、行人のと,平行に位置してゐるのは、内地の映画館の、仰ぎ見なければ目に這入らない軒看板とは趣を異にしてゐる。どうも、並行に置く方があごを疲らさないだけでも合理的のやうに思ふ。

 果物店屋の多いこと、日本人が作ったであらうところのオレンヂや、瓜類が渇いた咽喉に食慾をそそる。

 私はかうしてマーケツト街を束から西に、そして西から東に幾度か往来し、市廳辺までも足を延ばして、小半日以上の時を過した。そのくせ、買得た品物といへば幾つかの拾銭均一品を除いては、殆ど何物もなかったのである。

    金門湾を横切って

   十月二十六日
 早朝、幸田牧師に、サンクインテン監獄へ連れて行って貰ふ為に、フェリーステーションへ出かける。

 サイクインテン監獄観察は私のアメリカ視察のプログラム中でも、最も重要な一つである。始め、サクラメントの村岡牧師と一緒に行く約束がしてあったのだが、氏に差支へが出来たので、幸田牧師を煩はすことになったのだ。

 今日は金門湾を横切って、桑港の對岸へ渡るので、オークランド行きのとは別なフェリーを取る。何時も遠くから眺めてゐたアルカトラ島の前を通る。船から見上げると、全島岩で成った島の上に、三階建のがっちりした大きな建物が蟠居してゐる。これが名高い陸軍監獄だ。作業中なのか、囚人の影も見えない。對岸の桑港は間近だが、一人として此處を逃出して成功したものはないと言はれるだけに、とてもの急流であるらしい。

 行くこと約三十分にして金門湾と反對側に、一つの巨大な島が見えた。平ぺったい灰色の島である。これこそ幾多同胞の夢と涙の残るエンゼル島である。

 説明するまでもなく、此處は移民法に触れた渡航者を一時収容して調べをする處。折角遥々とアメリカまで来ておきながら、トラホームの為とか、見せ金が足りないとか、等々のために、目の前にアメリカを見ながら上陸を許されず、次の便船でこの島から故國へ送還されたる人の数は抑々幾何に上るだろう?

 船はエンゼル島の前を過ぎて間もなく、桑港對岸に着、そこから暫く電車に乗って更に大型のバスに乗替へると、約十分にして鉄門いかめしい建物の前に着いた。これぞ名にしおふ加州州立サンクインテン監獄である。南は海に面してゐて、眺望は素的だ。

 鉄門の側のくぐりに立って、参観の希望を述べると、直ぐオーライと来た。何故かう簡単に関所が通れるかと言へば一人がミニスター(教役者)で、一人がプロフェツサーであるからである。

 始め、私は新聞記者として參観を申し込む予定であったが、嘗てアメリカの新聞記者が此處を參観した際、靴の中とかに、写真機をひそませて、一死刑囚の写真を撮ったとかいふ事件以来、新聞記者は一般の在監者の状態は參観させても、死刑囚の處には寄せ付けないときいたので、俄かに大阪毎日新聞記者の名刺をしまひこみ、関西學院現講師の肩書で参観を申込んだのであった。私は、自身、関西學院講師の肩書を利用したのは、講師になって以東約六年今日が始めてである。

 正門の守衛は、大きな簿記帳のやうなものに私達の署名をさせた。私にその自分の名前と肩書きとを其處に書いた。携帯品の寫真機は此處であづかってくれる。それで入場オーケーだ。

       (つづく)